挑発と挑戦
すると――。
一羽の青い蝶がひらひらと舞っていた。
人もいる。
目の前の景色が一変していた。
田畑を耕す老父、遊び回る童、赤子をあやす若女、集団で武芸の稽古に勤しむ若者。幾人もの老若男女が、突如として出現したようだった。
高からぬ岡は段となって畑が広がり、そこから流れる清澄な水が、水田と里を潤し、広大な牧では馬が放牧されている。その奥に目指している霊山が見えた。
介象と胡綜は、突如として得体の知れない里に迷い込んだようだった。
「こ、これは――⁉」
仰天したのは胡綜だった。
介象と元緒、五花と栗毛の駒も一緒だったが、瞬時に場所が変わったような感覚だった。
辺りを見渡しながら介象が言った。
「この場所の本当の姿がこれだ。結界を張り、余所者には別の空間として樹海を認識させ、邪な心の持ち主では、本来の空間には入れない仕組みとなっている」
「これほどの結界を張るとは、なかなかの方士のようだのう」
介象の肩で、元緒が感心していた。
「迷い人……?」
その声に、介象と胡綜が振り向いた。
見れば、穂鞘で刀身を覆った得物を、肩に掛けるようにして持っている。白い道袍を纏い、長く伸びた髪を白の緇撮で結った志学の頃の娘だった。
短槍に装飾してある石が、綺羅と光ったようだった。
「此処に入れたということは、邪気はないようだけど、あなたたち何者?」
端整な顔立ちの娘が首を傾げると、少女のように顔を赤らめた胡綜が応じた。
「わ、私は呉より参った胡綜と申す者。こちらは、方士の介象さまと元緒さま……」
「元緒……?」
「儂じゃ。方術で亀に姿を変えておる」
「――――⁉」
驚いた娘は、その眼を見開いた。
「……方術? ……ってことは、鄷玖さまの知り合いか何かか……?」
鄷玖――。
聞いたことのあるような名だった。介象は、その名の記憶を辿ったが、すぐには思い出せなった。
「知り合い……でもないみたいだな」
「どうした、姚光?」
娘の後方から姿を現したのは、齢は強仕の頃、肩に槍を掛けるようにして持った筋骨隆々の壮健な丈夫だった。
「おっ父、この人たち迷い人みたい。若いのが胡綜、黒い襤褸が介象、亀が元緒だって」
「元緒……?」
「だから、儂じゃ。方術で亀に姿を変えておるだけじゃ」
凍りついた丈夫は、合点がいった様子になると丁寧に拱手した。
「私は、葛玄と申す者。こちらは姚光。何処かへ向かわれる途中でござったか?」
丈夫の葛玄が介象たち一行に尋ねると、手持ち無沙汰の姚光は、得物の短槍を指で何度も縦旋回させていた。装飾の石が断続的に鮮やかな光を放っている。
「――――⁉」
気付いたのは、元緒だった。
「介象よ、あの姚光とかいう娘の得物、見覚えがないか……?」
元緒の囁きに、介象は姚光が旋回させているそれに注視した。
「――――⁉」
介象は眼を見張った。
「……屈盧だ。あれは、屈盧の矛」
「やはり、そうか」
「…………?」
短槍を器用に縦旋回させている姚光は、介象の視線に気付くと眉を顰めた。
「あ、ええと、我らはあの霊山に向かう途中でしたが、突然、景色が変わって……この娘に声を掛けられたところでございます」
顔を赤らめたままの胡綜が、葛玄に応じていた。その声は尻窄みに小さくなっていた。
「この娘じゃない。姚光と呼んで貰える?」
短槍の旋回を止め、腰に両手を当てた姚光が叱るように胡綜へ言った。
「も、申し訳ない……」
顔を益々赤らめた胡綜は、鼻の下が伸び口許が緩んでいる。
胡綜と姚光の会話を他所に、葛玄は改めて介象に真摯な瞳を向けた。
「霊山に向かうには、確かにこの里を通るしかほかにございませぬ。しかし、この里の長である鄷玖さまより、霊山に入ることは禁じられております」
「いつから禁じている?」
「つい先日からでございます。どうか、ご理解を。通す訳には参りませぬ」
「急いでいる。どうしても行かねばならん」
「…………」
葛玄は、眉間に皺を寄せて瞑目した。悪意を持った行為をしないことは、葛玄にもわかっていた。この里に入れたことが何よりの証拠だった。
しかし、長の鄷玖は、霊山への入山を固く禁じている。加えて、眼前の一行は、鄷玖の知人でもないようだった。
ここは頭を下げ、引き返してもらうしかあるまい――。
葛玄が胸中で意を固めたときだった。
「私と武芸で勝負して勝てたら、通してやってもいいよ」
端整な顔を不敵に歪め、意気揚々と言ったのは姚光だった。
「な、何を言っている、姚光――⁉ 勝手なことを言うでない!」
「こうでもしなきゃ、この人たち納得しないでしょ?」
「近頃、あの霊山に何か天より降ってこなかったか?」
介象は、葛玄と姚光の遣り取りに割って入った。
葛玄と姚光は、はっとした様子を見せた。
「な、何故にそれをご存知で――?」
「あの霊山に降ったのは、刀剣だ。呉より霊気に乗って飛来した。今やその刀剣は自ら霊気を発し、近辺に異変を齎している。我らはそれを回収しに参った者」
「…………」
「おや? あれは、姚光と葛玄先生ではないか?」
「一緒にいるのは、迷い人か?」
「おーい、姚光、葛玄先生、どうかしたのか?」
どやどやと集って来たのは、先程まで武芸の稽古に勤しんでいた若者たちだった。
「姚光と言ったな?」
介象は、ずいっと歩を踏み出すと、若者たちは威圧されたように一歩後退った。
こくりと頷いた姚光は、介象を見上げた。
「お主に勝てば、通して貰えるのだな?」
「うん。いいよ」
「お、おい! 姚光――」
慌てふためいた葛玄は、即座に姚光の愚行を阻止しようとしたが、姚光をその気にさせたのは、若者たちだった。
「おいおい、姚光。その人と勝負するのか?」
「その人、強そうだぞ」
「葛玄先生よりも大きいじゃないか」
「お、お前たち――」
葛玄は、若者たちの勢いを押さえようした途端、肩にぽんと、手が置かれた。振り返ると介象の姿があった。




