結界の里
「姚光――」
気絶しているようだった。
文聘は伸している姚光に歩み寄ると、葛玄に向かって軽く頭を下げた。優しく姚光を抱え上げると、草庵に姿を消した。
「良かった。姚光どのは気を失ってはおりますが、怪我はしていないようですね。あのように文聘どのは、実直で寡黙な方です。どうか許して差し上げてください」
阿亮は再び頭を垂れると、ふっと爽やかな微笑を見せた。
「今日は、鄷玖さまもおります。どうぞ、お入りください」
とんでもない門兵がいたものだった。立ち会ってすぐにその強さがわかった。あの姚光があっという間に伸された。
そして、自分の槍術も通用しなかった。
名は文聘と言うらしい。その剛の者をも己の警護役にしている鄷玖に、葛玄は俄然興味が湧いた。
草庵は割と大きな造りだった。まるで庵という名の屋敷だった。
中に通されると、床張りの室内では鄷玖が背を向け、書簡の山の中で探し物をしていた。
「鄷玖さま、葛玄どのがお見えです」
阿亮はそう言うと、隅の方に身を移して端座した。
純白の方衣を纏った小さな背は、その辺の老婆と何ら変わりなかった。
葛玄は部屋を見渡した。
部屋の出入り口と窓は避けているが、四方の壁面、その天井に至るまで、山のように書簡が詰まれている。
「あったあった。阿亮よ、此方へ」
「はい」
鄷玖は阿亮を招き寄せると、山のように詰んだ書簡を差し出した。
「孤虚相旺三巻、三才秘録五巻、兵法陣図七巻。具に読み解きなさい」
「はい」
阿亮はそれを謹んで受け取ると、全十五巻の書簡を抱えてその室を後にした。
「して、葛玄。何用か……?」
鄷玖は、にこと微笑すると目尻が下がった。澄んだ瞳は全てを見通しているようだった。
葛玄は居を正した。
「我々に住まいをお与えくださった礼と、昨日の料理の礼を言いに参りました。お言葉に甘え、暫くこの地で暮らそうと思います」
葛玄は深々と頭を下げた。
「お好きになさい。この里に住んでおる者は、同じような境遇の持主。今では、学びたい者、作りたい者、強くなりたい者、皆、未来に大きな志を抱き、志操を得た学友同志」
「私と姚光は、徐州から各地を転々とし、霊山の麓まで来たと思ったのですが、どうやら樹海に迷い込んだようです」
鄷玖は、ふむふむと頷きながら聞いていた。
「姚光に手を取るように言われ、二人同時に一歩踏み込んだら、里の中におりました……」
葛玄は、眉間の皺を深くした。
「この里の周りには、結界が張ってある」
「結界――?」
「左様。普通の者からは樹海にしか見えぬ。それどころか、結界の中にも入れぬ筈」
不可解な面持ちになって葛玄が質した。
「それなら、何故に私と姚光は、この里に入ることができたのです……?」
その問いに、鄷玖は静かに笑ってから応じた。
「魂が生と死の狭間にあった、性善の者だからさ」
「魂が――?」
葛玄が、ぽかんとするのを見遣ると鄷玖は続けた。
「この里にいる者は皆、そうだった。生きる目標を見失ったが、死に切れぬ者。そういう者を我が結界は弾くようにしておらぬ」
「生きる目標を見失った……」
そう呟くと、葛玄は己に問い質していた。
「ただ生きてさえいれば良いのだろうか――?」
陶商に命じられるまま、姚光を連れ、何かから逃げるようにして生きてきた葛玄の胸中には、常にその問いがあった。
「門前で小競り合いがあったようだが、あの文聘もお主と同じようなものだった。此処に来て二年ほどになるかね」
「…………」
「悪い奴ではない。南陽郡の宛県で役人をしていたほどの男。賊徒の襲来により、妻と一人娘を失い、世捨て人のように彷徨い歩いてこの地に辿り着いた」
鄷玖は、淋しそうに眼を細めて続けた。
「それからというもの、私の警護を買って出るようになったが、心はまだ閉ざされたまま」
「……そうでしたか」
葛玄が静かに応じた。
「此処は、何か大切なものを失った者が集った里。しかし、人は強い。再び生きるための糧、目標、志を見出し、懸命に生を謳歌する者が集った里とも言える」
鄷玖が溶けるような優しい微笑を湛えた。
「ほ、鄷玖さまも、そうなのでございますか……?」
葛玄は、怖ず怖ずと鄷玖に尋ねた。
「此処で暮らしておる者らと何ら変わらんよ。私も志半ばにして夢破れた者のひとり。しかし、生きることを選んだ。だから、この里を作った。それだけさ」
「私には何もない。強いて言えば、槍術くらいのものです」
鄷玖は、怪訝な顔で嘆息した。
「何を言うておる。お主は持っておるではないか」
「持っている? な、何を持っていると言われるのです……?」
怪訝な顔となったのは、葛玄もだった。
それを眼に、鄷玖は真摯な瞳を葛玄に向けた。
「義と愛――」
「――――⁉」
鄷玖の言に、葛玄から力のない笑みが零れた。すうっと、肩の力が抜けたようだった。
別室では、姚光が横になっていた。
姚光が目覚めるのを待つように、枕元では文聘が心配の面持ちで胡座していた。その背は、少し小さくなったように見えた。
「気付いておられましたか、文聘どの。その子は、女児です」
部屋に入ってきたのは阿亮だった。両手には水と布が入った桶を抱えている。
「――――⁉」
見開かれた文聘の眼が、気付いていなかったことを告げていた。
よく見れば、姚光の寝顔は優しく、体軀は華奢だった。今はいない文聘の一人娘も、姚光と変わらぬ年端だった。
「男児として生きねばならなかったようです。よほどの事情があるのでしょう」
静かに言うと、阿亮は姚光の枕元に身を寄せた。布を絞って水気を切り、それを姚光の額にそっと乗せた。
文聘は何かを思い出すように、姚光へ優しい視線を落とした。
すると――。
ぱちりと眼が見開かれた途端、姚光は枕元に置かれた短槍を手に取り、跳ねるように起きた。
額に当てられた布が宙を舞っている。
姚光は腰を落として短槍を身構えた。周囲の様子から状況を理解しようと、姚光の瞳が目まぐるしく動いた。
胡座のままの文聘が、眼を見張っていた。
「よ、姚光どの、落ち着きなさい。どこか痛いところはありませんか?」
平静を装った阿亮は、優しい口調だった。
部屋の中、寝具、阿亮、門兵の大男――。
「ああ、そういうことか……」
悟った姚光は、肩の力を抜いた。
「おじさん、おっ父みたいに強いね」
「文聘だ。すまないことをした」
それだけ言うと、文聘は深く頭を垂れた。
「文聘のおじさん、また相手してよ」
姚光の声に弾かれたように、文聘は顔を上げた。
「いいだろ? 文聘のおじさん」
姚光が、元気な破顔を見せた。
「ああ」
口許は髭で覆われているが、眼を細くして文聘も笑みを返した。
文聘は久方振りに微笑んだ気がした。不思議なことに、微笑み方は忘れていなかった。少しだけ胸の奥が温かくなったようだった。
「阿亮、何して遊ぶ?」
何事もなかったかのような姚光の清々しさに、阿亮も自ずと笑みが零れた。