第一章 静かな朝
目覚ましが鳴るより少し前に、安藤は目を開けた。
冬の朝の光は薄く、白いカーテンを通して机の上に静かな影を落としている。
コーヒーを淹れる湯気が、室内の冷気に溶けていく様子を、彼はぼんやりと眺めた。
その瞬間まで、この日も、昨日までの延長にすぎないと思っていた。
研究所までの道は、いつも通りだった。
通学の子どもたちが信号の前で並び、パン屋から焼き立ての香りが漂ってくる。
何百回と見た風景が、なぜか今日はほんの少し遠くに感じられた。
研究棟に入ると、廊下の奥から同僚の佐久間が駆け寄ってきた。
「安藤さん、ニュース見ました?」
額には薄い汗。呼吸は浅く早い。
ただ事ではない空気が、言葉よりも先に胸に刺さる。
休憩室のテレビには、見慣れぬ速報テロップが踊っていた。
《各地で集団自殺 同時多発的に発生》
映し出される現場は、駅のホーム、マンションの一室、静かな公園。
遺体の一部は、互いに面識がないとされる人々だった。
佐久間が声を潜める。
「……感染症じゃないかって噂が、もうネットに出回ってます」
荒唐無稽に聞こえるその仮説が、安藤にはまったく笑えなかった。
彼は、数年前に動物実験で発見された“感情伝達型ウイルス”の論文を思い出していた。
微弱な化学物質の変化を通じて、感情の一部が隣人へとコピーされる——。
まだ理論上の話だったはずのそれが、現実に顔を出したとすれば。
窓の外では、冬の陽射しがひたすら無関心に街を照らしている。
だが、その光の下で何かが静かに、そして確実に広がっている気配があった