江夏太守、黄祖
「あのような者らを将に抜擢するなど、断じて有り得ませぬ。あの劉表さまのこと。鼓吹軍まで付けて寄越したということは、何か思案があってのことでしょう」
毅然とした態度で語ったのは、褝を羽織る而立の頃の文官、潘濬だった。江夏城の従事であり法家、城主の黄祖の軍師的存在である。
加えて、江夏郡の法の番人であり、法に逆らう者は容赦せず罰する果断な性格の持ち主でもあった。
法に厳格な潘濬は、違法を繰り返す陳生と張虎が目障りだった。
その潘濬に背を向け、思案の面持ちで窓より外を眺めていたのは、曲裾袍に身を包んだ恰幅の良い老君だった。あと二、三年もすれば還暦を迎える頃であり、白みがかった髭が顔の半分を覆っている。
この者こそ、江夏太守の黄祖だった。
「ふむ」
黄祖はどこか上の空だった。
その折である。
ひとりの兵卒が現れると、潘濬に一礼し、黄祖に拱手しながら告げた。
「黄祖さま、黄射さまがお見えでございます」
「黄射どのが? 珍しいな」
潘濬が、考えるようにして呟いた。
「うむ。通せ」
その兵卒は、再び黄祖に拱手すると、そそくさと立ち去った。
間もなく、緊張の面持ちを晒した黄射と、見たことがない老夫が入って来た。
ちらと振り返った黄祖には、黄射に比すると老夫の方が隙のない所作に見えた。
「どうされました?」
尋ねたのは潘濬だった。
黄射は潘濬には見向きもせず、実父の黄祖に拱手した。
「前置きはよい。用件を申せ」
相変わらず、黄祖は窓から外を眺めている。
黄射は、後方に控える王表を一瞥すると、酔いを覚ますかのように息を深く吸い込んだ。
「禰衡の一件は、私も浅はかであったと猛省しております。それは、引き合わせた左慈どのも均しく責務に苛まれておったようです」
「…………」
「此度は、その左慈どのから詫びの標しとして、左家秘伝の宝剣を寄贈して参った故、父上に献上すべく参上した次第」
「左家秘伝の宝剣……?」
黄祖は興味を示したように、その恰幅のよい身を翻した。
こくりと頷いた黄射は、王表に披露するよう促した。
王表は慇懃な態度で布に包まれた剣を側の卓上に置くと、丁寧に布を広げてみせた。
「此方でございます」
鞘に収まった辟邪の剣を、王表は丁重に黄祖へ差し出した。
黄祖は粗雑に受け取ると、さっと鞘から剣を抜き放った。
「お、おお……」
その剣が放つ冴えて冷ややかな光は、見たことがないほど鮮やかなものだった。
黄祖は眼を剥き、息を飲んだ。
「左家秘伝の宝剣、辟邪でございます」
剣の付け根には、辟邪と彫られている。
「宝剣、辟邪……?」
手を口許に当てた潘濬が、猜疑の顔となった。
「うむ。これは見事な剣じゃ」
上機嫌となった黄祖からは、顔の半分が髭に覆われていてもなお、笑みが浮いているのが見て取れた。
その様子に、ほっと胸を撫で下ろしたのは黄射だった。
「私は、左慈さまに仕える王表と申す者。黄射さまが申し上げたとおり、これは左家が呉王闔廬より賜った辟邪の剣。秘伝故、知る人ぞ知る宝剣でございます」
「なるほど」
「どうか、我が主、左慈さまの自省の念を汲まれ、辟邪の剣をお納めになると共に、黄射さまの恩赦を希うばかりでございます」
王表に続いて黄射も拱手すると、深々と頭を垂れた。
「ふむ」
一度鼻息を荒くすると、黄祖は辟邪の剣を鞘へと収めた。
「黄射」
「はっ」
拱手したまま、黄射は一歩進み出た。
「今より儂に帯同することを許す」
「ははっ」
