介象の秘密
「な、何だ? ま、まさか、迎え撃ち――⁉」
先行した血気盛んな子分たちに、遅れじと痩せた駒を駈けさせていた瞿恭の首筋に、思いもよらぬ冷たい汗が伝った。先頭を駈ける瞿恭に従うように子分たちが後続している。
「どうやら、あの騎馬が大将のようだのう」
介象の肩で元緒が言うと、介象は胡綜に指示した。
「胡綜! 先頭を駈ける騎馬の脚を止めてくれ!」
こくりと頷いた胡綜は、矢を番えると狙いを定めた。きりきりと撓る弓から一矢を放つと、その矢は弧を描くように飛んだ。
ズサッ――。
その矢は、先頭を駈ける瞿恭の目前で勢いよく地に突き立った。
それに驚いた馬は、痩せた体を全力で棹立ちにさせ、瞿恭を地に振り落とした。
「お、おお……」
姚光も葛玄も、里の者たちも、捕縛されていた賊徒たちでさえも、感嘆の声を上げた。
呵々と大笑したのは、介象と元緒だった。
「胡綜め、本番に強い奴よのう」
「俺でもこう上手くはいかんよ」
賊徒の親分である瞿恭は、頭からひっくり返るように落馬していた。
「く、瞿恭の親分! 大丈夫ですかい⁉」
「こりゃあ、また派手にひっくり返りましたねえ」
心配を装った子分たちが、瞿恭の許に馳せ寄った。
「あ、ああ。これくらい、大したことねえ……」
瞿恭は子分たちの前ということもあってか、肉付きの良い体を揺らし、平静を装って太々しい笑みを浮かせてみせたが、大量の鼻血が流れていた。打ち所が悪かったのか、何とか立った足元も何処か覚束ない。
「瞿恭の親分! 先に行った奴ら、とっ捕まってやしませんか――⁉」
子分のひとりが、指差して声を大きくした。
その子分が指差す方を見れば、そこには既に三百ほどの同胞が縄目に合っていた。
「瞿恭の親分、ここは桃源郷じゃあなかったんですかい?」
瞿恭の子分たちは、恐れを成した。その恐れは、瞬く間に伝播した。
瞿恭は後に引けなかった。ここで退散すれば、親分としての力量を疑う者が出てくることを案じた。そして、瞿恭は、子分たちが自分を頼りにしていると信じ込んでいた。
「あれを持ってこい!」
瞿恭は臍を固めると、大声で子分たちに命じた。
その声に、ひとりの子分が持って来たのは薄汚れた兜だった。加えて、四人の子分が運んできたのは、八十斤もある大斧だった。
瞿恭は兜を被り、大斧を軽々と持ち上げると、再び馬上の人となって、黄色い群集から一騎で勇み出た。
「鉄火山の異名を取る瞿恭とは、俺のことだ! 大将同士の一騎打ちを所望する!」
大斧を掲げた瞿恭は、大音声を発して一騎打ちを申し出た。
「ん?」
「あれ?」
瞿恭の子分たちは、その大声に挙って疑念を抱くと、俄かに騒めいた。
「先日まで、大溶岩と名乗ってなかったか……?」
「最初は、火勇鉄と言っていた筈だが……」
背後で騒めく子分たちが、羨望の眼差しを注いでいるのであろうと、瞿恭は得意げな顔になった。おまけとして、頭上で大斧を何度も旋回させていた。
「大将さえ討てば、どんなに連携の取れた組織も瓦解する。戦の素人の集まりであれば、猶のこと」
前方で陣形を整えてはいるが、瞿恭には戦の素人の連中に見えた。
「さあ、どうした⁉ この鉄火山の瞿恭に恐れ慄いたか⁉」
鼻血が止まらない瞿恭は、挑発するように言い放った。
すると――。
前方より一騎、馳せてきた。黒い巨大な獣のようだった。
その黒い獣が近づくにつれ、漆黒の襤褸を纏った偉丈夫が、黒毛の巨馬で駈けているのがわかった。
「面白い!」
瞿恭は、痩せた馬の馬腹を蹴ると、大斧を片手に駈け出した。正面から此方に駈けて来る漆黒の男が、剣を抜き放った。
このまま駈ければ、互いの右側を馳せ違う。
瞿恭は、相手の胴を真っ二つにしてやろうと両腕に力を込め、大斧を横に構えた。
「――――⁉」
馳せ違い様、眼前に迫る黒い馬の速度が急激に上がった。
ガアアアン――。
虚空に翻ったのは、瞿恭の兜だった。
宙に兜が舞う頃に、瞿恭の豪快な一閃が空を斬っていた。首はまだ繋がっていた。馬首を翻して前方を見遣ると、既に黒い獣は此方へ駈け寄っている。
瞿恭は大斧を放り捨て、さっと下馬すると、慌てたように土下座した。
「降参だ! 勘弁してくれ! 俺の命は預けるが、子分たちは助けてやってくれ!」
「く、瞿恭の親分……」
窮した瞿恭の弁解に、実直な子分たちは心を打たれた。
瞿恭の前で五花を止めた介象は、馬上で眉間尺を突きつけるようにして言った。
「誰の命も獲る気はない。だが、この里を襲おうとしたのは事実。お主の子分どもも皆、捕虜となってもらう。武器を捨て、彼方の陣まで歩いてくるよう伝えよ」
瞿恭は、弾かれたように子分の許へ腹を揺らして走った。
介象にしてみれば、逃走する機会を与えたつもりだった。
「おや? 意外にも真面目な奴等だったのう」
肩で元緒が含み笑うと、介象は自陣へと翻した。
素直に武器を捨てた賊徒は、瞿恭に引き連れられるように大人しく鶴翼の陣まで向かった。瞿恭とその子分たちは、忽ち後ろ手に縛られると、捕縛されていた仲間たちと共に一所へ集められた。
介象は瞑目すると、馬上で手を重ね合わせるように九字を切り、低い声音で念じた。
「我、今、此処に飛来するを求む――」
「か、介象……?」
「介象どの……?」
次なる指示を待つ姚光と葛玄も、介象の不可思議な儀式に動揺を見せた。
「介象だと……。方士の介象か――⁉」
「瞿恭の親分、方士の介象って……?」
瞿恭の顔色が変わったのを見て取った子分たちは、挙って訝しんだ。
「あらゆる方術に精通するばかりか、武芸にも秀で、軍を率いれば軍神の如しと耳にしたことがある。それだけじゃねえ……」
子分たちは固唾を飲むようにして、瞿恭の次の言葉を待った。
「……その身は不死で、数百年来、この大陸を彷徨っていると聞いたことがある」
血色の悪い瞿恭に、子分たちは絶句した。
すると――。
「ほう。意外に早かったのう」
元緒は、西の空を見上げていた。
一羽の鳥が、此方に向かって飛来するようだった。次第に近くなると、その全貌が明らかとなった。
煌々と黄色に輝く一つ目である。全長の半分ほどは、黒い龍のようだった。龍頭で首は長く、軀幹は鵬のような大鳥で全身が黒い。
それは、全長四〇〇尺(約一二〇m)はあろうかという巨大な怪鳥、龍鵬だった。




