最終話 役目
昼白色の蛍光灯が、襖で遮られた畳部屋を照らす。部屋には、目をつぶり布団に藤沢が横たわっている。カーテンの隙間から見える外はだいぶ白み始めている。ガラスに、目の下に隈を付けた不健康そうな自分の姿が映し出される。
「俺……」
「気づいたか。藤沢。少しだるいだろうが、食って寝ればすぐ回復するはずだ。大丈夫、体に異常は残らないよ」
鴇守は暗唱していた文章のように一息で言うと、ぬるくなったスポーツドリンクを差し出す。
「ここは、どこだ」
「僕の家だよ。藤沢の家には、一応連絡を入れておいた。後で、おまえからも連絡を入れてくれ。一応勉強会ってことになってる」
「おう。なぁ、森下、俺は夢でも見ていたのか」
「さぁな」
否定とも肯定とも取れる言い方で答える。掛け声を少し上げ藤沢は体をゆったりとした動作で起こす。部屋の隅に置いていたおにぎりを夕飯抜きになってしまった藤沢に渡す。
「ごまかすってことはやっぱあれは本当に会ったことか。何があったか詳しく聞いてもいいか―――守様」
目をつぶり、自分の心の奥底を覗き込むような表情だった。その張りのある声音から確信を持って口にしていることは伝わってきた。
「鴇守でいいよ。もう、全部ばれちゃったみたいだし。巻き込んで悪かったな」
「おまえ、この間の天狗面か」
相手の目を見て静かに頷き肯定の意思を伝える。鳥のさえずりが、空気を伝わって鼓膜を揺らす。
「あの後、母に聞いた。あの森の事、守様っていう存在の事もな。まぁ、まだ知ったばかりだけど。あのとき一緒にいた女の子、怪我大丈夫だったのか」
「うん。明海先生が見てくれたし、ハクがくれた薬もあるから大丈夫」
「おまえは大丈夫じゃなさそうだな」
藤沢はやさしい含み声で尋ねる。タコのできた手が、鴇守の顔に伸びる。避けようと思えば避けられたはずなのに、影を縫い付けられたかのように三代記できなかった。隙間風が部屋の中に入り込むようにあまりにも自然に鴇守の内側に藤沢は入り込んでくる。
「え」
「なんか暗い顔してるぞ。あと、隈がひどい。事件解決で晴れ晴れって感じじゃない。俺は、あのへんな生き物を見た後の記憶がない。あの後何があった」
記憶をたどるようにしてぽつりぽつりとやがて単調な調子であの後のことを話した。藤沢は、おにぎりを食べながら、静かに聞いていてくれた。
悠姫とのことを省いて伝えればいいものの素直に話してしまっている自分がいた。誰かに聞いてほしかったのだろうか。胸の内の思いを言葉に変えていくたびに、心が震える。
「いいのか。おまえはそれで」
「よくないけど。これでいいんだ」
静かだが、人に口を開かせないような厳しさのある言葉に、力なく答えた言葉は本音か、建て前か。いくら言葉を重ねても言葉にならない焦燥が、頭の中でぎりぎりと軋みまわる。
「藤沢、できれば守様の正体は口外しないでくれ」
「あぁ。誰にも話さない。それに、おまえには借りがあるからな」
「あぁ、定期のことか」
もうあれも昨日のことにあるのかと思えば、一日が長く感じられる。
「いや、それだけじゃない。あの時、俺をかばっただろう。まぁ、そのおまえもあの女の子に庇われてたけど。八雲でいいぞ」
「ふがいないよな。なぁ、八雲。あいつは、役目だから僕をかばってくれたのかな」
「おまえは俺を役目だから守ったのか」
あの時、頭で考える時間なんてどこにもなくて、兎に角、体が動いていた。悠姫も、もしかしたら鴇守と同じような気持ちだったのかもしれない。それが、悠姫の使命感から生まれた行動か、それとも別の何かなのかはわからない。ただ、守らねば後悔するものをあの刹那の時、導き出した答えなのだ。
「悠姫も僕も、一応、自分の身を護る術を修行している。だけど、藤沢は違うだろう。正直、僕は藤沢が少し不気味で怖い。いきなり怪我する女の子の姿を見て、よくわかんないだろう言葉や動作をする僕らを見て、ひかないどころか前より仲良くなっているとかわけわかんない」