黄射が再び深く一礼を施した時だった。
顔色を変えた先程の兵卒が、慌てた様子で現れたかと思えば、潘濬に耳打ちして再び姿を消していた。
次に顔色を変えたのは、潘濬の番だった。
「黄祖さま」
「どうかしたのか?」
上機嫌な黄祖は、潘濬に穏やかな声音で返した。
「張虎と陳生が、新兵を殺害しました」
「――――⁉」
驚きの表情を晒した黄射とは裏腹に、北叟笑んだのは王表だった。
一方、黄祖からは笑みが消えただけだった。意表を衝かれた様子は微塵も感じられない。
「潘濬……」
「はっ」
「軍法に照らせば、部下への無秩序な殺刑は如何なる罪か?」
潘濬は、冷笑を浮かべた。
「即刻、張虎と陳生を此処へ連れて来い」
黄祖は下知した。
開け放たれた窓から流れてきた風が、血生臭い気がした。
「おい、調練だぞ。誰か相手になる奴はいねえのか?」
練兵場では、張虎が剣を振り翳して、僅かに残った新兵を追い回していた。
「ほっほ」
袖を捲り上げた陳生は、腕に備えた小型の弩で、逃げ惑う新兵に狙いを定めている。
「おい」
後方からの声に振り返った張虎は、反射的に剣を振り下ろした。
ガギイイン――。
截頭の薙刀が、凶刃を受け止めていた。
「いい加減にしろ。此処は賊徒の習わしが通るところではない」
鄧龍は、冷徹な眼差しで張虎を睨みつけた。
陳生の奇妙な哄笑が止んでいた。その眼に映っていたのは、一丈余の長く太い豪槍だった。
「やり過ぎだ。新兵を弄ぶとは、以ての外」
片手で軽々と豪槍を持ち上げる陳就は、陳生の横から睨みを利かせた。
すると――。
鄧龍と陳就の兵たちが、挙って練兵場に馳せ集うと、張虎と陳生を囲った。
「捕縛せい!」
張虎と陳生は、その声の主を探した。
頭を朱色の布で鉢巻いている。戦袍を纏った蘇飛が、片手を上げて命じていた。
忽ちの内に拘束された張虎と陳生は、黄祖の下へ引っ立てられた。
「お前ら‼ 俺たちにこんなことして良いと思ってんのか――⁉」
「そうですとも‼ 我らは劉表さまに推挙されて将になった者。このような扱いは、劉表さまに逆らうことになりますよ――⁉」
張虎と陳生は、後ろ手に縛られてもなお意気盛んだった。鄧龍と陳就によって、黄祖の前に引きずり出されてからもそれは収まらなかった。
「黄祖さんからも此奴らに何とか言ってくれよ! 俺たちにこんなことしやがって」
「我らは特別なのでしょう⁉ 黄祖さん、この城の者たちは皆、勘違いしておりますよ」
黄祖に食って掛かろうとする張虎と陳生を、鄧龍と陳就は怒気を込めて押さえ付けた。
「黄太守の前だぞ。少しは大人しくしろ!」
眉間に皺を寄せた蘇飛が語気を強めた。
黄祖は、嘆息した。
「お主らを即刻捕縛するよう命じたのは、この儂だ」
「――――⁉」
「潘濬、此奴らの罪状を述べよ」
「はっ」
黄祖の横から一歩進み出ると、潘濬は諳んじた。
「窃盗罪、脅迫罪、傷害罪、暴行罪、恐喝罪、器物損壊罪、強要罪、背任罪、名誉毀損罪、侮辱罪、信用毀損罪、威力業務妨害罪、殺人罪など、枚挙に暇がございませぬ。全てこの江夏城に参ってからの罪でございます」
「な、何だと――⁉」
張虎と陳生は、眼を剥いて唖然とした。
「身分が変わってもなお、賊徒ということか……」
嘆くようにして黄祖は首を振った。
「勘違いしておるのは、お主らだ。劉表さまは、最初からお主らなどに用はない。荊州から江夏衆を消し、その兵は劉表軍として用いる。無用だったのは最初から張虎、陳生、お主らの方じゃ」
「――――⁉」