宝剣、辟邪
「私は、左慈さまの命により参りました王表と申す者。禰衡どのの件は、左慈さまも大層お気にされている様子」
「ふん。左慈の奴、俺を禰衡と引き合わせて依頼、顔も見せぬではないか」
黄射は盃を一気に呷った。
「左慈さまもどうやって黄射さまのお気持ちを宥めたら良いか、日夜思案しておった様子。やっと意を決したようでございます」
王表は脇に置いた布に巻かれたものを黄射の前に置くと、その布を解いた。
鞘に収まった一振りの剣だった。
「失礼仕る」
王表はそれを引き抜くと、再び黄射の前へ静かに置いた。
「――――⁉」
根元には、「辟邪」と彫られている。神秘にも冴え冴えとした光を放つその剣に、黄射は瞬時に魅了された。
「左家に伝わる宝剣、辟邪でございます」
「ほ、宝剣、辟邪――?」
「黄射さまの名誉回復のため、左慈さまは伝家の宝剣を手放す決心をされたのでございます」
「俺に与えると――⁉」
酔いと驚愕で、黄射の声は大きくなった。
「し、しかし、宝剣辟邪とは、聞いたことがないが……」
酔いの覚めたような黄射は、首を傾げ訝しんだ。
「滅相もございません。宝剣辟邪は、左家秘伝。呉王闔廬の時代に方士の左家に下賜された秘宝。これまで門外不出、知る者ぞ知る宝剣でございます」
王表は力説してから慇懃に頭を垂れた。その顔には、薄ら笑いが浮かんでいた。王表の弁は、黄射を信じ込ませるための虚偽だったのである。
「さ、左様か……」
吸い込まれそうな光を放つ辟邪の剣を前に、黄射は眼を見張ると、生唾を飲み込んだ。
王表は、荊州の霊山で辟邪の剣を探し当てていた。
左慈の指示を受けてから、王表は手の者を先行させた。
王表が許都を発ってから間もなく、その報は齎された。
曇天や雨の日でさえ、空にぽっかり穴が開いたように晴れるところがあるという。晴天でなければ、日夜、雲に人がひとり通れるほどの穴が開いているという一報だった。
その場所は、荊州にある小高い霊山の近くだった。
王表は数日を掛けてそこに赴くと、確かに雲には穴が開いていた。
「天がお怒りじゃ。どうかお助けくだされ」
「恐ろしや。お怒りの天帝さまが天罰を下さろうとしておる」
結髪に濃緑の巾を付けている。
荊州一帯を騒がせている江夏衆だった。骨と皮だけになったような江夏衆の老人たちが、地に頭を擦り付けては天を拝んでいた。
麓から小高い霊山を見上げると、切り立った岩肌に光るものがあった。そこから上の雲に穴が開いていた。
王表は江夏衆の老人たちに侮蔑の視線を送ると、白髯を扱きながら冷然と微笑んだ。
王表を頭領とする探者の群れは、その霊山に登った。中腹まで来ると、王表は躰に縄を括り付け、岩壁を滑るようにして下った。
十人ほどの部下たちが、縄を手にゆっくりと王表を下ろしている。
岩肌に突き立っていたのは、やはり、剣だった。柄の近いところに辟邪と彫られている。
王表は、両の手で柄を持ち、足を岩肌に突き立て引き抜こうとしたが抜けなかった。力で抜くのではないような気がした。
王表は左慈や紡績のように、長い時間、自在に霊気を繰ることはできない。しかし、瞬間的に霊気を込めることは左慈から教わっていた。
王表は、利き手に霊気を込めて辟邪の剣を引いた。
何の感触もないほど、すっと抜けた。
王表は宙吊りのまま、辟邪の剣をまじまじと見遣った。これまでに見たこともない冴えた光彩を放つ辟邪の剣に、王表は忽ち惹かれそうになった。
同時に、狡智が脳漿を駈け巡っていた。まずは、江夏の黄射に餌を撒いてみることにしたのだった。
「宝剣辟邪を父上の黄祖さまに献上し、信頼を得よ――と、左慈さまが仰せでございます」
黄射は、手に取った辟邪の剣から放たれる剣光にも酔うようだった。
