I wanna go to Academy with Her
「返事、聞いていい?」
朝食が終わって、すぐ走ってきたんだろう。
クレスは朝食が終わったばかりの帽子屋の台所に現れるや否や、問答無用で後片付けをしていたアゼルの手を引いて赤薔薇の木戸を早足でくぐり、そのままのスピードで向かいのアパルトマンの路地に入るといつも通りひょい、と抱き上げて屋根の上に飛び上がった。
まさかこんなに早く来るなんて思っていなかったから、アゼルは内心、まだ心の準備が出来てないよー!と叫びつつも、表面上は少し顔を赤らめた程度で大人しくクレスの腕の中に納まって運ばれていた。どうしても視線は上げられない。
そうしてクレスは数件分屋根の上を移動すると、煙突のそばにそっとアゼルを下ろした。
「………」
気まず過ぎて、目を合わせられない。
でも。
どう切り出そうか俯くアゼルを見て、クレスは右手をポケットに突っ込み、左手で顔左半分を覆うと、ハッと短く息を吐いた。
その音に心臓が捻り上げられる。喉がカラカラになるのがわかる。
クレスといて、沈黙が痛いのは初めてだ。
「…やっぱり、兄貴が心配?」
この声はあたしの喉から出たものじゃないのに、どうしてこんなに掠れているんだろう?
「……ごめんなさい」
それもそうなんだけど、あたしが言いたいのはそんなことじゃなくて。
「それとも」
どうやって言えばいいんだろう。
両手を胸の前で組み、もじもじと動かしながらあたしが言葉を出しあぐねていると。
「…オレの従者になるの、嫌?」
降ってきたその苦しそうな声音に、弾かれたようにバッと顔を上げる。
その顔は声の通り眉を顰め、また昨日と同じ出所不明の低温火傷しそうな目でじぃっとこちらを見つめていた。
なんだか居た堪れなくなって、その視線を振り払うかのようにまた下を向いてぶんぶんと首を左右に振った。
昨日の夜、いっぱい、考えたの、
そう前置きして、深呼吸を一つ。
「従者には、帽子屋での奉公が終わったら、なってみたい…かな。やっぱり帽子屋は、きちんと勤め上げてからでないと、無理。途中で出て行くなんて、申し訳、なさ過ぎるから。それに…」
ふと影に入ったと思ったら、両頬に手を添えられて上を向かされる。
いきなり至近距離に現れた灰色の瞳にぎくりと体が強張る。
「それに?」
言ったら、友達やめるって言われたらどうしよう。でも。
言わないと、きっと苦しいし、悲しい。
「それに…ちょっと、怖い、かな。それに…誘ってくれて、嬉しかったけど、ちょっと…うぅん、すごく、悲しかったし」
切れ切れに言葉を紡ぐ。
「悲しい?」
火傷覚悟で、灰色の瞳に向き直る。
「ほんとは、クレスの‘使用人’じゃなくて、‘お友達’がいいの」
あぁ結局、口に出しても悲しい。
ひゅっと息を飲む音がした。火が点いたままの石炭色の瞳が大きくなる。
顔が動かせないから、その熾火のような瞳から逃れるにはぎゅっと目を瞑るしかない。
だから、文字通り目と鼻の先にある少年の顔が瞬間ひどく驚いて、次にとても苦しげに、切なげに歪んだのを、あたしは知らない。
こんなこと、言い出せる身分じゃないのは良くわかってるつもりだけれど。
クレスは昨日、「あたしがどうしたいのか」を聞いてきた。
昨日の晩、一生懸命考えた結果だ。
最初からあたしに敬語も敬称も許してくれなかったこと。
三日に一度は帽子屋にやってきて、レイズをかわしながらも一緒に過ごしていたこと。
あたしの焼いたクッキーを横からつまみ食いして舌を火傷したこと。
一緒に本を眺めて意味のわからない言葉をいろいろ説明してくれたこと。
忙しくて相手も出来ないのに、なぜかあたしの横で楽しそうに仕事を眺めていたこと。
