屈盧の矛
葛玄は、諦めたように一度大きく嘆息して続けた。
「では、姚光が勝ったら、潔く引き返して頂きます」
「ああ。承知した」
確かに、介象の躰は大きかった。身の熟しから武芸の心得もありそうだった。
しかし、葛玄は、これまで手塩に掛けて育てた姚光が、通りすがりの旅人に負けることはないと高を括っていた。何よりも、今やこの里で最も武に秀でているのは姚光だった。
「姚光、その得物、見せて貰えぬか?」
「これ? いいよ」
手を差し出した介象に、姚光は何気なく短槍を手渡した。
介象の様子がおかしかった。
短槍を受け取った介象の片腕が震えたかと思えば、もう一本の手で短槍を持った。
「ぐ、ぐおお!」
見る見る顔を赤くした介象の蟀谷には、青筋が走った。
ズドオオン――。
耐え切れなくなったような介象が短槍を手放すと、轟音を立てて地に埋もれ落ちたのである。
「――――⁉」
不可解な出来事に、胡綜も姚光も葛玄も、その場にいた者は皆、唖然とした。
「葛玄と言ったか、この得物を拾ってくれぬか?」
「あ、ああ」
息の上がった介象が、呆然としていた葛玄を促した。
葛玄は短槍を拾い上げようとした。
「ん?」
重い。片手では持ち上げられそうもない。足を踏ん張り、両手で持ち上げようとしても、寸とも動かなかった。
「こ、これは、どういうことだ――⁉」
葛玄には解せなかった。
姚光の短槍は、曾て葛玄が陶商より、陶家伝来の槍として託された代物だった。それを陶家の血筋である姚光の得物として持たせただけだった。陶商はおろか、幼少の姚光でさえ持ち運ぶことができる短槍のはずだった。
しかし、今やその短槍は、持ち上げることができないほどの重さになっている。
「姚光よ、得物を返したいが拾い上げることができぬ。すまぬが自身で拾い上げてくれ」
「あ、ああ、うん……」
不思議な事態を前に、無理に笑みを作った姚光が、地に埋もれた短槍に手を伸ばした。ひょいと短槍を持ち上げた姚光は、再び指で軽々と短槍を縦旋回させた。
「なあんだ。おっ父も介象も、私を驚かせようと芝居でもしてたの?」
「――――⁉」
得体の知れないものを見るような視線で、葛玄は姚光を見遣った。
「一体、ど、どうなっている――⁉」
暫くの間、葛玄は姚光に与えた短槍に触れていなかった。
姚光は四六時中、己の躰の一部の如く短槍を手にしている。
葛玄はおろか、これまでに里の若者でさえ姚光の短槍に触れた者はいなかった。
「姚光よ、穂鞘を取って刀身を見せてくれぬか?」
「いいけど……」
再び怪訝な顔をした姚光が、刀身に被せられた穂鞘を取った。
先端の形状が尖っていない。その形状は丸みを帯びており、斬ることを目的として作られたそれだった。
「間違いないのう」
言ったのは、介象の肩に鎮座した元緒だった。
喋る亀に、周りの若者たちはどよめいた。
「…………?」
猜疑の顔を晒した姚光が手にしている短槍を指差し、介象が告げた。
「それは、紛うことなき屈盧の矛だ」
「屈盧の……矛……?」
姚光は、手にした柄の短い矛に眼を向けて首を傾げた。
「左様。古の越王句践が呉王に献上したと言われる矛じゃ。それも、只の矛ではない。言わば妖しの矛、妖矛じゃ」
「よ、妖矛――⁉」
眼を円くした葛玄を一瞥すると、屈盧の矛に視線を移して元緒は続けた。
「うむ。お主も不可思議に思ったであろう。屈盧の矛は、自ら持ち主を選ぶ。一度、持ち主を選べば、それ以外の者には手にできぬほど重くなる。見たであろう。この介象ですら持つことは敵わぬ」
「――――⁉」
「そして、屈盧の矛に選ばれし者にはその理由がある」
「理由――?」
今や、屈盧の矛が己にしか持つことの許されなくなった理由というものに、姚光は俄然興味が湧いた。
「見たところ、屈盧の矛は完全に目覚めていない」
今度は、介象が眼を細めるようにして続けた。
「姚光、霊気は操れるか?」
「霊気? 霊気って、方術を使うときのやつか?」
「如何にも!」
期待の籠った銅鑼のような声音で元緒が興奮した。
「方術は少しだけ鄷玖さまに習っているけど……」
肩を落とした元緒に代わって、介象が微笑を浮かべた。
「ならば、更なる進化はこれから」
「…………?」
不思議そうな姚光を他所に、気を取り直した元緒は意気揚々と介象に質した。
「それにしても介象よ、屈盧の矛の使い手と相見えるのは幾年振りかのう?」
「そうだな、二百年振りといったところか」
嬉しそうに応じた介象だったが、胡綜を初め、辺りの者は二人の会話に理解が及ばないでいた。
すると、介象は徐に姚光へ拱手した。
「では、手合わせ願おう。真剣にて立ち向かってよいか?」
「よし、やろう!」
「よ、姚光――」
何かを言おうとする葛玄を、遮るようにして姚光は言った。
「わかってる。本当の強さは信念、敵は怯弱、味方は気丈、でしょ? けど、この介象って人……」
姚光は屈盧の矛を携え、介象に無垢な眼差しを向けた。
「……私を更なる高みまで連れてってくれそうな気がする」
辺りでひらひらと舞っていたのは、一羽の青い蝶だった。




