それぞれの決意
陽が傾きかけていた。
「では、近頃、この地方で噂となっている不可思議な現象も、その九刀剣が原因であると……?」
眼を剥いたような葛玄が質した。
「恐らくな。霊山に突き立っていた剣には銘が彫られていた筈。憶えているか、鄷玖?」
「確かに『青冥』の二文字がありました」
冷然とした鄷玖が、介象に視線を送って応じた。
「左慈という方士は、九刀剣の二本を所持しているということか……」
文聘が呟いた。
「ならば、話は早い。我らは姚光を、介象どのは九刀剣の奪還のため、左慈を追う」
葛玄が、今にも出立しそうな勢いで立ち上がった。
「気になるのは、左慈が言っていた錦帆賊という言葉じゃ。儂らも錦帆賊には遭遇しておるが、奴らに何をしようとしておるのか……」
元緒は胸中に湧いた疑念を口にした。
その場に沈黙が訪れた。
「鄷玖さま、発言よろしいでしょうか?」
言ったのは、鄷玖の後ろに控えていた阿亮だった。
「許可しよう」
頭を垂れた阿亮は、歩み出ると言った。
「介象さま、元緒さま、私は鄷玖さまから教えを請うべく、荊州の隆中より遊学している黄嘴の豎子、阿亮でございます」
身は粗末な白い道袍を纏い、黒髪は白の緇撮で結っていた。眉目清秀で女人のように肌が白い若者である。
その面貌の立派さもさることながら、容姿から漂う清雅の気風は、いずれ傑物となろうことを介象と元緒は感じ取っていた。
阿亮は、介象と元緒に拱手すると続けた。
「方士左慈は、今や曹操に仕える者とのこと。その曹操は、黄河を隔て河北の袁紹と対峙していると聞き及んでおりまする」
阿亮は、虚空に地図があるように手振りを交え、聞いている者にわかりやすく伝えた。
「曹操の背後には、揚州の孫権と荊州の劉表が位置しております。しかし、領主が代わったばかりの揚州では、まだ兵を動かすのは困難。曹操が懸念しているのは、劉表でしょう」
介象と元緒は、眼を見開いた。
「袁紹も劉表に救援の要請を出している筈。背後を襲われ、挟撃の形を作られては、曹操に勝ち眼はございますまい。それを阻止するためには、劉表が荊州より兵を出すことを阻止せねばなりませぬ」
「……荊州での内乱を画策しているというのか?」
聞いた介象に、阿亮は涼やかな笑みを返した。
「左様でございます。曹操の方策は、方士左慈により荊州内部を錯乱させる。そのための材料が錦帆賊かと。これにより、近々大きく乱れるは荊州」
「左慈が画策している内乱の規模は?」
介象が阿亮に質した。
「左慈の計り知れない方術、九刀剣の異能、錦帆賊、これらを考慮すると、数千から数万による荊州主要都市への侵攻。襄陽もしくは、夏口辺りかと」
「ウヒヒ。これでは、軍が必要になるのう」
元緒は大笑すると続けた。
「阿亮と言うたな。張良をも髣髴とさせる良い読みじゃ。大方、そのようなことじゃろうて。しかし、我らはこの人数。それでも姚光と九刀剣の奪還、左慈の描く謀略を阻止しに荊州に入るのかえ、皆の衆よ?」
「…………」
その場に長い沈黙が訪れた。
「俺は行く」
言ったのは、後ろ手に縄を縛られた賊徒の瞿恭だった。
「このまま賊徒を続けても、どうせ何処かでおっ死ぬだけだ。ただ、俺にも娘がいた。連れ去られたら、助けてえって気持ちもよくわかる。どうせ何時か死ぬのなら、何かひとつくらい善行してから死にてえと思ってたとこだ」
瞿恭は周囲を見遣ると、腹を揺らして語気を強めた。
「子分の何人か同行するだろう。遂に来たな、鉄火山瞿恭の名を世に知らしめる時が」
「おいおい、何を勝手なことを言っている? 誰もお主に付いてきてほしいなどと頼んでおらぬではないか」
瞿恭が声の主を睨みつけた。
声の主は、葛玄だった。
「しかし、何だか嬉しく思う。どうか、手を貸してくれ」
葛玄は頭を垂れると、瞿恭に微笑した。
それに瞿恭は頷き返した。
「俺も腹を決めた。こうなったら、左慈の計画を台なしにしてやる。そうすれば、姚光も九刀剣も奪還できる。荊州の内乱も阻止できる」
葛玄は力を込め、槍の柄を地に突いた。
「是非もない」
双眼に炎を灯したような文聘が、腰を上げて戟の柄を地に突いた。
「無論、私も参ります!」
断固たる決意が、胡綜を男の顔にしていた。
「鄷玖さま、私も同行してよろしいでしょうか?」
阿亮は頭を垂れ、鄷玖に許可を取っていた。
「霊山から剣が失せた今、お主を此処に留める理由はない。出処と進退を明らかにし、民を救うのが仁者。それを忘れなければ、お主が成すことを咎めるつもりもない」
鄷玖は、懐中から二枚の黒い護符を取り出すと、阿亮へ差し出した。
「これは餞別さ。使い方は承知しているね? きっと役に立つだろう」
阿亮は丁重にその二枚の黒い護符を受け取ると、再び鄷玖へ頭を垂れた。
「さて、皆の意は決したようじゃが、どうするかのう、介象?」
介象の面持ちは、雲っていた。左慈の対抗勢力としては、数の少なさを懸念していた。
「里の者から有志を募ります。これに瞿恭の一派を加えれば、三百は下らない筈。小規模ですが、軍のような機能は成し得ましょう。これに介象さま、元緒さま、そして、阿亮の方術が加われば、左慈にも対抗できる勢力に近づくかと……」
介象を見遣って、鄷玖が言った。
「お主は行かぬのか、鄷玖?」
「私のような老婆は、戦では何の役にも立ちますまい。私はこの里から後方支援を」
介象は腰を上げると、眉間尺を抜き放ち、瞿恭の縄目を切った。
「お主等は充分戦力になる。頼むが力を貸してくれ」
介象に言われた瞿恭は、言い表しようのない気持ちが胸中に渦巻いた。同じ悪党でも、左慈は下賎なものに見えた。姑息なやり口に思えた。
瞿恭にとって、左慈のやり方は確かに気に入らなかった。自分たちの信念とは異なる行いが、なぜか許せなかった。誇らしい人生を送ってきた訳ではない。それは承知しているが、左慈がやろうとしていることを見過ごすのは、どういう訳か我慢できなかった。だから、出しゃばることにした。
加えて、姚光の育ての親だという葛玄に頭を下げられた。賊徒に頭を下げていた。部下や手下以外の者に頼られるのは、いつ以来だったか思い出せなかった。
化け物のような方士の介象にも頼られた。自分たちを簡単に捕縛した男から、力を貸してほしいと言われた。
別の里で捕縛されていたら、今頃、打ち首だったろう。それが、まだ生かされ、戦力として頼りにされている。考えられないような出来事の連続は、何かの導きにも思われたが、何よりも人として頼りにされたことが嬉しかった。
「子分どもに話をつけてくる。賊徒はもう止めじゃ。暫く忘れておったわい。誰かの援けとなってこそ義侠の徒」
瞿恭は腹を揺らして結髪を覆っている黄巾を剥ぎ取ると、勇み足で捕縛されている子分たちの許へ向かった。
介象は、一同へ振り返ると声高に言った。
「よし、やろうではないか。まずは里の者に檄を飛ばし、有志を募るところからだ、葛玄」