時折あたしの暇を見てはお姫様抱っこ(あの恥ずかしい横抱きをそう呼ぶのだと最近になってサーシャに聞いた)で屋敷まで運んでくれて二人で森の中を散歩したこと。
そして昨日、一緒に街に買い物に行って、二人でプレゼントをしあったこと。
友達のいないあたしが心ひそかに憧れていたたくさんのことを、(中にはちょっと違うのも混じっているけれど)一緒になって楽しそうに叶えてくれたのがクレスだった。
長らく空き地だった心の一角に、いつの間にかクレスは確固たる居場所を築いている。
レイズや帽子屋の皆のような家族でもなく、仕事で接するお客様でもなく、
ただ純粋に、友達として。
そして心の中のこの場所がまた空き地になることが、あたしには心臓が痛くなるくらい寂しくて、悲しいことだった。
「クレスが友達になろうって言ってくれたの、すっごく嬉しかったんだよ?でも」
クレスの使用人になったら、そうもいかなくなっちゃうんじゃないかと思って…
そう言うと、なぜか自分の唇がわななくのを感じ、きゅっと口元に力を入れる。
「いつになったら、帽子屋から下がれるの?」
「……わかんないけど、十七歳になったら…かな」
じっとあたしの言葉を聴いていたクレスは、静かにこう切り出した。
いつまで、と言われたことはないけれど、とりあえず十七歳になって成人したら一度進路を考える機会は与えられるだろう。
そう言えば、いつが期限なんだろう。
「あと、六年…か」
続いて何か独り言のように呟くと、そっと頬に添えていた手を撫でるように動かした。
視界を遮断下途端、右頬に意識が集中する。その左手の先には。
わざと耳が隠れるように下ろした髪を耳にかけようとする手が、触れて欲しくなかった場所につ、と触れてしまう。
「?……アゼル、ピアス、どうしたの?」
昨日二人で片方ずつ開けて、一セットを分け合ったピアス。
クレスが左耳で、アゼルが右耳。
銀の台にムーンストーンが一石ついたスタッズタイプ。
友達とお揃い。
そもそも友達と呼べる人がほぼ皆無に等しいあたしにとって、それはとても甘く、幸せな響きだった。
もちろんあたしの周囲には、親しくしてくれる人たちがたくさんいる。
毎朝行くパン屋のご主人とおかみさん。市場の八百屋さんやお肉屋さん、他にもマリアンのお使いで行くお店の大人たちは、あたしが籠を下げて店に行くと温かい笑顔で接してくれる。
けれど。
彼らは、決して‘友達’ではないのだ。
絶対失くさないようにしようね、と昨日約束したばかりなのに。
それなのに。
今あたしの右耳に付いている銀は。
「…どうしてピンなんて」
一番小さい型のブローチピンだった。帽子につける飾りをつける前の、ピンだけのもの。
「失くしてないよっ…ただ」
「なんで外したの」
「…キャッチが、飛んじゃったから。石が付いてる方は、ちゃんと仕舞ってあるよ」
レイズにキャッチを毟られて部屋に逃げ帰った後、我に帰って、辛うじて耳たぶに引っかかっていた血塗れのピアスにどれだけほっとしたか。
とは言えキャッチ無しでそのまま着けてもいられないから、何か代わりになるものを部屋中探し回ってどうにか見つけたピン状のもの。
今朝は髪の毛はレイズがやってくれなかったから下ろしていたし、たぶん誰にも気付かれてない。
昨日の夕食時になぜかみんな良くわからない意味深な視線を寄越してきて、とても居心地悪かったから、というのもある。
「本当に、それだけ?」
「うん、それだけ……どうして?」
「…目を見てくれないから」
両手で顔を固定されているから、視線だけを左下に泳がせる。
元々熱かった顔にさらに熱が上る。背後の煙突みたいに頭のてっぺんから煙が出そう。
