窮地の介象
五十騎は馬脚を緩めた。甘寧が浮かべた冷酷な笑みに近付いていく。
「誰かと思えば、介象さんじゃねえか。俺の援けが必要にでもなったか?」
リーン――。
甘寧の腰の鈴が鳴った。
介象は、五花の脚を止めた。
「お前は、左慈に踊らされている、甘寧。あの船団を止めろ」
「そうはいかねえな。俺は、荊州の王になると決めた。夏口はその足掛かり。あの船団を止める訳にはいかねえよ」
「どうしても止まらぬか?」
介象は佩剣している三本の剣、そのうちの一本の柄に手を掛けた。
「止められないねえ」
甘寧は不敵に顔を歪めた。同時に、腰に帯びた青冥の剣を抜き放ち、霊気を込めた。
すると――。
周囲の地から、人の形をした身の丈七尺ほどの土の妖し、息壌が五十体ほど湧いて出た。挙って腹の底に響くような遠吠えを上げている。
「――――⁉」
五十騎の兵たちが、眼前の不可思議な出来事に眼を剥いた。
「胡綜、対策は承知しているな?」
甘寧に眼を遣ったまま、介象は言った。
胡綜は佩剣を抜き放つと、五十の騎馬隊に大音声で伝えた。
「恐れるな! たかが土の妖し。人を喰らうが動きは鈍重。斬れば身は崩れ、すぐ元に戻ろうとする。これは単調な体力戦だ。各々、斬りまくれ!」
次々と、地より息壌が湧いている。
「姚光――⁉」
突如、馬上より楼船に眼を向け叫んだのは、葛玄だった。
「おーい‼ 姚光、俺だ、おっ父だ‼ 葛玄だ‼」
叫ぶような葛玄の声が、聞こえるであろう距離だった。
楼船の高台で此方に背を向けるように立っていたのは、明らかに姚光だった。白の緇撮で結った黒髪が風に揺れている。その手には短矛、屈盧の矛が握られていた。
「き、聞こえないのか……?」
姚光の背に視線を向けながら、葛玄は槍で息壌を次々に貫いた。
代わりのように、楼船の高台に姿を現したのは、血色の悪い張虎と陳生だった。
「甘寧! さっさと片付けろよ!」
喚いた張虎に眼を向けた介象が、驚きの表情を晒した。
「あれは、江夏衆の頭目――⁉」
「誰も、元に戻る気はねえとよ」
甘寧はそう吐き捨てると、虚空で青冥の剣を振り抜いた。
放たれたのは、神々(こうごう)しいほどに蒼く輝く巨大な蛟だった。介象を一息に飲み込みそうな勢いで、龍にも見紛う大口を開けて飛び出した。
咄嗟に介象は莫邪の剣を抜き放つと、蛟の大口に横一閃を放った。
口が上下に大きく割れると、蛟の姿は薄くなって消えた。
その刹那、介象の眼前には甘寧の姿があった。跳ねて青冥の剣を振り翳している。
ガギイイン――。
介象は左手に持った莫邪の剣で青冥の一撃を受け止めると、右手で干将の剣を抜き放ち、甘寧に一閃を走らせた。
甘寧の姿はもう眼前にない。五花の鼻を蹴るようにして宙に翻っている。
介象は、干将と莫邪を両の手に、五花の背から宙に飛んだ。
「へえ、二剣を使うのかい? 何方も妖剣だな」
虚空で逆さまになったような甘寧が、笑みを浮かべている。
舞っていたのは、一羽の青い蝶だった。
すると――。
口から血を噴出したのは、介象だった。何かに貫かれたように、腹からも血を流した介象は、摚っと地に落ちた。
「か、介象さま――⁉」
異変を察知した胡綜の声に、息壌に容赦のない刃を与えていた騎馬隊の動きが凍った。
「残念だったな、介象さん」
着地した甘寧は、青冥を振り払うと、蒼く輝く蛟が介象に向かって宙を走った。
更に、突如として姿を現したのは、神々しい白い光を放つ巨大な白虎だった。牙を剥き出し、介象に猛然と襲い掛かった。
「か、介象どの――‼」
葛玄は大声を放ちながら、思わず眼を背けた。
バキッ――。
鈍い音がした。介象を噛み砕いたと思われた蛟と白虎が、薄くなって消えていた。
灰褐色に輝く玄武が、倒れた介象を覆うようにして蛇頭をくねらせている。
「い、行け、葛玄。姚光を……ゴホッ」
仰向けに倒れた介象が鮮血を噴出すと、すうっと玄武が消えた。
「介象どのを守れ‼」
葛玄の声に、五十の騎馬が息壌を斬りながら馳せ寄った。
同時に、葛玄は騎馬隊を離れ、孤軍で楼船へ向かって駈けた。
「姚光‼ 迎えに来たぞ、早くこっちに来い‼」
「だから、無駄だって」
甘寧はゆっくりと楼船に歩を進めながら、青冥の剣を振り下ろした。
蒼く輝く大口を開けた蛟が放たれると、白翊で疾駈する葛玄の胴を咥え、上空へ舞い上がった。上空へ舞い上がった蛟は、虚空でその身を反転させると、葛玄を咥えたまま猛然と地へ飛び込んだ。
そこには、地へ打ち付けられたような葛玄が倒れていた。
姚光は、楼船の高台から、川下に眼を向けたままだった。
「出航だ、王表」
悠々と楼船に身を移した甘寧は、王表に指示した。青冥の剣を鞘に収めると、五十騎が対峙していた息壌は、崩れるように土へと戻っていた。
屈強な錦帆賊の輩が、櫓を漕ぎ出した。
楼船がゆっくりと漢水の川面を走り出した。
姚光の後ろ背が、どんどん小さくなっていった。
「介象さま!」
「葛玄先生!」
甘寧がどうやって介象に傷を与えたのか、誰もわからなかった。介象が傷を負うということ事態、誰も信じられないでいた。
全身を強打した葛玄に、意識はなかった。
身を起こした介象は、覚束ない足取りで葛玄の許まで向かうと、地に膝を突いて葛玄の胸に片手を添えた。介象の手が、俄かに光を帯びたかと思えば、その光は葛玄の胸に吸い込まれるようにして消えていた。
何事もなかったかのように葛玄は起き上がると、それと入れ違うように介象が地に倒れ込んだ。口と腹からは、依然として流血している。
「介象どの――‼」
慌てた葛玄は、介象を抱き起こそうとした。
「……葛玄、胡綜、早く姚光を追え。俺は……少し休んでから向かうとしよう」
「介象さまをこのままにしては行けませぬ!」
胡綜の眼には、涙が浮いていた。
「俺は……方士だ。己を回復させることくらいできる。暫し時を要すがな……。だから……先に行け。阿亮も元緒たちも……待っている筈だ」
「それで、良いのだな?」
顔に悲愁の色を浮かせた葛玄が質した。
こくりと頷いた介象は、咳き込みながら血を吐くと、葛玄に言った。
「……急げ。姚光が待っている。お主に霊気を授けた。……役に立つ筈だ」
葛玄は、ゆっくりと介象の頭を地に置くと、騎馬隊へ下知した。
「行こう。錦帆賊を追う」
葛玄と胡綜は、後ろ髪引かれる思いを振り切るようにして騎乗すると、五十騎を従え、錦帆賊の船団を追うように駈け出した。




