鄷玖と阿亮
季節は初夏だった。
ふとしたことで、葛玄に湧いた思いは、次第に大きくなっていた。
「只、生きてさえいれば良いのか……?」
気付けばその父子は、武器を片手に、よれよれの袍衣を纏い、蓬髪、裸足という有様で、見苦しい限りの風体となっていた。
そのような折――。
遠くから見れば、悠然と聳える神秘な山、その裾に森が広がっているように見えた。
辿り着いてみれば樹海だった。
空は雲っていた。鬱蒼とした樹海の中は、幽奇な霊山が穏やかに吹き降ろす風のせいか、霞み掛かっている。
「今日は此処で狩猟でもするか」
葛玄は姚光に言ってはみたものの、どういう訳か、獣の気配はしなかった。加えて、引き返そうにも、何処から入って来たのかわからなくなっていた。
「おっ父、待って」
姚光は前に一歩出ると、葛玄を制しその歩みを止めた。
「何か面妖しい」
辺りの霞みは、先刻よりも少し濃くなっているようだった。
「…………」
葛玄は耳を澄ました。獣の息遣いはおろか、野鳥の声さえ聞こえなかった。
姚光は、徐に葛玄の手を取ると、もう一方の手で短槍を前に突き出した。
「行くよ、おっ父」
姚光と葛玄が、再び歩み始めようと一歩踏み出した。
すると――。
突如として霞みが晴れ、青空が広がった。
そればかりではない。眼前には田畑と里が広がっていた。高からぬ岡は段となって畑が広がり、そこから流れる清澄な水は、水田と里を潤していた。遠くへ眼を遣れば、茂盛した松や竹林が点在し、広大な牧では馬が放牧されている。
そして、人がいる。
田畑を耕している老夫、遊び回る童、赤子をあやす若女、集団で武芸の稽古に勤しむ若者。幾人もの老若男女が、知っている乱世とは別の世界に生きていた。
その景色に、葛玄と姚光は呆然とした。
最初に二人の侵入者に気付いたのは、童たちだった。何やら相談すると、挙って何処かへ駈けて行った。
間もなく、童たちが手を引いて連れて来たのは、藜の杖を突いた老婆だった。腰は曲がり、長く伸びた白髪を白巾でひとつに束ね、純白の方衣を纏っている。
「ほうほう。迷い人だね。よう結界に入って来られた」
老婆は、葛玄と姚光に歩み寄ると、二人を見比べながら続けた。
「その風体を見たところ、何やら訳ありと見える。どれ、付いておいで」
葛玄と姚光は顔を見合わせると、誘った老婆に怖ず怖ずと従った。
先程の童たちは、老婆と引き合わせたことに安堵したのか、再び駈け回り遊び始めていた。
何人か里の者と擦れ違った。誰も葛玄と姚光には興味を示さなかったが、先導する老婆には、皆、一礼を施した。
「名を聞いても良いかな?」
前方を向いて歩きながら、その老婆が尋ねた。
はっとしたような葛玄が応じた。
「葛玄と申す。こちらは、姚光。訳あって恩人の子息を連れ、旅をしております」
「ほっほ。その子は女児だろうに」
「――――⁉」
葛玄は肝を冷やした。見抜かれていた。
姚光の身なりは、女児のそれではなかった。老婆とは先ほど会ったばかりで、姚光とは会話もしていない。
しかし、老婆は姚光が女児だと気付いている。その老婆の歩が止まった。
「此処じゃ」
見れば、一軒のみすぼらしい小屋だった。
「今は誰も住んでおらん。好きに使うといい」
それだけ言うと、老婆は踵を返した。歩を進めながら、振り返りもせず老婆は続けた。
「後で食事を届けさせよう」
「あ、あの、貴方さまは……?」
また、老婆は振り返らずに言った。
「鄷玖だよ」
鄷玖が去ったのを見届けると、葛玄と姚光は、その質素な小屋の中へ身を運んだ。
「わあ」
感激の声を上げたのは、姚光だった。
無理もない。中は粗末な作りだったが、小奇麗に掃除が行き届いており、寝床もあった。
「しかし、これは一体どうなっている? 我らは樹海に入ったとばかり思っていたが……」
葛玄は、姚光に語り掛けて訝しんだ。
「確かに、奇妙な感じのする樹海だったね。霞みも段々濃くなってきていたし……」
姚光は室内の四方、隅々に足を運び、内見しながら応じていた。
「何故、一度歩を止め、俺の手を取って再び歩み始めたのだ?」
姚光はその足を止め、天井を見上げて考えるようにした。
「うーん。わかんない。何となく、おっ父の手を取って踏み出せば、何かが起こるような気がしたから……かな?」
「…………」
「そんなことより、暫く此処に寝泊りしても良いのかな? それは、贅沢かな?」