「黄祖さまには、禰衡の一件を憂慮していた左慈さまが責務に苛まれ、左家の宝剣を寄贈して寄越したとでも申せば、全ての誤解はおろか、黄祖さまからの信も取り戻せましょう。恐れ多くも、私の同席もお力になれるかと」
「か、忝い!」
酒の酔いも相まって、黄射は感涙しそうになっている。
にこと微笑み返した王表の眼光は、冷ややかなものだった。
間もなくして、黄射と王表は江夏城に登城すると、練兵場に差し掛かった。
「退け! 今からこの練兵場は、俺たちが使用する!」
黄射と王表が、野太い声の主に眼を向けた。
真新しい兜と甲冑に身を包んだ二将が、三百人ほどの兵を引き連れ、練兵場に入って来たようだった。その兵の半分ほどは、賊徒と見紛うような身なりである。
先に練兵場で調練していた同じく三百ほどの兵たちが、漣打っている。
「黄射さま、あれは?」
「ん? ああ、あれは最近、劉表さまから送り込まれた将校さ。先日まで、江夏衆の頭目を張っていた奴らと聞いている。大きい方が張虎で、小さい方が陳生と言ったか」
「江夏衆の頭目……」
「劉表さまもとんでもない奴らを送り込んで来たものだ。毎日大層な甲冑を着込んで、まるで将軍気取りだ。振る舞いは元の賊徒のまま。城の者も扱いに困っているとさ」
黄射は、興味のない様子で城内へ歩を進めると、王表も練兵場に一瞥して黄射の後に続いた。
「無礼者が! 新兵の隊だな? 練兵場の使用許可を取ることも知らんのか⁉」
朱色の短い布を羽織り、胸元で結んでいる将校が、割り込んできた新兵の将に威儀を以って質した。
「誰かと思えば陳就じゃねえか。俺は劉表さまに招かれて将になったんだぞ? 階級は同格でも、俺の方が偉いんだよ。わかったらさっさとその弱っちい兵を連れて此処を去れ!」
「――――⁉」
陳就とその兵たちの眼に、怒りの炎が焚きついたようだった。
「ほっほ」
その反応を茶化すように、口許を隠して嘲り笑ったのは、陳生だった。
「止せ」
ひとりの将校が兵たちを掻き分けるようにして、陳就の後方から姿を現した。朱色の短い布を肩に帯び、胸元で結んでいる。陳就と並んで蘇飛の副官を務める鄧龍だった。
「軍律に触れる。軍内での衝突は、どのようなことであれ避けねばならん」
「二人とも纏めてお相手しますよ?」
陳生が佩剣に手を掛けた。
それを察した張虎も、佩剣に手を添えて身構えた。
「今日は退こう、陳就」
「は⁉ 何故……⁉」
「蘇飛さまに迷惑を掛ける訳にはいかぬ。此奴らに受けた傷も、まだ癒えておらぬのだぞ」
「――――‼」
「弱えってのは、気の毒だなあ」
張虎と陳生は、せせら笑った。
それに倣ったように、新兵たちも大げさな嘲笑を披露していた。
鄧龍と陳就は怒気を堪えながら、己らの兵を引き連れ、練兵場を後にした。
「よし! お前ら、今から調練ってのをやるぞ! 俺の動きをよく見ておけ!」
張虎は剣を抜くと、力任せに振って見せた。
「こうだ!」
新兵たちも支給されたばかりの使い古しの剣を、見よう見真似で振った。中には、初めて剣を振るような者もいる。
「何か違うなあ……」
張虎は首を傾げると、近くの新兵を手招いた。
刹那――。
首が虚空に血の虹を描いた。
その首が地に落ちるのと同時に、体は頽れた。
張虎は眼前に新兵を佇立させると、躊躇することなくその首に一閃を走らせていた。
「ああ! これだよ、これ!」
「ほっほほほ!」
満足げな張虎と、その異質な光景を前に陳生が哄笑している。
突如の惨状に、新兵たちは我を忘れて剣を投げ捨てると、蜘蛛の子を散らしたように練兵場から逃げ出した。
「情けねえなあ、新兵どもは!」
「ほっほほほ!」
江夏の城内には、豺狼が放たれているようなものだった。




