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第十六話 鳥居潜り

社印喰いの件から数日。


神代一族の内側が、静かにざわつき始めていた。


蒼麻本人は、まだ知らない。


和灯で酒を飲み、蓮二に小言を言われ、真響に嫌味を言われ、麻那からの連絡にため息をつく。

そんな日常の足元で、神代の奥の方では、すでにいくつもの視線が動き始めていた。


きっかけは、祝詞盗みの一件だった。


蒼麻が、神代家の祝詞を口にした。


本人が教わったはずのない言葉。

麻臣が封じたはずの声。

器の蓋が、ほんの一瞬だけ開いた証。


さらに、御神酒腐らせ、絵馬返し、名札のない子。

それぞれの案件で、蒼麻は祓うのではなく、縁を戻し、名を返し、願いを分けた。


神代の術者たちから見れば、それは異質だった。


強く祓うのではない。

力で押さえるのでもない。

だが、怪異の在り方そのものを変えてしまう。


そして何より、蒼麻の周囲には黒狐がいるのだった。


真響(まゆら)


神代一族の古い記録を知る者なら、黒狐という存在を軽く見ない。


黒は水。

狐は土。

水剋土を背負う呪物であり、同時に祥瑞。

穢れを受け止めるもの。

記憶を沈めるもの。

そして、ときに神狐へ至る五柱の一つ。


その黒狐が、封じられた器のそばにいる。


偶然で済ませるには、あまりに都合がよすぎる。


その日、蒼麻は麻那に呼び出され、都内の古い神社へ向かっていた。


名は、影渡(かげと)神社。


かつて神代一族が祭場として使っていた場所だという。

今は小さな社だけが残り、一般の参拝者も少ない。


麻那は電話で言った。


『鳥居をくぐった人が、別の場所へ出ちゃうの』


「迷子案件?」


『普通の迷子なら、私もお兄ちゃんを呼ばない』


「最近の麻那は普通の基準がだいぶ神代だぞ」


『自覚はある』


『くぐった人は、数分後に戻ってくる。でも、戻った時に記憶が抜けてるの。何を見たかは覚えていないんだけど全員、“赤い紐のようなものを見た気がする”と言ってる』


「赤い紐?」


『うん。それと、古い祝詞(のりと)の声』


蒼麻は黙った。


祝詞。


その単語が、最近やけに近い。


『お兄ちゃん』


「何だ」


『今回は、真響さんも来ると思う』


「いつも来るじゃないか」


『そうじゃなくて』


麻那の声が少し硬くなった。


『今回は、真響さんがいつも来る理由も見えるかもしれない』


その言い方が、妙に引っかかった。


影渡神社の鳥居は、古かった。


朱色は剥げ、木肌がところどころ見えている。

だが、朽ちてはいない。


むしろ、妙に生々しい。


蒼麻は鳥居の前で足を止めた。


「……嫌な感じだな」


隣に立つ麻那が頷く。


「ここ、神代の古い祭場跡なの」


「それを先に言ってくれよ」


「言ったら来なかった?」


「来るけど、心構えが違う」


「じゃあ結果は同じだよ」


「妹が強い」


麻那は笑わなかった。


鳥居の向こうには、短い参道が続いている。

その奥に小さな社。


ただ、それだけのはずだった。


だが蒼麻には、鳥居の内側が少し歪んで見えた。


空間がずれている。


鳥居が入口ではなく、どこかへ通じる“口”になっているような感覚がある。


「入るな」


背後から声がした。


蒼麻は振り返る。


黒髪の美麗な女が、木陰に立っていた。


真響。


蝋梅の香りが、冷たい風に混じる。


「遅かったな」


蒼麻が言うと、真響は目を細めた。


「警告を第一声にした相手へ、よくその返しができるな」


「もう慣れてきたから」


続いて麻那は真響へ軽く頭を下げた。


「真響さん」


「妹」


「名前で呼んでいただいても?」


「考えておく」


蒼麻が小声で言う。


「真響、名前呼ぶの苦手なのか?」


「重いからだ」


その言葉に、麻那が少しだけ目を伏せた。


名札のない子の件を思い出したのだろう。


蒼麻は鳥居を見る。


