動き出した策謀と阻止への出立
王表が手にしている松明だけが、辺りを照らしている。
「あん? 誰だ?」
張虎は、太々しい態度だった。
それを気に留めることなく、左慈は上機嫌に笑顔で応じた。
「やあ、僕は方士の左慈。陰ながら君たちを応援しよう。そして、こっちは……えっと、何だっけ?」
「……姚光」
ぶっきらぼうに答えた姚光に、張虎と陳生は冷ややかな視線を遣った。
「あ、そうそう、姚光。この娘も君の副として錦帆に加えてほしいな。腕は立つよ。そっちの二人よりもね」
左慈は笑顔で甘寧に眼差しを据えた。
「あん⁉」
張虎がいきり立った様子だった。
「見りゃあわかる。確かにこの娘の腕は立つが、何で行き成り現れたあんたの言うことを聞かなきゃならねえ?」
左慈は、きょとんとした。気を取り直すと、再び微笑を湛えて言った。
「僕が青冥の剣を拾わせて、君の本当の力を引き出してあげたからだよ。断るって言うなら、残念だけど、君を始末しないといけないなあ。ねえ、王表?」
「左様でございます」
気配はなかったが、左慈へ拝跪した王表の背後には、何時の間にか十人ほどが控えていた。全身に黒の装束を身に纏った者たちが、王表に倣ったように拝跪している。
「王表、手前、俺を嵌めたってのか――⁉」
怒気を孕んだ声音の甘寧が、王表を睨んだ。
「違う違う。僕と王表は、劉表に代わって、君に荊州の王になってほしいだけだよ」
左慈は笑みを湛えて続けた。
「偉大な力、方術をも駈使してね」
「面白え。ちょうど劉表も、また俺たちに喧嘩を売り始めたところだ。逆に、俺がこの荊州を獲ってやるよ」
青白い顔色の甘寧に、残忍な笑みが浮かんだ。
「そうと決まったら、君に更なる強力な助っ人を紹介しよう」
上機嫌になった左慈が声を大きくすると、その後方の暗闇から得体の知れない気配で浮き上がるように現れた。
白髪を無造作に束ね、深い皺が刻まれた相貌に白髯を蓄え、薄汚れた白い袍で身を包んだ痩軀だった。まるで病魔に侵されているかのように、頻繁に咳き込んでいる。
そして、臥蚕の眉の下で瞳を爛と輝かせ、鼻は反り立っている。浮かべた笑みは耳まで口が裂けたような魁偉の容貌だった。戦袍を纏った巨漢は、将軍を髣髴とさせた。
「皆は知っているかな? 死を司る北斗の神、彭翦。そして、戦を司る南斗の神、李鉄。参戦するために冥府から舞い戻ったのさ」
左慈は、にことしてみせた。
姚光は全身に鳥肌が立った。張虎と陳生の比ではないほど、その異様な気配は、人に恐怖を植え付けるほどだった。
「左慈よ、贄はその娘か? ゴホッ……」
蒼白な顔で、口許を抑えて咳き込んだ彭翦が質すと、隣に侍る巨漢の李鉄が応じた。
「彭翦よ、左慈は血祭りと言っておったのだぞ? 娘ひとりだけではあるまい」
「まあまあ。二人とも焦らないでよ。約束の血祭りは、近いうちに決行するから」
左慈の口調は、彭翦と李鉄を宥めるように柔らかかった。
「ふん。主催者は、妖剣を手にしたその者で良いな?」
李鉄は、甘寧を見定めた。
咳き込みながら、彭翦も甘寧を見遣った。
「そうだよ。主催者は、この甘寧」
左慈は柔和な笑みを見せた。
「ならば甘寧、我ら李鉄と彭翦、お主の命に違うことはない」
彭翦と李鉄は、暗闇へ溶けるように姿を消した。
「死を司る北斗の神と、戦を司る南斗の神だと……? ありゃあ、異能の持ち主だな」
甘寧は、青冥の剣身を舐めるように見ると、恐怖に震える張虎と陳生に気付いた。
「お、おい、左慈と言ったな? お前、とんでもない奴等を蘇らせやがったな」
「あれは、冥府からも忌み嫌われる堕ち神ですよ? 我々でさえ黄泉では近づくことを恐れたというのに……」
ぶるぶると顫えた張虎と陳生が、左慈を睨み据えた。
「あはは。これで顔合わせは済んだね。あとは頼んだよ、王表」
「畏まりました」
平身低頭する王表の後方に控えていた者たちの気配は、もうなかった。
甘寧は右手に霊気を込めると、徐に青冥の剣を斬り下げた。
周囲の地から湧いたのは、五十体ほどの土の妖し、息壌だった。一体、二体と、腹の底に響くような遠吠えを上げ始めた。
甘寧は更に霊気を込め、川面に剣を振り下げた。
勢い良く放たれたのは、蒼く輝いた龍にも見紛う大蛇の蛟だった。うねるように虚空を走った蒼い蛟は、天へ昇るようにして静かに消えていた。
甘寧の悪鬼の形相が不気味に歪んだ。
それを目の当たりに満足げな左慈は、何か思い出したように独語した。
「あれ? 紡績さんがいないや。もしかして、手を焼いてるのかな?」
