襲来、賊徒の瞿恭
結髪を覆った黄色い巾の裾が、風で靡いた。
「く、瞿恭の親分……」
「何だってんだよ、うるせえな」
午眠を貪ろうとしていた賊徒の瞿恭は、不機嫌に子分を怒鳴りつけた。
「いや、あの……」
「何だよ! はっきり言え!」
「霊山の麓に、里ができています!」
口許が髭で覆われた肉付きの良い瞿恭は、一笑に付すと呆れた調子でその子分を諭した。
「あのなあ。そんな急に里なんてできる訳ねえだろ。お前、さては寝てたな?」
「でも、あれ……」
その子分は、丘陵の頂から遠方を指差すと、己の眼で見てみろと言わんばかりに、自分の立っていたところに瞿恭を促した。
「何言ってんだ、お前。ありゃあ、里なんかじゃ――」
瞿恭は眼を円くすると、絶句した。
里というよりも、桃源郷にさえ見えた。暇を持て余していた瞿恭にとって、結界が解かれ姿を露にした里は、もはや垂涎の的でしかなかった。
瞿恭は、自然と零れる笑みを抑えることなく、仲間たちに命じた。
「やい! 手前等、狩りの時間だ! 急いで仕度しろい!」
「何を張り切ってんですかい、瞿恭の親分? 誰も原野を通ってる奴なんていませんぜ?」
「馬鹿野郎! あそこを見てみろ! 取り分は早い者勝ちだからな!」
言うや否や、瞿恭は腹を揺らして痩せた馬に跨ると、我先にと駒を繰った。
「あ! 瞿恭の親分が抜け駈けしたぞ! 追え、追え!」
賊徒の群れは、餌に群がるように里へ向かって駈け出した。
「この里の一大事とあらば、女子供と隠れている場合ではないわい」
里の南側に三々五々と集まってきたのは、普段、田畑を耕している老夫たちだった。各々鍬や弓を携えている。
老夫たちに加え、里の若者を初めとする男どもが集ってきた。
「姚ちゃんだけ危険な眼に合わせる訳にはいかないねえ」
弓や槍を手にした男勝りの女どもまで押し掛けた。
どれも里の一大事を聞きつけ立ち上がった、言わば義勇兵だった。
「ウヒヒ。物好きが集まったようじゃのう」
「葛玄どの、どれくらいの人が集っていますか?」
口許に手を添えた胡綜は、屋根の上で南方に眼を凝らしている葛玄に叫んだ。
「せいぜい二百といったところだ」
「おっ父!」
葛玄は声を張り上げて胡綜に返すと、姚光の声にはっとして、再び南方に眼を遣った。
「き、来たぞ! 二百……いや、三百! 賊徒が此方に向かって来たぞ!」
葛玄は大声を張り上げると、急いで姚光と地へ降りた。
「さて、此方は戦の素人。彼方は餓狼の群れときている。どうする、介象?」
介象の肩に鎮座した元緒は、落ち着き払って介象に尋ねた。
介象は、寄ってきた葛玄と姚光を見遣った。
「葛玄と姚光がいたことが幸いしたな。この里は、尚武の気風に溢れている」
介象の顔に不敵な笑みが浮かぶと、里の義勇兵に下知した。
「皆の者、聞け! 我れは方士介象なり。長の鄷玖が不在の今、縁あってこの里に助太刀致す。これより我ら一丸となり、賊徒を撃退する。良いな!」
「応‼」
介象の一声は、よく通った。
その声に、里の義勇兵たちも闘志を漲らせた。
「弓を手にした者は、高いところへ登れ。弓兵を導くのは胡綜、お前だ」
「へ――⁉」
突然の指名に驚いたような胡綜が、自分の顔を指差し、口をあんぐりと開けている。
「歩兵は五人一組になれ。二隊に分け、それを葛玄、姚光が導け」
「やってみよう」
顔を強張らせた葛玄が頷いた。
「よし、みんな! 鍛錬の成果、見せるよ!」
「応よ‼」
眼を赤くした姚光の檄に、若者たちは奮い立った。
下知するや否や、介象は五花に跨った。
「胡綜!」
