紡績と流星の剣
続々と里の結界を出た葛玄の率いる一団は、広大な原野を堂々と進んでいた。
気付けば、豆粒ほどの大きさに見えるが、原野には人が佇んでいるようだった。
牛のような生き物に乗っている。着物姿の女のようだった。
そのすぐ脇では、鶴のような姿態の鳥が、羽を揺らして宙に浮いている。
「あんなところに人が留まるなんて、珍しいこともあるものですね、瞿恭の親分?」
賊徒たちは、騎馬隊に続いて進軍していた。その子分の疑念に、兜を被って大斧を肩に担いだ瞿恭も原野に眼を凝らした。
「何だ、ありゃあ……?」
瞿恭は腹を揺らした歩みを止めた。瞬く間にその顔が青褪めると、大声で先頭を行く葛玄を呼ばわった。
「だ、駄目だ! 大将、止まれ! 何かあるぞ!」
一度振り返った葛玄は、駒の進みを止めた。
「左慈さんの報どおりに来てみたけど、なるほど、諦めが悪いみたいねえ」
艶やかな声音で嫣然と微笑んでいた。細腰雪膚の艶麗が、豪華な着物を身に纏っている。
方士の紡績だった。
端整にその腰を下ろしている生き物は、蓑を着たように全身が長い黒毛で覆われている。一つ目で、頭部に四本の角を生やした牛のような妖し、嗷咽だった。
その傍らには、薄ら青い地肌に赤の斑紋が浮き、白い嘴で一足の鶴のような妖しの畢方が宙に浮いている。その一本の足で、鞘に収まった剣を持っていた。
樹海から続々と出てくる武装した一団に、無表情の紡績は冷徹な視線を向けた。
「何処へ行っても愚昧ばかり。愚昧は屑。屑は掃除しないと。さっさと済ませて、左慈さんと合流しないといけないわ」
紡績は、右手の細い中指に人差指を重ね立てると、一団に向けて突き出し、唱えた。
「今、我が僕なる鬼打牆、花魄を召喚す。前方に在りし兵団を駈逐せよ」
すると――。
原野の至るところから、葛玄が率いる一団の進軍を遮るが如く、轟音を立てながら、無数の土塀が地から湧いて出た。
「な、何だ――⁉」
地より不規則に出現する土塀で、里の一団は幾つもの塊に分断された。
そして、原野の周辺に植わる草木は、剣や鉾などの武器を手にした人の形に姿を変えると、次々と迷路のような土塀の中に踊り込んで行った。
「鬼打牆と花魄――⁉ あの女、方士だったか! これほどの数の妖しを操るなんざ、只者じゃねえ。このままだと皆、殺られちまうぞ……」
瞿恭が戦慄の声を上げると、子分たちの様子が慌しくなった。
「く、瞿恭の親分! 草木が人の姿になって襲ってきます!」
周辺の草木が、次々と妖しの花魄に変じると、里の一団は襲われ始めた。
「ぎゃあ!」
瞿恭の子分たちが斬り刻まれている。
「お前ら気張れ! 此奴等は妖しだ! 大したことはねえ! 里の奴らに、本当の戦の仕方ってやつを見せつけるぞ!」
「応よ‼」
瞿恭の檄に、賊徒たちは躍動した。
土塀と土塀の隙間を縫うようにして、次から次へと妖しの花魄が押し寄せる。
葛玄は、襲い来る得体の知れない妖しに、馬上から槍風を浴びせた。
不思議なことに、躰の何処かを斬れば、妖しは見る間に小さくなって葉に戻った。
しかし、荒波のように押し寄せる花魄は相当な数に上った。
「ぎゃっ!」
応戦の手数が減ると、花魄に追い込まれて斬られる。
突然として、地より現れた無数の土塀に四方を阻まれ、葛玄の一団は、連携した応戦ができないようにされていた。
「遅かったか!」
介象は里の結界を駈け出た。五花から眼前の土塀に飛び乗ると、次々と土塀を飛び越え、花魄と鬼打牆を召還した首魁を目指した。
その時――。
土塀のひとつに、横一閃の亀裂が入ると、音を立てて崩れ落ち、土煙の中から人が現れた。押し寄せる花魄たちにも、何ら恐れることなく立ち向かっていた。その中央には、大斧を肩に乗せた恰幅の良い影が見えた。
「何て見晴らしが悪いことをしてくれるんだ。ちんけな土塀は、この鉄火山の瞿恭さまに任せろ」
瞿恭は悠然と大斧を担いで闊歩すると、手当たり次第に土塀に一閃を加えた。見る間に連携して戦えるほどの余地を確保していった。
「弓隊は土塀の上から歩兵を援護しろ!」
胡綜の声だった。
弓隊の放つ連矢に、花魄たちはばたばたと斃れた。
子分に守られながら、瞿恭は直進するように土塀を斬り崩しながらずんずん進んだ。
その後方を文聘が率いる歩兵隊が堅実に前進している。左右に乱立する土塀の隙間から、突如として現れる花魄に注意しておけば良かった。
土塀の上に阿亮の姿があった。肩には元緒が乗っている。
「……これまでに読んだ兵法書が、まるで役に立ちませぬ」
言った阿亮に元緒が返した。
「このような戦もあるということじゃ。見聞きしただけでは、身になることも少ない。経験が己の骨となり肉となる。行動こそ学び」
驚きの色を見せたのは、紡績だった。
「あの鬼打牆が、いとも簡単に砕かれている……。得物に霊気を纏わせない限り、あれほど容易には砕けない筈。介象とは別の方士がいるのかしら……?」
