対峙、黒と青
どさっ、どさっ――。
首が二つ、胴から離れて地に転がった。血飛沫の舞う二つの胴が、遅れて頽れた。
「――――⁉」
その場にいた者たちはおろか、介象と元緒でさえ何が起きたのか把握できなかった。
「礼‼ 忠‼」
叫んだのは、姚光だった。
首を斬り落とされたのは、日々、姚光と武芸の鍛錬をしていた里の若者だった。
先ほどまで舞っていた筈の青い蝶が見当たらない。
代わりのように姿を現したのは、青の方衣を纏い、頭に白い藤蔓の冠を戴いている。
左慈だった。
左手に持っている剣は、青白く冷めた光を放っている。他の者にはまったく意を介さないように、左慈は剣が突き立つ前にいた。
「君が里に結界を張った方士だね」
左慈は鄷玖を一瞥した。
葛玄と阿亮が身を呈するように鄷玖の前に出た。
「左慈……」
鄷玖は臆することなく、冷ややかな視線を左慈に投げた。
「厄介な結界だったよ。相当な方術の使い手だね」
左慈は振り返ると、鄷玖へ微笑を向けた。
「早く左慈から離れろ――‼」
介象は叫ぶと同時に、疾風の如く左慈に突進した。
それに見向きもせず、左慈は得物の剣を虚空で斬り下げた。
次の瞬間――。
介象の眼前にいる筈の左慈の姿が消えていた。
左慈は、左右に剣を持っていた。
突き立っている筈のところから、剣が消えている。
加えて、先刻まで介象がいたところに左慈の姿があった。
介象は眼を剥いて振り返った。
豹のような妖しの孟極が、左慈に威嚇するように吠えている。
騒ぎ立てる飼い犬を宥めるように、左慈には柔らかな笑みが浮いていた。左慈は右手の剣を斬り下げた。
その途端――。
剣から蒼い光と共に放たれたのは、霊獣だった。人をも一息に飲み込みそうな、龍にも見紛う大蛇だが、鱗と四足がある。神々しいほどに蒼く輝く巨大な蛟だった。
その蛟は、左慈の剣より宙を裂く勢いで放たれると、一瞬にして孟極を咥え飲み込んだ。
介象、元緒、胡綜、葛玄、姚光、鄷玖、阿亮、文聘――。誰一人その場から動くことができなかった。
蛟はゆっくりと鎌首を擡げて介象を見据えると、すっと消えた。
「へえ。こっちは蛟なんだあ」
左慈は右手に持った剣を恍惚の表情で見つめた。剣の根元には「青冥」と彫られている。
「じゃあ、これはどうかな?」
左慈は、再び右手の剣を斬り下げた瞬間、その異変は起きた。
地から幾つもの人が湧いたようだった。
「何と⁉ 息壌か――⁉」
驚愕の声を上げたのは、元緒だった。
それは、人の形をした身の丈七尺ほどの土の妖し、息壌だった。
周囲の地から湧いた息壌は、既に五十体ほどに達していた。どれも腹の底に響くような遠吠えを上げている。幾つかの息壌は、若者の遺骸を求めてゆっくり歩を進めると、その遺骸を喰らっていた。
息を荒くした胡綜は、何とかその場に踏み止まり、元緒に質した。
「げ、元緒さま、息壌とは、一体、何なのですか……?」
「人を喰らい、それを養分として増殖する土の妖し。大地の怪物という者もおる。躰は脆く動きこそ鈍重だが、その性は凶暴。何よりも払うに時を要す厄介な妖し。一度にこれほどの数は見たことがないわい」
「……矢は利かぬ、ということですか、元緒さま?」
「胡綜よ」
「は、はい……?」
「早く逃げぬか」
腰を抜かした胡綜は、その場から離れようと地を這うように藻掻いた。
「へえ。一振りでこれほどの息壌が出るのかあ」
左慈は嬉々として、再び右手の剣をまじまじと見遣った。
介象は、眼前の息壌に怯むことなく、眉間尺で横薙ぎの一閃を放った。
胴から真っ二つになった息壌は、崩れ落ちるように土に返った。
しかし、その土は再びゆっくりと人型の息壌に戻ろうとしている。
介象は、手当たり次第に息壌を斬っては薙ぎ、左慈との距離を詰めようとしていた。
遠吠えを上げ、無闇に腕を振り回しながら近づく息壌に、鄷玖と阿亮を背にした葛玄は、得物の槍で次々と息壌を突いた。
姚光と文聘も、迫る息壌を斬っては薙いでいる。
左慈までの道が開けたようだった。
介象は眉間尺を横に構え、左慈に迫った。
左慈は涼やかな笑みを湛え、左手の剣を虚空に振り下ろした。
左慈の姿が消えていた。
介象が振り返ると、左慈は地を這うようにしている胡綜の前にいる。
