蠢動
時を経たずして、陳生と張虎は襄陽城に招かれると、劉表の部将として迎えられた。
一万ほどに膨れ上がった江夏衆も、順次、劉表軍に編入される。
数日後、襄陽城の一室では、荊州牧劉表と、一段低い位置に四賢が立ち並んでいた。
その向かい側は、新しい兜と甲冑に身を包んだ張虎と陳生が、緊張の面持ちで佇立している。
「早速だが、晴れて我が将となったお主らには、江夏に赴任してもらう。以後、太守である黄祖の指示を仰ぐとよい」
「御意」
張虎と陳生は、慣れない所作で劉表に拝跪した。
「張虎よ、陳生よ、期待しておるぞ」
劉表は優しげな微笑みを携えた。
張虎と陳生は、こくりと頷くと、その一室を後にした。
「ふん。あれだけ威勢を放っていた者が、城に招かれた途端、急に萎縮しおって」
「暴力と悪知恵しかない豺狼の類も、所詮は田舎の村夫子。あれで将になれるのであれば、誰でもなれよう」
華奢な韓嵩とふくよかな傅巽が、嘲り笑った。
「それにしても劉表さま、あの二人を江夏に派遣とは、どういう心算でございましょう?」
「江夏太守は、あの黄祖どの。張虎と陳生のような田舎者とは、相容れないのでは?」
人事を訝った蒯越と劉先は、劉表の思慮を吐露させようとした。
江夏太守、黄祖――。
その出自は荊州の大豪族であり、劉表の旧臣、幕僚のひとりだった。
一九一年、快進撃を続けていた江南の孫堅は、劉表の本拠である襄陽城を包囲した。
劉表は城門を閉じて守りを固め、夜になると偵察のため、密かに黄祖軍を場外へ放出した。
黄祖が城内へ戻ろうと引き返したとき、それを発見したのが孫堅だった。
孫堅の追撃に、黄祖軍は山中へ逃げ込んだ。
勝ちに乗じた孫堅は、敵地でさえ追撃を緩めることをしなかった。
山中へ躍り込んだ孫堅は、黄祖の下知により竹薮や林の中から一斉に放たれた千矢の餌食となった。世に江南の獅子と謳わしめた孫堅の最期だった。
故に、黄祖は孫堅の次子、孫権を初めとする呉の仇敵でもあった。
「うむ。黄祖が怒りを露わにするのは眼に見えておる。だが、鼓吹も付けて送れば、あの黄祖のことだ、怒りを収め、我が心中を察するであろう」
劉表は漢朝の霊帝より鼓吹軍を下賜されていた。この時代、楽器を奏でる兵科は貴重であり、それを所有することは名誉なことでもあった。
「なるほど。以前より黄祖どのは、鼓吹軍を欲しておりましたからのう」
「黄家は荊州でも一、二を争う大豪族。鼓吹軍を所有するとなれば、迫が付くというもの」
「しかし、劉表さま、我が心中とは?」
蒯越は疑念を口にした刹那、劉表の卑劣な心中を察すると、はっとした。
「血は見たくないものよ。だが、黄祖は違う。なあに、あれには潘濬が付いておる」
劉表には、冷笑が浮かんでいた。
ちょうどその頃――。
「黄射さまはいらっしゃいますかな?」
陽は、中天に達しようとしていた。
荊州は江夏郡、その城下街にある豪壮な屋敷の門前だった。
門兵に尋ねていたのは、青い頭巾を被り、目尻に深い皺を走らせ、顎先に三寸ほどの白髯を蓄えた初老の細身だった。目尻を垂らし、にこにこと顔を綻ばせた老夫は、布に包んだものを大切そうに抱えている。
「ん? 若さまは在宅だが、お主のような老夫が何用だ?」
その老夫は深々と頭を垂れた。
「黄射さまへ献上品をお届けに。左慈の遣いが参ったとお伝えいただければ、わかるかと」
一度、姿を消したその門兵は、間もなく戻って告げた。
「通れ。黄射さまは奥の部屋にいらっしゃる」
老夫は門を潜ると、門兵と邸内に入った。どういう訳か、足音は門兵のものしか聞こえない。一番奥の部屋の前まで辿り着くと、門兵が訪ないを入れた。
「入れ」
不惑に近い歳の頃の声だった。
門兵が戸を引くと、老夫は慇懃な調子でその部屋へと足を踏み入れた。
見れば、仏頂面に口髭を蓄えた中肉中背の男が、崩れた姿勢の胡坐で酒を飲んでいた。
「座れ」
老夫は黄射の向かい側に端座すると、胸に抱えていたものを丁重に脇へ置いた。
「左慈の遣いだそうだな。奴のせいで俺の面目は丸潰れだ。今更どういう料簡だ?」
吐き捨てるように言った黄射は、眼前の老夫を睨んだ。
遡ること二年――。
齢二十五にも満たない若者が、才を募る曹操に挑んだ。
名は、禰衡。己の才を恃んで傲慢無礼、他人の容赦ない批判、己に及ばない者と知ると鼻にも掛けない男だった。次第に禰衡は、人々から憎まれるようになった。禰衡の態度に拍車が掛かると、遂には曹操までも傑物ではないと評するに至った。
曹操は、禰衡を内紛の因子として利用すべく、これを左慈に預けた。
「劉表あたりにくれてやれ」
左慈は、劉表の幕僚である黄祖の長子、黄射に眼を付けると、禰衡と引き合わせた。
禰衡と黄射は、左慈の思惑どおり馬が合った。
禰衡と親しくなった黄射は、父の黄祖が催した酒宴に禰衡を同席させた。本領を発揮したのは禰衡だった。
その傲慢な態度は、黄祖から疎まれるようになった。
ある日、黄祖の些細な問いに、禰衡は役者のような饒舌さを以って応答した。
「こやつ、遂に儂をも小馬鹿にしおった」
怒髪天を衝いた黄祖は、徐に佩剣を引き抜くと、忽ち禰衡を斬り捨てた。
「この戯け者が――‼ 父に無礼者を紹介するとは、何事か――‼」
黄祖の怒りは、黄射にも向けられた。
以来、黄射は、実父の黄祖から遠ざけられていたのである。