その介象が、鬼打牆の土塀を飛び越えるようにして、紡績に接近しつつあった。
「仕方ないわね」
紡績は嫣然とした笑みを浮かべると、傍らで宙に浮かんでいる畢方の一本足から、鞘に収まった剣を抜き放った。
冷然とした剣が、陽光に照らされ眩い光を反射した。その根元には、「流星」と銘されている。
紡績は剣に霊気を込めると、迫る介象を狙うようにして虚空へ二度斬り下げた。その所作は、辺りに馥郁とした香りを撒いた。
すると――。
原野の上空一帯に、幾つもの鋭い剣が現れた。その剣は、生きている者に狙いを定めると、矢のような勢いで下降した。
更に、流星の剣より放たれたのは、紅い輝きを放ち、身に火炎を纏った大鳥の鳳だった。その鳳が疾風の如き火矢となって介象を貫こうとしている。
介象は微笑を浮かべると、佩剣の二本を抜き放った。
右手の剣身には龜文、左手の剣身には漫理が浮かんでいる。干将と莫邪の剣だった。
介象は土塀を踏みつけて天高く飛翔すると、両手に霊気を込めた。二本の剣から何か放たれたようだった。
「剣だ! 剣が空から降ってくるぞ!」
上空の異変に気付くと、葛玄の一団は戦慄した。固まったような身は動くことも忘れ、唯、空を見上げるしかなかった。
「問題ない」
言ったのは元緒だった。
刹那――。
辺りが灰褐色の霊気に包まれた。
キン。コン。キン――。
数多の剣が降り注ぐ前に、覆われた灰褐色の霊気で弾き返されていた。
その灰褐色の巨大な霊気の全貌を目の当たりにしたのは、紡績だった。
「あれは、玄武――⁉」
神仙な霊山を連ねたような甲羅から、鹿の角のようなものを生やした蛇頭がくねっている。葛玄の一団をすっかり覆うような灰褐色に輝く巨大な霊気の姿は、莫邪の剣から放たれた霊獣の玄武だった。
そして、干将の剣から放たれたのは、霊獣の朱雀だった。
数多の朱色に輝く火炎に塗れた雀は、原野を光速で飛び回り、花魄と鬼打牆を次々に穿つと、虚空で結集し、巨大なひとつの朱雀となった。
神速の朱雀は、介象に狙いを定めた鳳をも切り裂くと、紡績へ向かった。
「――――⁉」
端整な美質の顔に驚愕の表情が浮かぶと、乗っていた嗷咽が黒毛を生き物のように伸ばし、毛の壁を作った。
傍らの畢方も紡績の身を守るように前へ出ると、白い嘴から青白い冷気を吐いた。
大翼を広げた朱雀は、嗷咽と畢方の抗いをものともせず、紡績諸共その身を擦り抜けるように飛翔すると、すうっと姿を消していた。
どっと、紡績の身が地に落ちた。
鳥型と牛型の小さな白紙がヒラヒラと舞っていた。
次の瞬間――。
舞っていた小さな白紙にボッと火が付くと、黒煙を上げて消えた。
原野に放たれていた妖しの花魄と鬼打牆からも炎が上がると、黒煙となって姿が見えなくなっていた。
「ギャッ!」
叫んだのは紡績だった。朱雀に触れた身は煉獄の熱を帯び、艶やかな着物を纏った全身は業火に包まれた。
介象は、着地すると紡績に向かって跳ね飛ぶように距離を詰めた。
爛れた顔を抑えた紡績は、指の隙間から冴えた眼の光を放っている。流星の剣で闇雲に宙を斬ると、幾つもの鳳が放たれ、虚空を旋回して次々と介象を襲った。
介象は干将と莫邪の剣で、襲い来る鳳の群れを薙ぎ払っては身を翻し、二剣の演舞のように鳳を斬った。
「憶えておれよ、介象――‼」
怨恨の籠った低い声が、散り消える鳳の断末魔と重なって聞こえた。
紡績の姿は、もうそこにはなかった。
「こ、これが、方士の戦いなのか……? 命が幾つあっても足りぬではないか……」
肩で息をしたような葛玄が、驚きの表情を浮かべた。
「けどよ、介象さまのお蔭で、怪我人は最小限で済んだんじゃねえか? これなら、まだ進軍を続けられる。それとも、出だしで怖気付いたか、大将よ?」
大斧を肩に担いだ瞿恭が、腹を揺らして葛玄まで歩み寄った。
干将と莫邪を鞘に収めながら、介象も葛玄まで身を寄せた。
「優先の第一は姚光の救出、第二が荊州内での錯乱阻止。だが、何方も事は急ぐ。左慈の狙いは俺だろうが、何時、また急襲してくるかわからぬ」
それに合わせたように、文聘、胡綜、阿亮と元緒も葛玄の周囲に集った。
「騎馬隊を先行させましょう。騎馬隊は一気に漢津を目指し、歩兵隊と弓兵隊は隋県を目指す。歩兵隊と弓兵隊が隋県に着く頃には、左慈の狙いも見えて来るかと……」
冴えた瞳の阿亮が、虚空に地図があるように指を差しながら言った。
「一団を分断しても、儂と介象で伝達し合えば、連携が取れるということじゃな?」
肩で言った元緒に、阿亮がこくりと頷いた。
「よし。手を拱いている場合ではない。行動してこそ次に見えてくるものもあろう。騎馬隊のみ先行し、まずは漢津の姚光を奪還しよう」
葛玄はそう言うと、馬上の人となった。
五花が介象に駈け寄って来た。
介象は五花に跨ると、原野を見渡した。
何事もなかったような原野が広がっていた。