「胡綜――‼」
一番近くにいた姚光が駈け出した。
再び人の形に戻ろうと蠢いている土の塊を避けるように高く跳躍すると、宙から左慈へ一閃を加えるべく、屈盧の矛を振り上げた。柄に備えられた石が、一度光ったように見えた。
微笑を湛えた左慈は、再び左手の剣を虚空に振り下ろした。
ギイイイン――。
姚光の一閃が左慈に届くまで、ほんの僅かだった。
何かがおかしかった。
瞬時に異変を察知した左慈は、身に降り掛かろうとする危機への本能で、右手の青冥を頭上に掲げ、姚光の一閃を防御していた。左慈の顔から笑みが消え、右手は痺れている。
姚光は着地したと同時に胡綜の許へ向かい、胡綜の身を引き摺って左慈から距離を取った。
左慈は首を傾げると、またしても左手の剣で虚空を斬った。左慈がその場から消えていた。すると、その身は木立の枝にあった。
「君、面白いねえ」
左慈は興味を抱いたように、姚光へ視線を送っている。
「あそこの木の上だ、介象どの!」
逸早く左慈の位置に気付いた葛玄が叫んだ。
「介象……?」
急に、左慈の表情が明るくなった。
「もしかして、貴方が巷で伝説の方士と囁かれている、あの介象?」
再び人の形を成した息壌たちを斬り捨てると、介象は左慈に睨みを返した。
左慈は、右手に持つ青冥の剣を鞘へ収めてから言った。
「はじめまして、介象。会えて嬉しいよ。僕は左慈。貴方と同じ方士さ」
左慈は笑みを浮かせた顔で、介象を見遣ると続けた。
「方士の間では、今昔最強との呼び声が高いけど、実際はそうでもないみたいだねえ」
介象は、左慈へ冷たい視線を送りながら、眉間尺を後ろ背に振り払った。
息壌が崩れ、土へと返っていた。
左慈の笑みが、不気味なそれとなった。
そこへ、一体の鐸飛が左慈の許へ飛来した。一本の足に木片が握られている。
「王表からだね」
鐸飛はその木片を左慈に渡すと、再び何処かへ飛翔していった。
木片には小さな文字が書かれている。
左慈は鐸飛から受け取ったそれに眼を遣った。
「へえ、錦帆賊か。王表も面白そうな連中に眼を付けたね」
「――――⁉」
介象と元緒の顔色が変わった。
左慈は、懐中から蛇の形をした小さな白紙を取り出すと、ふっと一息吹きかけた。
すると、その小さな蛇型の白紙は、蝙蝠のような羽の生えた、四十尺ほどの黄金色に輝く蛇のような妖し、化蛇に変じた。
化蛇は、尾の先から左慈の右腕に絡み付くと、黄金に輝く光の矢となって宙を切り裂くように飛翔した。向かった先は、姚光だった。
光の矢は、姚光の身に幾重にも巻き付くと、屈盧の矛と共に左慈の許へと引き寄せられた。
「姚光――‼」
眼前の息壌を斬り倒していた葛玄と文聘は、姚光の危急を察すると、姚光を人質のようにした左慈が立つ樹木へ向かって駈け出した。
「これはいかん!」
元緒の声に弾かれたように、鄷玖は懐中から文字のようなものが描かれた護符を取り出し、霊気で姚光の許へ飛ばした。
空を走ったその護符は、姚光の道袍に張り付いた。すると、道袍と一体化するように薄くなって消えた。
「この娘は貰っていくよ」
介象は左慈に向かって駈け出すと、地を蹴って飛んだ。眉間尺を振り被っている。
「おっ父――‼」
姚光が叫んでいた。
左慈は嘲り笑うと、左手の剣を斬り下げた。
左慈の姿はもうなかった。
介象が斬ったのは、左慈が立っていた太い枝だった。
介象は着地するや否や、懐中から五枚の犬型の白い紙片を取り出した。ふっと息を吹きかけると、孟極が五体となった。
「左慈と姚光の行方を追ってくれ!」
五体の孟極は弾かれたように駈け出すと、空間に溶けるように消えていた。
気付くと、妖しの息壌も猾戒も鐸飛も、探し求めていた剣も、その姿がなくなっている。
「姚光……」
愕然とした葛玄が、地に膝を突いた。
文聘が怒り任せに、左慈が登っていた木立へ戟を振り下ろした。
地に伏したような胡綜は、渋面となった。
悲愁を帯びた鄷玖を横目に、阿亮は澄んだ瞳へ炎を灯した。
元緒は、胡綜の頭上で何か思案しているかのように静かだった。
介象はすっくと身を起こした。その眼光は冴えたままだった。
介象が佩びている三振りの鞘が、カチリと触れ合った。
残った者は皆、息が上がっている。
そして、姚光も消えていた。