闇堕と復活
さて――。
汝南の霊山から姿を消した左慈と姚光の姿は、漢水の畔にあった。
月のない蒸し暑い夜更けだった。
姚光の身は、依然として黄金色に輝く蛇のような妖し、化蛇に幾重にも巻き付かれ、思うように身動きが取れない有様だった。
「今から、面白いものを見せてあげるよ」
仄暗い川面を向いて、不意に左慈が言った。
「君には色々と手伝って貰うよ。僕に逆らえば、どうなるかわかるね?」
姚光は暗闇の中で、声の主に睨み返した。
「あの槍使いは君の養父なのかな? 顔は似てないけど、おっ父って呼んでいたものね」
「…………」
「僕に逆らえば、君は殺さない。その代わり、君の眼の前で養父を殺す。君はこの先ずっと、後悔の念を抱いて生き続けることになる」
「……お前、最悪」
姚光が、吐き捨てるように言った。
「あはは。最悪――。最高の褒め言葉だよ。僕は悪だろうと何だろうと、一番が好きさ」
左慈は姚光に振り返ると、邪な笑みを暗闇に晒した。
ガルルルル――。
暗闇の中に唸り声と共に、幾つもの赤い眼が浮かんだようだった。足音もなく近づいてくるその赤い眼の主は、介象が放った妖し、孟極だった。
五体の孟極は、左慈を取り囲むようにゆっくりと間合いを詰めている。
「やれやれ。お客さんだね」
左慈は懐中から鳥型の白い紙片を取り出し、一息吹きかけた。
白紙から変化した鐸飛は、左慈の身を一本足で軽々と上空まで持ち上げた。
「流石は伝説の方士だけのことはあるみたいだね。天帝の猟犬とも呼ばれる妖し、孟極を一度に五体も放つなんて、凄いや」
五体の孟極も、左慈を追うように虚空を蹴って身を浮かせると、額の一角から眩いほどの稲妻を放った。
左慈は左手で鐸飛の足に掴まったまま、佩いている二本の剣のうち、一本を右手で抜き放った。
白虹――。
左慈は、虚空に剣を振り下ろした。
孟極の放った稲妻が、左慈の直前で止まっている。
宙で止まった孟極の赤い眼と、稲妻の軌跡だけが光っている。
左慈は勢いをつけて鐸飛の背に身を翻しながら、白虹を孟極に走らせた。鐸飛の背から地に飛び降りながら、更に白虹を振るった。
パッと、稲妻が光ったように見えた。
どさっ、どさっ――。
すぐさま暗闇になると、何かが上空より落ちてきた。
姚光には、何が起きているのかわからなかった。赤い眼は、介象の不思議な術である筈だと、僅かな期待を持っていた。
しかし、戦慄している姚光の前に現れたのは、笑みを浮かべたような左慈だった。
その周囲にあった幾つもの赤い眼は、もうなかった。
気が付くと、姚光に巻き付いていた化蛇が消えている。
バシャ――。
暗闇の中で漢水が飛沫を上げた。
はっと、姚光はその水音に反応するように眼を向けた。暗闇でよく見えなかったが、左慈は抜いていた剣を鞘へ収めると同時に、もう一本の剣を鞘ごと漢水へ放り投げたようだった。
二体の鐸飛が足許へ静かに降りてきた。
「さあ、鐸飛の背に乗って」
姚光は左慈に促されるまま身を移して、鐸飛の背に立った。暗闇の虚空へ静かに運ばれると、後を追うように左慈も鐸飛の背に乗って隣まで登ってきた。
「見せたかったのは、これから始まる方だからね」
左慈の口ぶりは上機嫌だった。
リーン――。
暗闇の中で、鈴の音が鳴ったようだった。その鈴の音は、松明と共に、次第に此方へ近づいて来た。
「甘寧さま、この辺りだったかと」
初老の男の声だった。その声の主が、もうひとりの男を川辺へ誘っていた。
誘導されているのは、虎の毛皮を纏った猛々しい男のようだった。
「本当にそんなもんがあるのか、王表?」
「確かにこの辺りで見たのです。川の中で異様な光を放つものを……」
王表と呼ばれた顎先に三寸ほどの白髯を蓄えた初老の細身が、一緒の男に言った刹那だった。
川底が青白く光った。
その青白い光が徐々に強くなると、川底から光を放っているのは、一本の剣であることが見て取れた。
「甘寧さま、どうかそれを手に」
初老の男は、何ら臆した様子もなく、若い男にそれを拾うよう促した。
「拾えと言われりゃあ拾うが、光っているとは言え、天から降ってきた代物なのか?」
甘寧と呼ばれた男は、川に入って歩を進めると、腰まで浸かっていた。
剣から放たれる霊気を、左慈が方術で光らせていただけだった。
誰もが手にしたくなるほどの、誘うような妖しい光だった。
甘寧は身を屈め、光る剣を拾い上げると、鞘から抜き放った。
その剣の根元に彫られている銘は、青冥――。青冥の剣が放つ光は、甘寧の顔を青白く見せた。思わず、その剣に魅せられると、甘寧の心に隙間が生まれた。
その僅かな隙間から忍び込むようにして、光と共に放たれた霊気は、甘寧を邪に蝕んだ。光が体に吸い込まれると、甘寧の精悍な顔は、見る見るうちに悪鬼の形相へと変じた。
「うわあ……」
鐸飛の背に乗った左慈が、虚空から驚喜の声を上げた。
「こいつは凄え剣だぜ。持っているだけで力が湧いてくる。……ん?」
甘寧は聞き耳を立てた。
「あはは。面白え。色んな奴が俺に語りかけてくるな」
甘寧は、徐に青冥の剣の切っ先を川につけると、剣を握った手から霊気を発した。
「まだこの世に未練があるみてえだな。どれ、俺が使ってやるよ」
すると――。
ザバアンっと、川底から飛沫を上げて姿を現した者たちがあった。
全身が青白く、まるで生気がない。真新しい甲冑を纏っているが、首には違う生き物が巻き付いたように斬首された痕跡があった。
「お前らは、今から俺の副にしてやるよ、張虎、陳生」
「またこの世に戻れるとは思わなかったぜ」
「ほっほ。全くです」
「未練たらたらのお前らの声が、一番うるさかったんだよ」
甘寧は、黄泉から舞い戻った張虎と陳生を引き連れ、王表の許まで戻ってきた。
「さあ、僕たちも挨拶しないと」
上空で左慈が姚光を誘うと、それぞれを背に乗せた鐸飛が静かに下降した。
「甘寧さま、御気分は如何で?」
王表は邪悪な笑みを湛え、恭しく拝跪して尋ねた。
「ああ。悪くねえが、とにかく暴れたい気分だ」
「やるなら黄祖だ! あいつだけは許せねえ!」
青白い顔の張虎が吠えると、隣の陳生も拍車を掛けて怒気を放った。
「黄祖だけではないでしょう。劉表に仕える者、その全てを根絶やしに!」
「そういう訳だ。何か俺たちが楽しめる案を考えてくれ、王表」
「承知致しました」
王表は丁重に肯んじると、上空より鐸飛の背に乗った左慈と姚光が姿を現した。