誰の声も耳に入らないような姚光は、屈盧の矛を握り締め、暗い川面を見つめていた。
生きている心地がしなかった。
異様な光景だった。
原野では、着物姿の女が牛に乗って立ち往生している。
その傍らには、鶴ほどの大きさの鳥が羽を広げて宙に浮いていた。鳥はその足で棒のようなものを掴んでいる。
鄷玖の里では、女子供と老人たちを除き、戦える者は皆、武装して出立の準備を万全にしていた。
自衛団のようなものを組織していたせいもあってか、里の者は揃いの白甲を纏っている。四角い鉄の小札を縫い合わせた胴巻きに加え、半円形の鉄札を縫ったもので肩と腰を保護していた。鉄の表面は全て白塗りしている。
捕らえられた賊徒たちは、計蒙と三体の巫支祁に監視されていたとは言え、どれもが大人しく拘束されたままだった。
驚くことに、全員が瞿恭に従うことになった。理由は、賊徒のどれに聞いても同じだった。
「親分が心配だから――」
里の牧からも馬を開放した。五十ほどの騎馬隊が編成できそうだった。
大将の任を司ることになった葛玄は、白鹿毛の駿馬、白翊に跨った。軍師のような阿亮と、助っ人の介象と胡綜を従え、遊軍のような騎馬隊を指揮する。
歩兵と弓兵の混生部隊は、賊徒たちも含めると、七百ほどになった。里の兵を率いる文聘を隊長とし、副に瞿恭を据えた。
そして、文聘の肩には、自らを名軍師と称して止まない元緒が乗っている。
「そろそろ出立でございますね」
五花を曳いた介象に、後方から話し掛けたのは、藜の杖を突いた鄷玖だった。
「姚光の位置は把握できたか、鄷玖?」
武装もせず、いつもの黒い襤褸を纏った介象が尋ねた。
「姚光は漢津に。何か動きがあれば、伝令を飛ばしましょう。兵站は御心配なく」
介象は頷き返すと五花に跨った。
「介象どの、これより出立いたしますが、何処を目指せばよいか?」
白翊に跨った葛玄が、駒を寄せて介象に質した。
「肌白の兄ちゃんが、左慈は襄陽か夏口辺りに何か仕掛けると言っていたな? だったら、隋県を目指しときゃあ、その後の報次第で何方にも向かえる」
でっぷりとした腹を揺らしながら、瞿恭は阿亮を見遣った。
阿亮はこくりと頷いた。
それを見た介象も葛玄に向かって首を縦に振ると、葛玄は出立の号令を放った。
「これより隋県を目指す!」
「応‼」
急拵えの義勇軍は、意気盛んに里を出立した。騎馬隊を先頭に歩兵隊と弓隊が続く。
「必ず姚光を取り戻して来るのだぞ!」
「左慈の悪事を見過ごすな! 里の誇りに掛け、必ずや姚光を救い出せよ!」
それを見送ろうと里の女子供と老人たちが詰め掛けていた。
すると――。
突如、空間からすうっと現れたのは、一体の孟極だった。ひょこひょことした歩き方をしている。無理もない。欠落した前脚の一本からは血を滴らせ、腹から飛び出た内臓を引き摺っていた。
「きゃあ!」
集っていた里の女たちの奇声に、はっと振り返った介象は、五花から飛び降りるとその孟極に駈け寄った。
孟極は、最後の力を振り絞るように、額の一角からこれまで見聞きした情報を思念で介象へ飛ばした。
「……御苦労だったな」
介象が優しく言うと、その孟極は消え入るように小さな白紙へと姿を変えた。
「孟極か? して、先方はどんな様子じゃ?」
此方へ向かって進軍してきた歩兵団の後方で、文聘の肩から元緒が聞いていた。
「事態は想定より大きくなりそうだ。一刻も早く姚光を救出せねば、左慈に飲まれかねん」
深刻な表情を浮かべた介象を眼に、文聘は胸中で静かに闘志を漲らせた。
「向こうは後先考えず、堕ち神まで利用し、荊州での錯乱を大きくしようとしている」
「何と⁉ 堕ち神とな――⁉」
「久方振りに出番があるかもしれぬな、元緒」
介象は謎めいた笑みを元緒に向けた。
「何を言うておる。今回の儂は、軍師に徹するぞよ。介象よ、斥候を放て」
元緒の指示に、介象は肯んじると、懐中から狐と鳥のような形をした小さな白紙をそれぞれ五枚取り出した。息をふっと吹きかけると、狐の白紙は白い毛並みの九尾狐に、鳥の白紙は黄金に輝く烏、金烏に変じた。
「何かあったら知らせよ」
そう言って、介象は九尾狐と金烏のそれぞれ五体を放つと、どういう訳か一体の金烏がすぐに舞い戻ってきた。
「介象よ、先手を打たれておる! 先を行く葛玄の許へ急げ!」
元緒の指示に弾かれたように五花に跨ると、介象は一団の先頭へ向かって五花を疾駈させた。
里に異変はない。結界は解かれていないようだった。