「で、入るなってことは、ここに何があるんだ」


真響はしばらく黙っていた。


そして、低く言った。


「ここは人間が神を縛った跡だ」


麻那の顔が強張る。


蒼麻は眉を寄せた。


「神代一族か」


「そうだ」


真響は鳥居を見た。


「ここは、神を降ろすための場ではない。降りたものを逃がさぬための場だ」


蒼麻の胸の奥が、じわりと熱くなった。


逃がさぬ。


その言葉が、嫌に響いた。


「俺に関係あるのか」


麻那が答えるより早く、真響が言った。


「ある」


蒼麻は真響を見る。


「なにか知っているのか」


「見れば分かる」


「またそれか」


「お前の封印には、鳥居の(ことわり)が混じっている」


麻那が息を呑んだ。


真響は続ける。


「入口であり、境界であり、通すものと通さぬものを分けるもの。麻臣という男は、お前の中に鳥居を作った」


蒼麻は、思わず笑いそうになった。


笑えなかった。


「俺の中に、鳥居?」


「そうだ」


「神を通すため?」


「違う」


真響の声は少し冷たい。


「通さぬためだ。だが、完全に閉じれば器が腐る。だから酒を通じて、土地の気だけは流した」


麻那が苦しそうに目を伏せた。


蒼麻は、静かに言った。


「御神酒と地酒の話か?」


麻那は小さく頷く。


「父さんは、お兄ちゃんの中に降りようとするものを閉じた。でも、完全に閉じると器がだんだん壊れる。だから全国の地酒を通して、土地の気脈を薄く入れる仕組みにした」


「俺が酒を好きなのは、もしかしてそのせいなのか?」


麻那はすぐに答えられなかった。


その沈黙だけで十分だった。


蒼麻は鳥居を見た。


「嘘だろ」


真響が静かに言う。


「だが、お前が酒を嫌わずに済むようにはしてあるようだ」


蒼麻は真響を見る。


「それ、慰めてるのか?」


「事実だ。麻臣はひどい男だが、雑ではない」


「父親への評価として俺はなんて言えばいいんだよ」


「褒めてはいない」


「だろうな」


麻那が小さく言った。


「お兄ちゃん、ごめん」


「今はいい」


「でも」


「今は、先にこれをどうにかする」


蒼麻は鳥居の前に立った。


「どうせ俺が入らないと分からないっていうんだろ」


真響が即答する。


「入るなと言った」


「でもお前も来たって事は俺を止めるためだけじゃない」


真響は黙った。


蒼麻はその沈黙を見た。


「最近、ずっと思ってた」


「何だ」


「真響は、なんで毎回俺の周りにいるんだ」


麻那も真響を見る。


真響はしばらく答えなかった。


風が吹く。


鳥居の奥が、ゆらりと揺れる。


やがて、真響は言った。


「お前の“器”が開きかけた時、私は匂いを嗅いだ」


「匂い?」


「酒と土地と神気が混じった、不自然な匂いだ。普通の人間にはない。神代の術者にもない」


蒼麻は黙る。


真響は続ける。


「最初は、危険なものだと思った。だから見に来た」


「見張るためか」


「そうだ」


妙に素直だった。


「だが、見ているうちに分かった。お前は、ただの器ではない。祓うのでも、奪うのでも、縛るのでもなく、ほどけたものを戻そうとする」


蒼麻は少し困った顔をする。


「買いかぶりすぎだろ」


「そう思うなら、己を雑に扱う癖を改めるといい」


「またそれか」


真響は蒼麻を見た。


「それに」


一瞬、言葉が止まる。


「お前のそばにいると、忘れたものの匂いがする」


蒼麻は息を呑んだ。


「真響の?」


真響は答えない。


だが、否定もしない。


麻那が静かに言う。


「真響さんは、兄を見張っていただけじゃないんですね」


真響は麻那を見る。


「妹は、よく見ているな」


「兄に助けられてきましたから」


「そうか」


その時、鳥居の奥から声が聞こえた。


――神代。


古い声。


蒼麻の胸の奥が強く熱を持つ。


鳥居の内側に、赤い紐のようなものが何本も浮かび上がった。


紐ではない。


封印の線だ。


「……呼ばれてるな」


