LOG_0038:『美しい夢』の続き
中層の喧騒を遥か下に見下ろす、ギルド本部塔の高層エリア。
そこには『秩序の編纂局』のオフィス。
その一角にある屋外テラスは、中層の活気ある営みと、雲海の上に浮かぶ白亜の上層の両方を同時に視界に収められる絶好の観測地点だった。
「はい、どうぞ。最高級の『ルナ・リーフ』よ。この香りを嗅ぐだけで、脳内のノイズが消えていく気がしない?」
シフォンが手際よく淹れた紅茶から、芳醇な花の香りが立ち上がる。
星奈はその白磁のカップを受け取り、一口含んだ。
熱い液体が喉を通り、カフェインと糖分が脳細胞に染み渡っていくのを感じる。
「……美味しい。確かに、思考の整理が捗りそうな味ね」
「ふふ、合格点かしら。本当にお疲れ様、ステラちゃん。今回の任務、貴女がいなければ今頃私たちはみんな、あの黒い立方体の中でデータの一部になっていたでしょうね」
シフォンは優雅に椅子に背を預け、改めて労いの言葉を口にした。
彼女はやはり非番らしく、秩序を維持する部署の人間に似つかわしい肩や脚を大胆に出したセクシーな私服姿で、リラックスした様子だ。
話題は、共に死線を越えた仲間たちのことへと移る。
特にメイは、今この瞬間も同じ塔の下層にある『基盤の修復局』の工房に籠もりきりだという。
「メイちゃん、もう凄いのよ。ハバルトの義手製作のために、局の予算を湯水のように使い始めて。バルタザール総理も『やれやれ』なんて言いながら、最高純度の魔導合金を横流し……いえ、提供しているみたい。近いうちに、今まで以上の剛腕になったハバルトが見られるわよ」
「メイらしいわね。……彼女の技術力なら、神経系の接続も完璧に構築するはずですよ」「あっという間に昇進していくでしょうねえ」
「見て、ステラちゃん。貴女がデバッグしてくれたおかげで、上層の論理構造や魔道回路は以前より十五%も強固になったわ。編纂局の観測班も驚いているわよ。まるでもともとあった設計図を、より純度の高いものに書き換えたみたいだって」
「……私はただ、歪んでいた記述を最短経路で修正しただけです。最もシフォンさんや他の方の分析がすごいだけですから」
星奈は端末に表示される数値を素早くスキャンし、自身の『神の眼』で捉えた事象との整合性を確認していく。
シフォンの報告は極めて正確で、編纂局がいかに高い精度でこの世界の「秩序」を監視しているかを物語っていた。
報告を一通り終えたところで、シフォンが不意に、カップをソーサーに戻した。
カチリ、という小さな陶器の音が、テラスの静寂に響く。
「ねえ、ステラちゃん。……少し、意地悪な質問をしてもいいかしら」
シフォンの声音が、先ほどまでの事務的なトーンから、低く、どこか湿り気を帯びたものに変わる。
「貴女のその『眼』には、この世界はどう映っているの? ……いえ、言い換えましょうか。貴女にとって、この世界は――『本物』に見える?」
星奈の手が止まる。隣で控えていたノアの眉が、微かに動いた。
シフォンは星奈が「転生者」であることも、日本の存在も知らない。
彼女が言っているのは、あくまでこの世界で生まれ育ち、編纂局員として世界の記述を「観測」し続けてきた者としての、極めて個人的で、かつ危うい直感の話だ。
「空は青く、紅茶は温かく、私たちはこうして会話している。五感のフィードバックに不備はないわ。物理学的にも、事象の連続性は保たれているけれど……それが何か?」
「そう。でもね、私は時々思うのよ。このエリュマントスは、あまりにも完璧すぎて、まるで誰かが描いた『美しい夢』の続きを見せられているだけなんじゃないかって。……神様が私たちを慈しんでいる? 笑わせないで。この調和は、もっと冷徹で、無機質な計算の上に成り立っているような気がしてならないの」
シフォンの言葉は、先ほど星奈がアーカイブで読んだ「先代救世主」の手記と、不気味なほどに共鳴していた。
「シフォン様。その発言は、いささか神への不敬が過ぎるかと思います」
ノアが、冷徹なまでの静かさで割って入った。いつもの温和な笑みは消え、その瞳には案内人としての、譲れない一線が引かれている。
「エリュマントスは神の慈悲によって維持されています。私たちが存在できること自体が、最大の恩恵なのです。それを疑うことは、己の存在意義を否定することと同義ですよ」
「あら、坊や。怖い顔をしないでちょうだい。ただの『女の独り言』よ」
シフォンはひらひらと手を振って受け流したが、その瞳の奥にある冷めた光は消えていなかった。
星奈は、カップの縁からシフォンの瞳をじっと見つめた。
この女性は、真実を知っているわけではない。
この世界の成り立ちも、星奈がかつていた日本の存在も。
けれど、あのレオン・ウェインが机上であるが直感的にシステムの齟齬を言い当てたように、この世界には稀に、理の深淵に無自覚なまま指をかける者が現れる。
(……前世の日本でも、そうだった。この世界は誰かの夢だとか、シミュレーションに過ぎないとか。そんな論理的根拠のない哲学的思想は、掃いて捨てるほどあったけれど)
だが、この異世界においてその言葉は、あまりにも重い「正解」を孕んでいる。
自分自身のチート染みた能力、空の不自然な青さ、そして先ほどアーカイブで目にした「先代」の記録。
シフォンの「無機質な計算の上に成り立っている」という発言は、星奈の胸の奥にある疑惑の回路を、鋭く、的確に射抜いていた。
(ドキリとした。……でも、今の私は、あの時ほど動揺していない)
星奈は静かに、そしてあえて年長者と対等に渡り合うような余裕を持って、口角を柔らかく上げた。
「シフォンさん。それが計算であれ慈悲であれ、このお茶が美味しくて、貴女とこうして話している時間が心地いいという『事実』の価値は、変わらないと思いますよ。……少なくとも、私の観測結果にはそう記録されています」
シフォンは一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに「あら、やるわね」と言いたげな、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ふふ、救世主様にそんな風に言われちゃったら、私の疑り深い性格も少しは丸くなるかしら。……そうね、難しい話はおしまい。ねえ、ステラちゃん、最近ハバルトがメイちゃんの工房でどんな顔をしてるか聞いた? もう、見てるこっちが照れ臭くなるくらいなのよ」
それからは、戦場での緊迫感とは無縁の、たわいもない雑談がテラスを彩った。
誰かの驚異的な昇進スピードの噂、副団長カシムの豪快すぎる食生活の悩み、アネラスが実は際どい可愛い服を隠し持っているという編纂局の同僚の極秘情報。
星奈は時折相槌を打ちながら、穏やかに流れる時間を享受した。
(こんな時間が続いても、決して悪くはない……か)
テラスから見える黄金の夕暮れは、相変わらず美しい。
この世界の秘密、神を名乗る設計者の真意。
それらを解き明かすまでの道のりは、まだ遠く、不確かな変数に満ちている。けれど、星奈は焦らなかった。
『神の眼』という、世界の理に干渉できる最強の権限を与えられたのは自分だ。
ならば、この不可解な現実すべてを、神からの挑戦状として受理してやればいい。
(ゆっくりでいい。私のやり方で、この世界の『解答』を導き出してみせるわ)
星奈は最後の一口を飲み干し、未来という名の未知数に向けて、静かに闘志を燃やした。




