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第八話 黒き英雄の知らない事件

その頃、フェリクスの屋敷では。


門の外から聞こえてきた馬車の音に、書類仕事をしていたヴィンスが顔を上げた。


聞き慣れた屋敷の馬車とは、少し違う音だった。


窓から外を確認すると、夜の闇の中に一台の馬車が止まっている。


「……あれは。」


その馬車を見て、ヴィンスはすぐに気付いた。


「シリル様がお戻りになられたようですね。」


玄関へ向かおうとした、その時だった。

廊下の向こうから、マチルダが顔を覗かせる。


「シリル様ですか?」


「ええ。今、お戻りになられたようです。」


「本当ですか!」


マチルダは嬉しそうに目を輝かせた。


「フェリクス様にもお知らせしてきます!」


そう言うと、ぱたぱたと廊下を駆けていく。


その頃、フェリクスは応接間のソファに座り、ネロと二人で静かに過ごしていた。


今日一日の疲れが残っているのか、フェリクスは背もたれに身体を預けたまま、ぼんやりと暖炉の炎を眺めている。


「フェリクス様!」


ノックの意味がないような勢いで扉が開いた。


「シリル様がお戻りになったみたいですよ!」


フェリクスが顔を上げる。


「シリルが?」


「はい! 今、ヴィンスさんがお迎えに――」


そこまで聞いたところで、フェリクスは立ち上がった。


「む、迎えに行かなきゃ。」


「待て。」


すぐ隣からネロの手が伸び、フェリクスの肩を押さえる。


「え?」


「お前はここにいろ。」


「で、でも……。」


「いいから。」


ネロは呆れたように息を吐いた。


「あいつ、お前が迎えに来たら絶対また面倒くさいことになるから。」


「……?」


フェリクスには意味が分からなかった。


だが、ネロが珍しく真剣な顔をしているので、素直にソファへ座り直す。


「……分かった。」


「よし。」


ネロは満足そうに頷いた。


マチルダは二人のやり取りを眺めながら、少しだけ首を傾げる。


「シリル様、喜ぶと思うんですけどねぇ。」


「それが面倒なんだよ。」


「……?」


マチルダにも意味が分からなかった。


やがて、廊下から足音が近づいてくる。


規則正しい、聞き慣れた足音。


扉が開いた。


「お待たせいたしました、フェリクス様。」


入ってきたシリルは、いつものように穏やかな笑みを浮かべていた。


しかし、フェリクスにはすぐに分かった。

いつもより、少し疲れている。


「シリル……。」


フェリクスが立ち上がる。


「おかえり。」


「…はい。」


その一言だけで、シリルの表情がほんの少しだけ緩んだ。


「ただいま戻りました、フェリクス様。」


シリルは胸元へ手を添え、丁寧に頭を下げる。


「本日はお送りすることができず、誠に申し訳ございませんでした。」


「ううん。大丈夫だよ。」


「そう仰っていただけるとは……。」


シリルの顔に、安堵したような笑みが浮かぶ。


「やはりフェリクス様はお優しいですね。」


「うさんくさ。」


横からネロの声が飛んできた。


シリルの笑顔が止まる。


「……何か?」


「いや、別に?」


ネロはソファに座ったまま、にやにやと笑っている。


「ただ、帰ってきて早々それかよって思っただけ。」


「フェリクス様に対して、私は常に誠実に接しておりますが。」


「へぇ。」


「何か問題でも?」


「別に?」


「では、余計なことを仰らないでいただけますか。」


「余計なことしか言わないのはお前の方だろ。」


「……。」


「……。」


二人の間に、妙な沈黙が落ちる。


フェリクスは二人の顔を交互に見つめた。


マチルダは「ああ、また始まった」とでも言いたげに苦笑し、そっと部屋の隅へ下がる。


「バカ騎士殿は、フィーの護衛を途中で放り出して帰ってこなかったもんなぁ。」


「放り出したわけではありません。」


「同じようなもんだろ。」


「事情があったのです。」


「その事情って?」


「申し上げる必要はありません。」


「ほら、怪しい。」


「駄犬が…」


「あ!?なんだよ。」


「あなたはもう少し、人を信用することを覚えた方がよろしいかと。」


「お前だけは信用できねぇんだよ。」


「奇遇ですね。私もです。」


「なんでだよ!」


それからしばらく。


二人の言い争いは続いた。


フェリクスは何度か止めようとしたものの、どちらに声を掛ければいいのか分からず、結局ソファの端で小さくなっていた。


マチルダとヴィンスも、いつの間にか部屋の隅で静かに見守っている。


やがて、二人が一通り言いたいことを言い終えた頃。


「……それで。」


フェリクスが恐る恐る口を開いた。


「な、何かあったの?」


「……。」


「……。」


二人が同時にフェリクスを見る。


その後、シリルが静かに口を開いた。


「実は、本日騎士団長殿から呼び出しを受けまして。」


「で?」


「王都周辺で、連続殺人事件が発生しているそうです。」


フェリクスの表情が曇る。


「殺人……?」


「はい。」


シリルは先ほどまでの軽いやり取りが嘘だったかのように、静かな声で事件の概要を説明した。


ここ数週間で相次いでいる不可解な死亡。


被害者に共通する外傷のなさ。


魔術の痕跡すら見つからないこと。


そして、被害者が皆、何らかの犯罪に関わっていたこと。


最後に、王都で広がり始めている噂についても。


「……黒き英雄が、悪人を裁いている?」


フェリクスは呆然と呟いた。


「はい。」


「そ、それで……シリルは?」


「事件を調査する捜索隊の指揮を任されることになりました。」


「……。」


フェリクスはしばらく黙っていた。


自分の名前が、殺人事件と一緒に語られている。


その事実が、じわじわと胸へ重くのしかかってくる。


「……俺が、疑われてるの?」


「フェリクス様。」


シリルがすぐに声を掛ける。


「そのような心配はございません。」


「でも……。」


「大丈夫です。」


シリルは迷いなく言い切った。


「私は、フェリクス様が犯人ではないと確信しております。」


だが、その言葉を遮るようにネロが口を開いた。


「そもそも、フィーが犯人なわけねぇだろ」


「ネロ……」


「だってそうだろ」


ネロはフェリクスへ視線を向ける。


「フィーの力は、半径一メートル以内に入った相手にしか届かねぇ。しかも、十秒間その中にいなきゃ死なない。遠く離れた場所にいる奴を、何の接触もなく殺せるような力じゃねぇんだ」


フェリクスは俯いた。


「……うん」


それは、自分自身が誰よりもよく知っている。


黒い傘の柄を、そっと握り直す。


「だから、フィーが犯人なんてあり得ねぇよ」


ネロは言い切った。


その言葉に、シリルも静かに頷く。


ヴィンスも、マチルダも何も言わない。


この屋敷にいる者なら、誰もが知っている。


フェリクスの力が、どれほど恐ろしく。


そして――どれほど不自由なものなのかを。


だからこそ。


誰も知らなかった。


フェリクスの知らないところで。


彼と同じように、人を殺している何者かがいることを。

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