蒼麻が呟く。


真響が腕を掴む。


「お前が行くなら、私も行く」


「止めに来たんじゃなかったのか」


「一人で入るなと言っている」


蒼麻は少し笑った。


「分かりにくいんだよ」


「分かれ」


麻那も前に出る。


「私も行くよ」


蒼麻は首を振った。


「麻那は外で支えてほしい」


「でも」


「もし俺が戻らなかったら、名前を呼んで戻せるのは麻那だろ」


麻那は言葉に詰まる。


蒼麻は少しだけ優しく言った。


「頼む」


麻那は唇を噛み、頷いた。


「分かった」


真響が蒼麻の隣に立つ。


「覚えておけ。鳥居は境界であり結界だ。くぐる前と後で、同じとは限らぬ」


「不穏な助言をどうも」


「事実だ」


二人は鳥居をくぐった。


瞬間、音が消えた。


そこは、神社ではなかった。


古い祭場。


石の床。

四方に立つ鳥居。

天井はないのに、空もない。


中央には、赤い紐で幾重にも縛られた柱が立っていた。


いや、柱ではない。


人の形をした“器”だ。


まるで自分の人形を見せられているような感覚があった。


「……悪趣味だな」


真響の声が隣で聞こえる。


「お前の封印の写しだ」


「俺、こんな状態なのか」


「完全ではない。だが理は同じだ」


赤い紐が、器の胸、喉、額を縛っている。


喉の部分に、古い祝詞の文字が巻きついていた。


額には、鳥居の形の印。


胸には、酒の滴のような紋様。


真響が低く言う。


「麻臣は、お前の器を閉じるために、神の通り道を鳥居で分けた。だが、喉だけは完全に塞がなかった。名前を呼ぶ力と、祝詞の芯が必要だったからだ」


「俺が麻那を呼び戻せたのは?」


「そこが残っていたからだ」


蒼麻は柱を見る。


「……父親は一体何を考えていたんだ」


「守ることと、支配することを同時に考えていたのではないか」


真響の声は冷たい。


「人間らしい」


蒼麻は真響を横目で見ながら言った。


「真響、人間への評価が(から)いな」


「だが、今回は少しだけ同情する」


「父さんに?」


「お前に」


蒼麻は返せなかった。


その時、祭場の奥から人影が現れた。


白い装束の男。


顔は見えない。


だが、声がした。


――器、開きかけたり。


――黒狐、傍らにあり。


――観測を要す。


蒼麻は眉を寄せる。


「誰だ」


真響の目が鋭くなる。


「外から覗いている」


「神代一族か」


「そうだ」


人影は一人ではなかった。


いくつも、薄い影が現れる。


神代の術者たち。

本家か、分家か、奥乃院か。

どこの者かは分からない。


だが、彼らは蒼麻を見ている。


器として。


封印対象として。


利用価値として。


そして、真響を見ている。


黒狐として。


――黒狐が絡むなら、五柱の兆し。

――器が開くなら、神降しの再動。

――麻臣の封印、緩みあり。


蒼麻は奥歯を噛んだ。


「勝手に人を観察対象にするな」


赤い紐が揺れる。


柱の器が、蒼麻の言葉に反応した。


真響が言う。


「怒れ」


蒼麻は真響を見る。


「え?」


「怒りを押し込めるな。ここはお前の封印の写しだ。お前が怒らなければ、他人の手で書き換えられる」


「真響が怒れって言うのも妙な感じだ」


「怒りは悪ではないと言っているのだ」


蒼麻は息を吸った。


そうだ。


絵馬返しの時も、真響はそう言った。


自分の裏も、自分のものだと。


蒼麻は祭場の影たちを見た。


「俺は、神代の道具じゃない」


影が揺れる。


「父さんの封印がどういうものかは、まだ全部を知らない。真響がなぜ俺のそばにいるのかも、全部は分からない」


蒼麻の胸の奥が熱くなる。


「でも、俺の名前は俺のものだ」


赤い紐の一本が弾けるように切れた。


喉を縛っていた紐だった。


真響が目を見開く。


「蒼麻」


「大丈夫だ」


「大丈夫な切れ方ではなかったぞ」


「でも、戻る」


蒼麻は柱に手を伸ばした。