心臓がうるさ過ぎて、耳ががんがん鳴る。
絶対クレスにも聞こえているに違いない。
「新しいキャッチは、今度の休みに買いに行くから」
そうしたら着けるよ、そう説明したら、何もおかしなところは無いはず。
はずなのに。
「痛っ…」
クレスがおもむろにブローチピンを動かした。
「こんなの着けてたら髪の毛に引っかかるだろう?後で買ってきてやるから」
「え、いいよ、自分で…」
「ダメ、あのピアスでないと」
顔を上げると真剣な眼差しに射抜かれた。
「う、うん…」
気圧されて頷くと、ふっと笑って髪を撫でられた。
「よし、じゃあそれはそういうことで」
そう言うと、話は終わったとばかりにここに来た時と同じようにひょいと抱き上げられ、来た道…屋根の上を戻り始めた。
薔薇木戸まで送り届けてもらって、さっさと木戸を開けて中に招き入れられる。
そこで一旦帰るものだと思ってたのに、クレスはあたしの手を引くとどんどん進んで台所の勝手口を開けた。
◆
「あ、アゼル、あんたどこ行ってたんだい」
ちょっと怒った声音でマリアンが声をかけてくる。
「ごめんマリアン、もうちょっとアゼル借りるよ」
あたしに続いて中に入って来たクレスがその足を止めることなく台所を突っ切りがてらマリアンに声をかけた。ちなみにあたしの手をぐいぐい引っ張りながら。
「あら、坊ちゃん、どうしたのこんな朝早くから」
「ねぇ、今大旦那いる?」
「大旦那様?今たぶんウォルター様の作業部屋にいるかも」
「ありがと」
それを聞くと、廊下に続くドアを開け、そのウォルター様の作業部屋にずんずん進む。
そしてそのドアの前に着くと、ためらいも無くノックをした。
「ちょっと、お聞きしたいことがあるんです」
「どうしたんだね?こんな朝から」
「すぐにでも確認したいんです。ちょっとお時間いただいても?」
「あぁ、大丈夫だがの」
いきなりやってきたあたしたちに、正確にはこんな朝早くからアポイントも無しに乗り込んできたクレスに腹を立てることも無く、そう答えて、大旦那様はあたしたちの方に向き直った。
大旦那様の目の奥に少しおかしそうな色が覘いているのは気のせいだろうか。
「アゼルが帽子屋を下がれるのって、いつぐらいになりますか」
前置きも何も無く、いきなり本題に入った。
「どうしていきなりそんなことを?」
「アゼルを帽子屋から貰い受けたいんです」
さらりと言った一言に、大旦那様とウォルター様の目が丸くなる。
次の瞬間、大旦那様の爆笑が部屋に響き渡った。
「大旦那、オレ、大真面目なんですけど」
不敵にも不機嫌をこれでもかと前面に押し出したクレスに、大旦那様は椅子の肘掛を叩きながらすまんすまん、と全然悪いと思ってない呈で謝った。
「こりゃあ驚いた」
あご髭を撫でながら、のう?と、横にいたウォルター様に振る。
まだ口元は緩んだままだ。
振られたウォルター様もびっくり眼を元に戻して頷いた。
「アゼルがここで働かないといけないのは、あとどれくらいなんですか?」
深呼吸を一つして、再度大旦那様に問いかけた語尾が少し震えていた。
あたしの手を握ったままの手に力が入る。
「ふーむ。それもきちんと決めてはおらなんだのう」
「っ…じゃぁ」
「アゼルは、どう思ってるんだい?」
弾かれたようなクレスの声に被せるように、ウォルター様がクレスの影に隠れるようにしていたあたしに聞いてきた。
いつも通りのオレンジ色の髪に縁取られた優しい笑みが深くなる。
「あたしは…ここでのお勤めが終わってからなら、クレスと一緒に行きたいと思ってます」
また顔が熱くなるのを感じながら、大旦那様の足元を見ながら答えた。