瞳を輝かせた姚光が葛玄に聞いていた。
葛玄は贅沢とは思わなかった。それよりも、長い間、姚光に不憫な思いをさせていた事実を突きつけられたようで、胸が苦しくなった。
「どうせ宛てもない旅だ。暫く世話になるか」
「やったあ‼ そうと決まったら、何か食べ物を探してくるよ!」
姚光は、眩しいほどに破顔した。
「これこれ、急くな、姚光。里の者に会ったら、挨拶を忘れるな」
葛玄が言い終えるや否や、姚光は短槍を携え、疾風の如く小屋から駈け出して行った。
葛玄も姚光の後を追うように、静かに小屋から外に出た。
眼前には、先ほどまでと同じ豊かな里の景色が広がっている。
「不思議なものだ。この乱世に、これほどの里があったとは……」
やはり、人がいる。
相変わらず熱心に田畑を耕す老夫、元気に遊び回る童、赤子を寝かしつける若女、武芸の稽古に励む若者。幾方向に目を向けても、そこには平然と人の営みがあり、ただ眺めているだけでも飽きなかった。
いつの間にか、陽が傾き掛けていた。
里の者たちも、三々五々と家路に着いているようだった。
「おっ父!」
声のした方に振り返ると、両手に沢山の野菜を抱えた姚光が駈け寄って来た。
「里の皆に貰ったよ!」
葛玄は頷きながら笑みを返した。
ふと、姚光が来た方と反対側に顔を向けると、此方に向かって来る者の姿があった。
粗末な白い道袍をまとい、黒髪は白の緇撮で結っている。何かを持っているようだが、近づいて来ると、眉目清秀で女人のように肌が白い若者であることがわかった。
その面貌の立派さもさることながら、容姿から漂う清雅の気色が、葛玄と姚光の眼を惹いた。
「葛玄どのと姚光どのですね?」
その若者が尋ねると、葛玄と姚光はただ頷いた。
にこと、若者は微笑み返して続けた。
「鄷玖さまの遣いで参りました。どうぞ、お受け取りください」
若者は、手にしていた大きな包みを葛玄に手渡した。
葛玄は包みから漏れる匂いで、それが肉料理であることがわかった。
「これはこれは、忝い。何と礼を言ったら良いやら」
「鄷玖さまは、宛てがないのであれば、此処で暮らしてはどうかと言っておられました」
「ええ⁉ 良いの――⁉」
興奮した姚光が、抱えていた野菜を二、三個落とした。
若者は、姚光に眼を細めて頷いた。
「この先の竹林に鄷玖さまの庵がございます。困ったことがあれば、いつでもおいでください。私もそこにおります」
「貴方さまは?」
「鄷玖さまの教えを請うべく、荊州の隆中より遊学している黄嘴の豎子。鄷玖さまからは、阿亮と呼ばれております」
阿亮は、葛玄と姚光に丁寧な一礼を施した。
「阿亮、今度、遊びに行っても良い?」
無邪気に瞳を輝かせた姚光が尋ねた。
「こ、これ、姚光。無礼だぞ」
葛玄が姚光を制すや否や、阿亮は微笑みを返して続けた。
「お待ちしておりますよ、姚光どの」
「やったあ――‼」
姚光が喜んで飛び跳ねる度に、抱えていた野菜が落ちた。
阿亮は依然として、姚光に眼を細めていた。
その冴えて澄みきった瞳の光を受け止めている間に、葛玄は、ふうっと、魅せられそうになった。
「それでは、私はこれで失礼いたします」
再び二人に礼をして、踵を返した阿亮に、姚光は嬉しそうに大きく手を振った。
「またね、阿亮!」
阿亮は振り返ると、優しい笑みを浮かべて、小さく手を振り返した。
夕暮れの涼やかな風が、阿亮の緇撮を靡かせた。爽やかな微風を受けるに相応しい、清涼の気があるばかりだった。
その日の夕餉は、いつもより豪華なものになった。
「美味い」
「美味しいね」
「これで酒でもあれば、もっと良いのだが」
「おっ父、それは贅沢だよ」
食事を取りながら、双方とも笑顔で他愛もない会話をした。
「おっ父、明日は阿亮のところに遊びに行ってもいいかな?」
「そうだな。鄷玖さまにお礼を言いに行かねばならんからなあ」
「何だか、楽しみ」
「…………」
葛玄は箸を止めると、しみじみと姚光を見つめた。
「明日が楽しみと思わせたのは、いつ振りだろうか……?」
そんな言葉が胸中に浮かんでいた。
「ん?」
口一杯に肉を頬張った姚光が不審がった。
葛玄は首を横に振ると、また箸を口に運んだ。
「美味い」
二人は腹が一杯になると、眠くなった。
今日からは、獣や害虫、風や雨露も気にしなくて良い。
葛玄と姚光は、揃って寝床に横になると、どちらからともなく寝息を立てた。
本当の父子のようだった。