第三章 感情感染
翌日、安藤は緊急会議のために都内の感染症研究センターへ向かった。
会議室のドアを開けると、見慣れた白衣の列の中に、
防護服を着た二人の職員が立っていた。
テーブルの中央には、透明な隔離ケース。
その向こう側の椅子には、二十代前半ほどの女性が座っていた。
彼女の視線は焦点を結ばず、口元だけがわずかに動いている。
唇は「終わりにしたい」を繰り返していた。
モニターには、彼女が到着するまでの映像が映し出されている。
職場で突然立ち上がり、窓際へと歩き出す。
同僚数人が制止する間もなく、彼らも同じ窓に手をかけ——
その瞬間、外から駆け込んだ警備員によって全員が止められた。
「彼女を中心に、周囲の人間がほぼ同時に行動し始めた」
担当医が淡々と説明する。
接触も言葉もほとんどなかった。
ただ、彼女の目を見た者は皆、同じ行動に引きずられていた。
安藤は、会議室の片隅で心拍が早まるのを感じた。
映像の中の“伝播”は、飛沫や血液ではなく、
何か目に見えない波が人から人へ渡るようだった。
空気中の成分分析のデータが机に置かれている。
極めて微量だが、通常の人間では生成されない化学物質が検出されていた。
それは神経伝達物質に似ており、感情の発火を模倣する作用を持つ可能性があった。
「この物質……変異速度が異常に速い」
安藤の指先が、紙面の数値をなぞる。
昨日検出された分子構造と、今朝の構造式はすでに違っていた。
まるで感情の色合いに合わせて、姿を変えているかのようだ。
彼は隔離ケースの向こうの女性を見た。
その眼差しが、一瞬だけ安藤を捕らえる。
心臓が、小さく悲鳴をあげた。
ほんの数秒のことだったが、
彼の胸には理由のない“墜ちたい衝動”が残っていた。




