出し抜きの左慈
その剣は、冴え冴えとした光を放っている。
眉間尺を抜いた介象は、構えもせず切っ先を地に向け仁王立っていた。
介象の前には、柄の短い屈盧の矛を両手で持ち、切っ先を介象に向け、僅かに腰を落とした仁王腰の構えの姚光がいた。
介象と姚光の間に、熱が帯びたようだった。
「では、参る――」
介象が言うや否や、その姿はもう姚光の眼前に迫っていた。
介象の斬り上げを矛の柄で弾いた刹那、姚光は乱突きの応酬を見せた。
介象は退きながらも、全ての突きを眉間尺で防いだ。
姚光は横に身を翻すと、斬り上げ、斬り下げ、さらに柄の下を片手で持って突いた。
介象は下と上の一閃を弾き返すと、躱した穿突は脇の下に鋭い風を感じさせていた。
空かさず姚光は身を詰めると、介象の足を払うように、屈んで蹴りを旋回させた。
その蹴りを躱すべく宙に跳ねた介象の胴に、姚光は横一閃に薙いだ。
ギイイイン――。
宙で眉間尺を胴の横に立てるようにして、姚光の薙ぎを防いだ介象の顔には、何やら嬉しそうな笑みが浮かんでいる。
姚光は地に片手を着き、後方転回して距離を取ると、厳しげな表情で深く息をした。
何事もなかったかのように、介象は再び眉間尺の切っ先を地に向け仁王立っている。
若者たちは皆、二人の攻防に唖然とするばかりだった。
「ウヒヒ。介象の奴め、何やら嬉しそうだのう」
胡綜の頭上で、元緒も嬉しそうにしていた。
刹那、介象の黒い影は姚光の眼前に迫った。
今度は、両手で屈盧の矛を縦旋回させながら、姚光も前に出た。
その身を空中へ翻すように舞ったのは、姚光だった。
瞬時に、姚光は脳裏に描いた。介象の頭上から、攻撃を防ごうとする剣を矛の柄で弾き、その勢いで矛を反転させ、無防備の介象に突きを放つ。
しかし――。
介象の姿は地になかった。
姚光が宙へ舞った途端、介象も宙へ飛んでいた。その跳躍は、姚光よりも高かった。
地に膝を折って着いた姚光は、咄嗟にしゃがみ込んだままの姿勢で、屈盧の矛を突き立てるように介象へ翳した。
ガギイイン――。
降ってくる介象の剛の一閃が、姚光の手から屈盧の矛を弾き飛ばした。
恐れを成した姚光は、二閃目を避けるように、本能で仰向けに倒れると、思わず眼を固く閉じた。
ザクッ――。
同時に、黒い獣が姚光へ覆い被さるように着地すると、その端整な顔の横に眉間尺が突き立った。
「矛術と体術を織り交ぜた武技は頗る上々。これに霊気が乗れば言うことなし」
姚光は恐る恐る眼を開けた。降り注ぐ陽光の眩しさで、介象の顔は暗かった。介象から手を差し延べられると、それに掴まり身を起こした。
「全ての答えは己にある。そして、方術を磨け、姚光。然すれば、更に進化しよう」
莞爾とした笑みを見せた介象が、眉間尺を鞘へ収めた。
姚光は、信じられないといった顔で、暫く呆然としていた。屈盧の矛を与えられてからというもの、養父の葛玄と文聘以外の者に負けたことはなかった。いつしか、文聘にも勝つことができるようになった。葛玄にさえ勝つことができた。
しかし、今日、初めて会った者に負けた。決して驕っていた訳ではなかった。相手の介象は只者ではなかった。
そして、強かった。
「本当の強さとは、信念。本当の敵は、怯弱。本当の味方は、気丈。これを悟らねば進化はない――」
以前から葛玄に言われていた言葉が、やっと身に沁みた。
突然、姚光の眼から一筋の涙が静かに溢れた。強い者がいたという嬉しさなのか、弱かったことに気付かされた悲しさなのか、よくわからなかった。止めどなく涙が溢れ出ると、姚光は声を上げて泣いた。
里の者は皆、姚光の生い立ちを聞き知っていた。武芸に身を投じるのも、辛い過去を払拭する手段のように見えていた。
滂沱の涙で頬を濡らす姚光に、葛玄はおろか若者たちの全てが、姚光を見守るように優しい視線を送っていた。
わんわんと泣き喚く姚光に、何故だかほっと胸を撫で下ろしたのは、葛玄だった。
姚光には、生き抜くために強さばかりを求めてきた。これまで一緒に過ごしてきたが、出会ってから姚光が泣いた姿を見たことがなかった。
人にとって必要な弱さというものを教えられなかったことが、葛玄には気懸かりだった。
その気懸かりを、介象という男が払拭してくれた。人として必要なものを姚光に教えてくれた。葛玄にはそんな気がしていた。
「姚光の負けです……。約束どおり、霊山に向かうことをお許し致しましょう」
