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LOG_0040:下層

『秩序の編纂局』の一室。レオナールから提示された任務内容を記録し終えると、星奈は静かに椅子を引いて立ち上がった。 脳裏をよぎるのは、以前アネラスに連れられて足を踏み入れた「下層」の記憶だ。


 聖都エリュマントスにおいて、下層とは都市の「内臓」に他ならない。

 

 標高マイナス千メートルを超える深淵。そこは、白亜の塔が並ぶ上層や、洗練された商店が並ぶ中層とは切り離された、剥き出しの鉄と蒸気の世界だ。

 都市を稼働させるための巨大な歯車、脈打つ魔力供給路、そして廃棄物を処理するための広大なプラント。

 そこには、完璧なアルゴリズムでは制御しきれない「生のノイズ」が満ちていた。


(あそこは、アネラスの故郷……)


 わずかなパンのために剣を振るい、這い上がってきた彼女が、かつて見せた複雑な表情を思い出す。以前訪れた際は居住区の表層をなぞった程度だったが、この広大なエリュマントスだ。


 上層や中層ですら未だに解像度の低いブラックボックスを抱えているというのに、下層がどれほどの広がりと「歪み」を内包しているか、想像に難くない。


「さて、エーデルワイス殿。話は以上だ」


 レオナールもまた、音もなく立ち上がった。

 彼は今回の任務の責任者ではあるが、現場へ同行することはないという。


「私は、ここから貴殿の活動記録を監視し、状況の変化をリアルタイムで編纂局へ共有する。もっぱら、この積み上がった『バグの残骸(事務書類)』を処理するという、貴殿よりも過酷な戦場が待っているのでな」


 自嘲気味に、だが極めて合理的な理由を述べる彼の言葉に、星奈は「了解しました」と短く応じた。


 ふと、レオナールの指先に視線が落ちる。顔を覆うマスクだけでなく、その両手もまた、隙間なく黒い手袋で覆われていた。


(……治療魔法ですら修復が追いつかないほどの大怪我か、あるいは『記述』そのものを蝕む特異な疾患か)  


 執行官エグゼクターという、ギルドの闇の部分すら担う役職。

 彼がこれまでにくぐり抜けてきた任務の凄惨さが、その徹底した「隠蔽」から透けて見えるようだった。


 部屋を出て、ギルドのホールへと戻る。


 今回は団長権限による特殊指名任務ではなく、あくまで編纂局からの協力要請の合同案件だ。そのため、調査チームの編成は星奈にある程度の裁量が任されている。


(アネラスやメイを呼びたいところだけれど……)


 騎士団の司令官職に追われるアネラスと、修復局のエースとして駆り出されているメイ。

 二人の最近の稼働率は限界に近い。友人として、これ以上のオーバーワークを強いるのは、効率的ではない。


 星奈は受付カウンターへと向かい、リチアにギルドカードを提示した。


「リチア、この案件を掲示板へ。ただし、応募条件にフィルターをかけたいわ」


「承知いたしました、ステラ様! どのような条件にいたしましょう?」


 星奈は掲示板の前で騒いでいる新人たちを一瞥し、思考を巡らせる。  

 今回の戦場は、あの迷宮のような下層だ。


(……最低限の戦闘能力は必須。けれど、何より必要なのは『地図にない道』を知っている人間。下層の地理に明るく、あの混沌とした環境に順応できる個体が必要ね)


 星奈が提示した条件は、極めて具体的で、かつ下層出身者でなければ満たせないものだった。リチアが手際よく依頼書を書き上げ、掲示板の中央——「救世主同行案件」という特別な枠にそれを貼り出す。


 刹那、ホールの喧騒がピタリと止まった。


 救世主エグゼクティブ・デバッガーとの共同任務。

 それは名誉であると同時に、下層の深淵へと潜るという死線への招待状でもあった。星奈は静かに、その「ノイズ」の中から、自身の演算に合致するパートナーが現れるのを待ち続けた。


 その日は、溜まっていた解析報告書の処理を早めに切り上げ、帰路に就いた。  

 自室のある宿舎の廊下で、ちょうど買い出しから戻ってきたノアと鉢合わせる。

 小さな体で、溢れんばかりの食材が詰まった籠を一生懸命に運んでいる姿が目に留まった。


「いつもありがとう、ノア。半分持つわ」


「いえ、ステラ様にそんなことはさせられません! 僕がステラ様を公私ともに完璧に補佐することこそ、神様から与えられた役割なのですから」


 ノアはいつものように、誇らしげで、かつ献身的な笑みを浮かべて固辞した。  

 この世界に降り立ってからというもの、星奈の衣食住はすべて彼によって支えられている。

 テーブルに並ぶ彩り豊かな料理も、塵ひとつない部屋の掃除も、丁寧に畳まれ香油の香りが微かに移った衣類も。

 前世での不規則極まりない研究室生活を思えば、今の環境は過保護すぎるほどに整っていた。


(……見た目は少年なのに、これほどの家事スキル。正直、私よりもよっぽど「家庭的で主婦向き」ね)


 理系女子大生として効率ばかりを追求してきた自分を省み、星奈は少しだけ見習わなければという殊勝な気持ちになった。


「いい旦那さんになりそうね」


 思わずぽつりと本音が漏れると、ノアは一瞬だけ意外そうに目を見開いた後、心底嬉しそうに深々と頭を下げた。


「……光栄です、ステラ様」


 その純粋な反応を見ながらも、星奈の頭の片隅では常に「解析者」としての疑念が消えない。  

 神の使命。神による役割。彼はそれを純粋に受け入れているが、やはりこの少年は世界の住民の中でも特異な存在だ。

 親も、過去のログも、それらしい背景が一切見当たらない。


 それ以上に不気味なのは、周囲の反応だった。


 ギルドの人間も、街の人々も、救世主の傍らにノアという出所不明の少年がいることを、あたかも「最初からそこに定義されている記述」であるかのように、何の違和感もなく受け入れている。


(アネラスやメイもそう。神を信じ、救世主の隣には案内人がいるという『物語』を、疑いようのない真理として魂に刻んでいる……。まるですべてが、最初からそうあるべきだと決められているみたいに。世界の理か、あるいは認識のパッチのようなものが埋め込まれているのか……)


 思考が深まりそうになるのを一度断ち切り、星奈は自室のバスルームへと向かった。

 ノアが夕食の準備を整える間、熱いシャワーで心身のノイズを洗い流す。  

 湯気の中で、明日から始まる下層任務に思考を巡らせる。


(鎧はバルカに預けているから、明日は騎士団の制服での出動になる。……まずは人員の確保ね。あの条件を満たす「下層のスペシャリスト」が、一人でも現れてくれるといいのだけれど)


 シャワーを止め、鏡に映る自分の顔を見る。


 以前よりもどこか鋭さを増したその瞳に、星奈は自分自身ですら「救世主」という役割に適応し始めていることを自覚した。

 明日の掲示板に、どのような解答が提示されるのか。

 星奈は期待と、わずかな警戒を胸に、夜の静寂へと身を沈めた。

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