瞿恭の機転と単騎の阿亮
「コノ先、敵影ナシ。コノ先、敵影ナシ」
上空で金烏が一頻り喋っては、また何処かへ飛び去った。
里を出た歩兵と弓兵の一団は、今や目指した随県に辿り着こうとしていた。
「此処までは何事もなかったな」
大斧を肩に掛けた瞿恭が、腹を揺らして闊歩していた。
「問題はこの先だ。阿亮どのの見解では、襄陽、もしくは夏口と言っていたが、元緒さま、何か報はありませぬか?」
文聘が、肩に乗った元緒に尋ねた。
「…………」
元緒は微動もせず、押し黙ったままだった。明らかに様子がおかしかった。
「……介象が、やられた」
元緒が口を開いたかと思えば、その内容に文聘と瞿恭も声を失った。
「虫の息のようじゃ……。これは、急がねばなるまい」
そこへ、突如として姿を現したのは、一体の九尾狐だった。
「介象ハ倒レ、騎馬隊ハ夏口ヘ。介象ハ倒レ、騎馬隊ハ夏口ヘ」
大人しく腰を下ろした九尾狐は、後ろ足で耳を掻くと、ふわりとした九つの尾を揺らしながら、また何処かへ走り去った。
「ほ、本当かよ?」
髭に覆われていてもなお、瞿恭の顔が引き攣っていることがわかった。
「し、信じられん。あの、介象さまが……?」
常に冷静な文聘も、眼を泳がせた。
「心配はいらぬ。奴は這ってでも我らと合流するであろう。得てして、向かう先は夏口となったが、此処からだと先行した騎馬隊に追い着けそうもないのう」
途端に――。
瞿恭の引き攣った顔が、自信に満ち溢れたそれに転じた。
「俺に良い考えがある」
瞿恭はそう言うと、子分を従え溳水の畔まで向かった。
暫くすると、遠くから喧騒のようなものが聞こえてきたが、僅かの間を置いて静かになった。
間もなく、鼻血を流した瞿恭が覚束ない足取りで戻ってきた。
「こっちだ」
瞿恭に誘われ、肩に元緒を乗せた文聘を初め、里の義勇兵たちが怖ず怖ずと後に続いた。
「これだけあれば、誰も欠けることなく溳水を下って、夏口まで一直線だ」
見れば、溳水には豪奢に彩られた艇や露橈、走舸や先登が見渡す限りの水面に浮いている。
岸辺には、文様のような刺繍を施した戦袍の賊徒と、瞿恭の子分たちが倒れていた。
「錦帆賊と言えば、神出鬼没の川賊で有名だからな。溳水の畔の何処かに船を隠していると思っていた。意外にも眼と鼻の先だったな」
瞿恭は言い終えるや否や、白目を剥いて仰向けに倒れた。
「良くやった、瞿恭」
「好い好い」
瞿恭の機転により、文聘率いる里の兵団は、船という速力を手に入れた。
これにより、一足飛びに夏口へ向かった。
水軍基地を擁す江夏郡の玄関、夏口――。
今、まさに出陣しようとしていたのは、騎馬五千、歩兵三千、弓兵二千の軍である。
それを束ねる将は、頭を朱色の布で鉢巻き、魚鱗甲を纏った蘇飛だった。
その両翼には、截頭の薙刀を持った鄧龍と、長く太い豪槍を携えた陳就を配していた。
三人は、一万の軍を率いるようにして駒を並べている。
「遂に、この日が来てしまいましたね」
顔色が雲っている蘇飛を気に掛けた鄧龍が、誰にともなく発した。
「仕方あるまい。これも劉表さまの指示だ。それにしても、この兵の数は大仰ではないか?」
陳就は馬上で振り返りながら、呆れた調子で返答した。
「確かに、気の進まぬ戦だ」
一度、嘆息した蘇飛が、何気なく前方に眼を遣ると、小さな砂塵が見えた気がした。
「あれは、何だ?」
蘇飛の声に、鄧龍と陳就も前方に眼を凝らした。
小さな砂塵が次第に大きくなると、一騎の駒が駈けてくるようだった。近付いてくる騎馬は速度を緩め、ゆっくりと蘇飛の前方まで進んで止まった。
阿亮だった。
その粗末な白い道袍が砂塵に塗れている。
阿亮は、さっと下馬して蘇飛に拝跪すると告げた。
「江夏太守、黄祖さまの将どのとお見受け致す。私は、黄嘴の豎子、阿亮と申す者。この戦、仕組まれておりまする。その絡繰を告げに汝南より馳せ参じた次第。希くは、どうか、黄祖さまにお目通りを」
「仕組まれた戦――?」
蘇飛は眉を顰めたが、眼前の阿亮から漂う清雅の気色が、蘇飛の眼を惹いた。虚偽を語るような若者には見えなかった。
蘇飛は、進軍停止の号令を掛けると下馬し、地に膝を突いている阿亮へと近付いた。
「お立ちなさい」
すっくと立った阿亮の眼は、澄んでいた。稀に見る立派な面貌の持ち主だった。
「面白そうな話が聞けそうだ。水軍の出立には、まだ時がある。付いて来い、阿亮。黄祖さまに会わせよう」
川面を埋め尽くすように、出陣を控えた船団が見えている。
蘇飛は鄧龍と陳就に指示を出すと、阿亮を引き連れ、漢水と溳水が合流した下流域の水軍基地へと歩を進めた。
楼船に翳した軍旗がはためいている。
風は、西から東へ吹いていた。