「は? いや、正直、反応する暇がなかっただけだ。俺は、目の前で女の子が血だらけになっているのに、なにもできなかったし、庇われてた」
「だって、一般人だろう」
見えないもの相手に、防御なんてできないのだから仕方がないのだ。藤沢の方が悠姫より大事とかそういうのではない。
「おまえだって、そう違わないだろう。だいたいあの鼠みたいな狐みたいな変な生き物とか初めて見たぞ。あれはなんて生き物なんだ」
「え」
今なんて言っただろうか。そういえば、あの時一番初めにイズナに気が付いたのはほかの誰でもない八雲ではなかっただろうか。
「あれは、イズナっていう妖の一種なんだけど。マジで見えてた」
「あぁ。だけど、初めて見たな。妖ってやつは本当にいるんだな」
頷く、八雲に頭を抱える。よくよく考えらば本当に霊力が低い奴なら、ハクが憑くわけがない。騙すつもりなんてないと知りながらも、箱を開けたら箱ができたような微妙な虚脱感を感じ肩を落とす。
こんこんとガラス窓をたたく音がした。鴇守は、カーテンを開き、窓を開ける。昨晩、あれから雨が降ったせいか外気の中に土のにおいが色濃く感じられる。するりと部屋に侵入したのは白い蝶。ひらひらと羽を広げ、鴇守の手のひらに静かに止まる。八雲の目が明らかにその蝶の動きを追って揺れている。どうやら、本当に見えるようだ。
「解」
ふわりと術が解け、一枚の紙へと姿を変じる。紙には、みなれた角ばった几帳面な文字。何度も何度もその短い文を目が追う。
「ゴメン。ちょっと、出てくる」
「おう。行って来い。ここで、待っててやるから」
古い木造の廊下は歩く度にきしんだ音を立てる。けれども使い込まれた黒い柱はつややかな色合いを醸し出している。はだしの足に、下駄を履き、玄関の引き戸を引く。立て付けが悪くなっているせいか、スムーズに開かない。ぐっと、力を入れると、がらがらっと思ったより大きな音が出てびくっと肩が持ち上がる。
「おはようございます。鴇守くんも、どうやらおはようではなさそうですね」
スクールバックに、弓。三つ編みのおさげはいつもと変わらないが、制服ではなく今日はジャージを悠姫は着ている。制服は、鴇守をかばったせいで学校に来て行ける状態では無くなってしまったからだろう。
「あ、あぁ。おはよう。まぁ。結局一睡もできなかったから。それで、こんな朝早くになんで家の前にいるか聞いてもいい?」
「はい」
「ただの小坂悠姫として、守様であるあなたにお願いがあります」
「うん。続けて」
もう関わらないで。もう巻き込まないで。そういわれてしまうのだろうか。自分の立っている地面がひどく不確かなものに思えてしまう。雨上がりでぬかるんだ土にずぶり、またずぶりと体が沈んでいくような錯覚。目線が下がる。
「私は、あれから家族と話しました。今まで」
耳をふさいでしまいたい衝動に駆られる。だけど、悠姫は逃げなかった。鴇守も逃げるわけにはいかない。
「私たちはすれ違ってばかりで、本当にどうしようもないくらい言葉が足らなかった。同じ屋根の下にいたのに、全然分かり合えずにいました。でも、昨日ちゃんと私の気持ちを話しました。鴇守くん」
温かい手が頬に添えられる。その手に促され顔をあげる。寝不足なのか泣いたせいか、化粧で隠しきれないほど悠姫の瞼が腫れて垂れ下がっている。
「私にも、チャンスをくれますか」
「え」
「私にもあのイズナのようにチャンスをくれますか」
胸の中に温かいエネルギーの本流が渦を巻く。静かに鴇守が頷くと、悠姫は背筋を伸ばし、凛とした声で与えられた未来ではなく、選択した未来を口にする。
「今一度、小坂悠姫に、七代目悠姫の役目をお与えください」
東の空から太陽が顔をゆっくりと覗かせる。露に日光が当たりきらきらと輝く。新しい時間が、始まりを告げた。
読了、ありがとうございます。
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