介象の声に、屋根に登ろうとしていた胡綜は振り返った。
「我が合図を待て!」
胡綜がこくりと頷いたのを確認すると、介象は眉間尺を抜き放ち、天に掲げた。
「ヒャッホー! 桃源郷だ!」
「獲物だ、ヒャッハー!」
奇声を上げた賊徒の波が、近づいてくる。
どれも結髪に黄色い巾を被せ、着ている袍衣は薄汚れている。まるで統率が取れていない。武器を手に、我先にと駈けてくる烏合の衆だった。騎馬の数もそれほど多くない。
「胡綜!」
馬上の介象が叫ぶと、眉間尺の切っ先を賊徒の群れへと向けた。
「一斉射撃!」
胡綜の号令に、弓兵は賊徒の群れ目掛け一斉に矢を放った。放たれた矢は、空に無数の弧を描いた。
「ん?」
ドスッ――。
ザクッ――。
ある者は矢に倒れ、ある者は飛んでくる数多の矢にたじろいだ。賊徒の群れに降った矢の雨は、その勢いを見事に止めていた。
「これより賊徒を迎え撃つ! 我に続け!」
介象は五花を疾駈させた。
それに続いて、葛玄と姚光も駈け出した。
里の外に出て決戦を挑む形になった。
屋根上の胡綜は、冷静に戦況を分析していた。
大きな黒い獣が、賊徒の波に割って入るようだった。賊徒たちが手にしている武器を、眉間尺で次々と叩き落している。
「斬らぬのか? しかし、良い手本となっておる。後続も無闇やたらに得物を振り回しておらぬようじゃ」
槍の刀身は穂鞘で包まれている。
葛玄は、襲い来る賊徒たちの腕や手に狙いを定め、賊徒が手にしている武器を次々と槍で地に叩き落としていた。
姚光も負けていなかった。流麗に舞うような短矛捌きは、賊徒たちを一網打尽にする勢いだった。
介象は賊徒の波を抜け切ると、五花を反転させ、再び群れの中へ身を躍らせた。
「武器を手放した者らを捕縛せよ!」
これには、老夫や女どもが活躍した。
普段の農作業や家事で培った技で、紐状のものであればあらゆるものを使って、簡単には解けない結び方で、次々と賊徒たちを後ろ手に縛り上げた。
ふと見れば、弓隊が自らの意思で里の境目まで前進していた。何か危急の変事があっても、すぐに対応できる絶妙な位置だった。
「胡綜の奴め。なかなかやるのう」
元緒が珍しく胡綜に感心している。
五花を駈けさせながら、介象も微笑した。
五人一組となった若者たちも巧みな動作だった。普段から鍛錬しているせいか、動きに一切の無駄がない。
一人目が相手を引き付け、二人目が武器を叩き落す。三人目で身動きが取れなくなるほどの強烈な一撃を加え、四人目、五人目で取り押さえ老夫や女どもに引き渡す。
加えて、誰かに疲労が蓄積するのを避けるように、役割を循環させている。馴染みのある顔触れのせいか、絶妙に呼吸の合った一連の集団戦法だった。
忽ち後ろ手に縛られた賊徒たちが一所へ集められた。ほとんどの賊徒が両手両足をきつく縛られており、起き上がろうともんどり打っている。
おかしな動きでもしたら、都合の良い的になりそうな距離に弓隊が陣取っていた。
「二波目だ! 二波目が来るぞ!」
見張りとして屋根上に残っていた、遠目の利く若い弓兵が叫んでいる。
「介象どのお! 次が来まあす‼」
取り次ぐように胡綜が大音声を上げた。
「一度退がれ。退がるぞ」
介象は歩兵隊を弓隊の近くまで退げると、まるで鶴が翼を前に張ったような、逆三角形を成すように両翼を左右に展開させた陣形、鶴翼の陣を敷かせた。
その陣の横では、一斉に弓を番えた弓兵たちが、人質のような賊徒に狙いを定めている。
いつの間にか胡綜は、荷車をひっくり返してその上に乗り、戦況を分析していた。
介象と五花は、歩兵隊が成した鶴翼の陣の前へ躍り出た。