「そうさのう、だが今すぐとはいかんぞ。まだ食い扶持もないクレセント坊に、アゼルをおいそれとやるわけにもなぁ」
「父上、食い扶持があったとしたって、まだ若すぎるでしょうが」
…二人の発言がどこかずれている。
クレスを見やると、クレスも違和感を感じ取ったらしく、怪訝な顔を向けてきた。
「今すぐじゃないですよ、春からです。それに食い扶持なんて関係ないでしょう、ローレンシア学院にアゼルを従者として連れて行きたいんです」
その発言を聞いて、あたしたちと同じように大旦那様とウォルター様が顔を見合わせ、…再度噴き出した。
…今度はウォルター様も。
あたしはハラハラしながらなかなか笑いが収まらない二人と、仏頂面のクレスを交互の見守った。
「あぁ、すまないね、クレセント坊。…そうか、そういうことじゃったか」
「…悪いね、私も父上もてっきり…」
「てっきり?」
どうにか笑いを引っ込めたウォルター様が、とんでもない爆弾を落とした。
「クレセント君が今すぐアゼルを嫁に欲しいと言っているのだと思ったものだから」
「っ!?」
嫁!?
突拍子も無い単語に一瞬思考が停止する。
何を言い出すんだろう。
ただの使用人のあたしと貴族であるクレスが結婚だなんて、あるわけないのに。
友達でさえ、時々無性に居た堪れないのに。本当なら、許されないのに。
て言うか、なんでそんな話になるの!?
頭の片隅でそう冷静に考えるものの、ただでさえ熱かった首から上に更に血が上る。
さっきは未遂だったけど、これはもう確実に頭から煙が上がっているに違いない。
恥ずかしくてさっきから顔を上げられないでいるが、確実だと思う。
「さすがにそれは今すぐは無理だってことくらい、わかってます」
仏頂面のままクレスがそんな返事をする。なんだか台詞が棒読みだけれど。
クレス、その返事違うと思うよ。
どうにか顔を上げてそう訴えたかったけど、開いた口は空回りするだけで言葉が出てこない。
視界に入った彼の顔も、大分赤くなっていた。
「まぁ、いずれにせよ、すぐ、というわけにはいかんのぉ」
「さっきいつまでか決めてないって」
「それはそうなんだがのぅ」
だったらいいじゃないですか、と声を上げるクレスをのらりくらりとした態度でかわし、大旦那様は思案気にあご髭を撫で回す。
「アゼル、今十一歳か」
「え、あ、はい」
大旦那様に名前を呼ばれて、開閉するだけだった口からどうにか声を出す。
「坊、あの学院に入学するのは」
「十三歳からです」
「ならば、あと二年じゃな」
「従者に年齢制限はありません」
クレスは畳み掛けるように口を挟む。
「うむ。知っとるがの………とは言え、今のアゼルはまだ学院の授業や生活についていくのは大変じゃろう。だから今のクレセント坊と同じ十三になるまでは、ここで修行じゃ」
その時まだアゼルがクレスと学院に行きたいのなら、そこで帽子屋を下がってよろしい。いいね、と大旦那様はあたしに向かって言い聞かせるように言った。
「…はい」
二年、と明確に示された期間に、こくん、と頷いて返事をした。
「坊の気持ちもわからなくは無いが」
そう言うと大旦那様は、よっという掛け声と共に椅子から立ち上がり、あたしたちのように歩み寄ってきてその大きなしわしわの手でクレスの頭を撫でた。
「何、反対している訳じゃない。アゼルは学業の基礎も勉強し終わっていないし、マリアンのお菓子作りの極意を伝授されてからの方が、坊も嬉しかろう?だから」
二年経ったら迎えに来なさい、とまだ納得しきれていないような表情のクレスに、優しく言い聞かせた。
皆様お忘れかも知れませんが、タイトルの帽子屋さんは、大旦那様です(逃)
影薄すぎ…orz