「神代蒼麻」


自分の名を言う。


「俺は麻那の兄で、蓮二の友人で、酒好きで、面倒ごとに巻き込まれがちな調査員」


真響が呆れたように言う。


「最後が情けない」


「事実なんだが」


蒼麻は続けた。


「そして、まだ自分が何者か分かっていない」


赤い紐が、今度は切れずにほどけた。


一本だけ。


祭場の影たちがざわめく。


――器、自認を始める。

――危険。

――黒狐の影響あり。


真響が黒い狐火を周囲に展開して威嚇する。


「下がれ」


影たちが一斉に真響を見る。


――黒狐。

――黒狐真響。

――五柱の一。

――器に近づく意図、不明。


真響の目が、冷たく光る。


「知りたければ、近づいて聞け」


影たちは動かなかった。


動けなかった。


蒼麻は、その横顔を見る。


真響はなぜ自分の周りに現れるのか。


見張るため。

危険を嗅ぎつけたため。

忘れたものの匂いがするため。


そしてたぶん、もう一つ。


真響自身も、蒼麻のそばで何かを思い出しかけている。


「真響」


「何だ」


「戻ろう」


「よいのか」


「今ここで全部見ると、酒がまずくなる気がする」


真響は一瞬黙った。


そして、薄く笑った。


「逃げる理由としては弱い」


「帰る理由としては十分だから」


真響は蒼麻の腕を掴む。


「なら、帰るぞ」


二人は鳥居へ向かう。


背後で、神代の影たちがざわめく。


――監視を継続。

――麻那周辺も確認。

――黒狐との接触頻度、増加。

――蒼麻封鎮、再評価。


蒼麻は振り返らなかった。


鳥居をくぐる。


音が戻った。


現実の境内で、麻那が叫んだ。


「蒼麻!」


名前を呼ばれた瞬間、蒼麻の足が地面に戻る。


息を吸う。


空気が冷たい。


鳥居の前に戻っていた。


麻那が駆け寄る。


「大丈夫?」


「大丈夫……たぶん」


「たぶんは大丈夫じゃないやつ」


「最近、そればっかりだな」


麻那は蒼麻の顔を見た。


そして、はっとする。


「喉の封印が……」


蒼麻は首元に手を当てる。


「やっぱり何か切れてるのか」


「切れたというより、ほどけた」


真響が言った。


「誰かに破られたのではない。蒼麻自身が、自分の名でほどいた」


麻那は複雑な顔をした。


安堵と恐れが混ざっている。


「神代の中に、気づいた人たちがいる」


蒼麻は頷いた。


「何人かに見られてた」


麻那の顔が険しくなる。


「やっぱり」


「俺の器がどうとか、黒狐がどうとか言ってた」


真響が静かに言う。


「これから騒がしくなる」


麻那は俯いた。


「ごめん。もっと早く――」


「麻那」


蒼麻が遮る。


「謝るのは後でまとめて聞く」


「まとめて?」


「なんか量が多そうだから」


麻那は泣きそうな顔で、少し笑った。


真響が小さく息を吐く。


「お前は本当に、軽口で傷を隠そうとする」


「隠せてるか?」


「もっと丁寧にやれ」


「じゃあ駄目だな」


蒼麻は鳥居を見た。


もう歪みは消えている。


だが、完全に終わったわけではない。


むしろ、始まった。


神代一族が、蒼麻を見る。

黒狐が蒼麻のそばにいることを知る。

麻臣の封印が緩み始めたことを知る。


静かな日常は、少しずつ内側から崩れ始めている。


「和灯に行くか」


蒼麻が言った。


麻那が驚く。


「今?」


「今」


真響は当然のように歩き出した。


「今日は強い酒がいるな」


「同意だね」


麻那が二人を見て、少しだけ笑った。


「……蓮二さん、また驚くだろうな」


「もう慣れてるだろ」


蒼麻が言うと、真響が横から返す。


「慣れるなと言っておけ」


三人は鳥居を背に歩き出した。


背後で、鳥居がかすかに軋んだ。


まるで、誰かがこちらを見送るように。


あるいは、再び開く時を待っているように。

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