葛玄は、静かに介象へ拱手した。
「へえ、こんなところにこれほどの里があったんだねえ」
突如として現れたようだった。
若者たちが集う更にその後方に、その声の主はいた。
介象だけではない。その場に居合わせた者、全ての視線が声の主に注がれた。
見れば、齢三十ほどだろうか。青い方衣を纏い、頭に白い藤蔓の冠を戴いている。整った顔立ちには、柔らかな笑みが浮いていた。
「こんなに豊かな場所を独占するなんて良くないよ。ほかの皆にも教えてあげないとね」
途端に、戦慄したのは元緒だった。
「青の方衣に白藤蔓の冠……。介象よ、気を抜くでない。あれは、左慈じゃ」
「左慈――⁉」
元緒の言に、介象も眼を見張った。
にこやかな笑みを見せているが、何かが欠落しているような笑みが、恐怖を煽った。
「結界のせいで苦労したよ。なかなかあの霊山に向かえないんだもの」
「お主、何者だ? 霊山に何の用だ? どうやって此処に入った?」
葛玄が若者の垣根を割って歩み出ると、慌てた様子で矢継ぎ早に質した。
「ん? 僕は左慈。知ってるかな? 霊山に探し物があってね。此処の結界は、さっき解いたよ」
整った顔に微笑を浮かせると、左慈は指を重ね合わせ、パチリと音を鳴らした。
すると――。
上空より二体の怪鳥が舞い降りてきた。
「な、何だあの奇妙な鳥は――⁉」
若者たちの群れは、挙って恐れ慄いた。
それもその筈。姿は梟のようだが、頭部は人面で一足。翼を広げれば十尺ほどもある。妖しの怪鳥、鐸飛だった。
左慈は跳躍して二体の鐸飛の足に掴まった。
「早く逃げる準備をした方がいいよ。この辺りには野党がうじゃうじゃしているからね」
二体の鐸飛は、悠々と左慈を持ち上げると、あっという間に上空まで飛翔し、霊山の方へ向かって行った。
介象は、咄嗟に懐中から人型と犬型の小さな白い紙片を一枚ずつ取り出すと、ふっと一息吹きかけた。
刹那――。
人型の白い紙片は、見る間に全身が薄墨色の羽毛で覆われ、身の丈五尺ほどの妖しの鳥人、羽民へと変じた。
そして、犬型のそれは、額に一角を生やし、五本の尾を持った白い豹のような妖し、孟極へと変化した。
「羽民、孟極、奴を追ってくれ!」
介象の命にこくりと頷いた羽民は、両腕のような十尺ほどの翼を広げると羽ばたいた。瞬く間にその身を空中へ翻らせ、左慈を追って矢のように飛翔していった。
孟極は、疾風の如く霊山の方へ駈け去ると、空間に溶け込むように姿を消した。
葛玄、姚光、胡綜、そして、その場にいた里の若者たちは、何か不思議なものでも見るように呆然と左慈を見送り、唖然として介象に眼を剥いた。
介象は、自ら左慈を追うことを後回しにした。すぐにもこの里に起こるであろうことを予見していたからである。
「……拙いことになったのう」
介象の肩で独語した元緒は、対策を思案しているようだった。
「さ、先程の青い衣の者、左慈とは、一体何者でございますか……?」
冷静さを装った葛玄が、介象に歩み寄って聞いていた。
応じたのは、元緒の方だった。
「計算高く冷酷。己の愉悦のために方術を駈使し、人命をも弄ぶ当世の悪名高い方士じゃ」
「方士の左慈……。霊山に向かったようですが、鄷玖さまに何事もなければ良いのですが……」
「やはり、全土に散った九刀剣、簡単には回収できそうにないのう。それにしても、厄介な奴に眼を付けられたわい」
「九刀剣――?」
溜め息をついた元緒に、葛玄は鸚鵡返して首を傾げた。
「話は後だ。左慈は俺の妖しが追っている。何かあれば急報を告げてくる。それよりも危急は此処だ。急いで女、子供、老人たちを非難させよ」
介象は、元緒と葛玄の会話を遮ると、即座に周囲の者たちへ指示した。
「非難ったって、何処へ? 何が起こるって言うんだよ?」
眼を充血させた姚光が、落ち着きを取り戻した様子で返した。
「結界が解かれた。外からこの里が丸見えであれば、必ずや周辺の賊徒が此処を襲撃してくる筈。戦える者は武器を取れ。それが難しい者は、身を隠すよう急ぎ触れ回れ!」
「い、急げ! 皆に伝えて回れ!」
葛玄の号令に、緊張の面持ちとなった若者たちが、弾かれたように四散した。
火急の事態に狼狽している胡綜を尻目に、葛玄と姚光は近くの建物の屋根にその身を移し、遠方に眼を凝らした。
吹いてくる風が、普段より生臭いようだった。




