劉表と四賢
荊州襄陽城――。
その一室では、ある評議が行われていた。
頭ひとつ抜き出ている。
上座に端坐しているのは、端整な顔立ちの荊州牧、劉表だった。
齢は耳順の頃、痩軀ではあったが、身の丈八尺ほどの長身は、端坐していてもなお佇立しているようだった。
その劉表が一度、嘆息した。
「袁紹が、援軍はまだかと言うてきておる」
冀、青、幽、并の四州を統べる河北の雄、袁紹と、司、兗、豫、徐の四州を平らげた中原の覇者、曹操の争いが激化していた。
劉表が治める荊州は、曹操の背後に位置している。
故に、袁紹からは頻繁に援軍要請の使者が寄越されていた。
劉表の対面には、四賢の異名を取る荊州の名士四人が横一列に端坐している。
「病に伏しているため、援軍派遣は遅れるとでも返答しておけばよろしいでしょう」
発したのは、劉表から見て一番右側に座している四賢の筆頭、劉先だった。博学で記憶力に優れ、取り分け老荘の学を好む漢王朝の故事に詳しい儒者だった。
その劉先を除いた三名士も頷いている。
この間、劉表は袁紹の要請を承諾しておきながら、兵を派遣することはなかった。そうかといって、曹操を援助するわけでもなかった。つまりは、形勢を見守っていた。
「袁・曹による戦乱を避け、中原はおろか、河北からも荊州に移る者が後を絶ちませぬ」
「左様。各地に学び舎を開設したのも時に乗じたと申せましょう」
劉先の隣の華奢な名士、韓嵩に続き、ふくよかな体軀の名士、傅巽が穏やかに微笑んだ。
考え込むように腕組みした劉表は、暫く双眼を閉じてから意見した。
「そうであれば、江夏衆と錦帆賊。此奴らが我が荊州の発展の妨げとなっておるのう」
劉表が漢王朝の臣として、荊州に赴任してから十年の歳月が経過しようとしていた。赴任してからというもの、劉表は土地の有力者を中心とした一揆、地方官僚たちの反発、軍閥と化した宗賊の鎮圧に明け暮れた。
そのためだろうか、いつからか争いというものに疲労を覚えるようになり、遂には遠ざけるようになっていた。
「血は見たくないものだが……」
劉表は、一番左に座した名士に視線を遣った。
その視線の先に在ったのは、人柄は公正で才智に富み、堂々たる風采の蒯越だった。
「仁義と信義を以って臨めば、人は悟るもの。賊として生きる不利を説けば、必ずや劉表さまに服従するでしょう」
「うむ」
「戦のない土地という風評が、更に多くの学者をこの荊州に招くことになりますな」
「いかにも」
「左様」
「正しく」
蒯越は莞爾とした笑みを劉表に返すと、劉先、韓嵩、傅巽の三名士も賛同した。
その学者たちが朝廷に高位の官職へと推挙するであろう。これが劉表の魂胆だった。
そして、四賢に劉表の命が下ると、蒯越と韓嵩は江夏衆、劉先と傅巽が錦帆賊の説得へと向かった。
二賊の痕跡を辿るのは容易だった。
劉表の差配により、四賢には荊州の情報が具に伝わるようになっていた。
荊州内の各地に拠点があった江夏衆は、随県の近くで兵を集めている。その中に頭領の張虎と陳生もいるらしかった。
数日を掛け、蒯越と韓嵩は随県に至った。
結髪に濃緑の巾を掛けた夥しい数の江夏衆が、原野で野営をしている。その群れはどこか殺気立ち、纏った袍衣はどれも薄汚れていた。
「荊州の牧、劉表さまの使者として襄陽から参った蒯越と韓嵩である。張虎どのと陳生どのにお目通り願いたい」
痩せこけた賊徒のような兵に訪ないを入れると、暫くして濃緑の戦袍を肩脱いだ張虎と、痩身に長い濃緑の戦袍を羽織った陳生が現れた。二人とも疲労感が滲み出ているが、瞳に灯った反抗の火は、依然として消えていないようだった。
「これはこれは、お珍しい」
「蒯越と韓嵩か。四賢の二人が、どうしたってんだ?」
韓嵩と蒯越は、視界一帯に広がる濃緑の群れを見渡した。
「これだけの同胞を養うのも、さぞかし難儀なことでしょう」
「拠る土地もなければ、後ろ盾もない。劉表さまが本腰を入れれば、江夏衆を鎮圧するのは造作もないこと」
「何が言いてえ? わざわざ降伏を勧めに来たってのか?」
憤った張虎を宥めるように、韓嵩は柔らかに微笑んだ。
「まあまあ、落ち着きなさい、張虎どの。こちらの話は、此処からでございます」
「劉表さまは、これまでのことは水に流しても良いと申しております。そして……」
蒯越は張虎と陳生を見比べるようにした。
「江夏衆を劉表軍の兵として、張虎どのと陳生どのは、将として迎え入れたい――と」
陳生は、張虎を誘って蒯越と韓嵩に背を向けると、ひそと耳語した。
「悪い話ではない。同胞の糧食を心配する必要もなく、我らも将となれる」
不気味な笑みを浮かべた張虎と陳生は、四賢の二人に向き直ると拱手した。
「心得た。この張虎と陳生、今より劉表の将となってやろう」
蒯越と韓嵩も拱手すると、その眼を細めた。
一方、甘寧を頭領とする錦帆賊は、介象と胡綜を渡河させた後、そのまま淮水を遡上、荊州江夏郡の漢津まで移動していた。
シャンシャン――。
総出で船の手入れをしていた錦帆賊の輩は、どれも文様のような刺繍を施した戦袍を纏い、豪奢な出で立ちである。
「傅巽どの、私は鈴の音が嫌いでしてね。鈴の音を聞くだけで、悍ましさを覚える」
「私もでございますよ、劉先どの」
容易に錦帆賊の居所を突き止めると、襄陽を発った劉先と傅巽は、漢津に辿り着いた。
「荊州牧、劉表さまの使者、劉先と傅巽である。甘寧どのと話がしたい」
作業をしている錦帆賊の輩に、劉先が声を張り上げ訪ないを入れた。
「俺だよ」
はっとした劉先と傅巽が声のした方に振り返ると、そこには馬の背に仰向けとなり、両腕を頭の下に敷いている甘寧の姿があった。
作業中の無頼漢たちも珍客の来訪に気付くと、その手を止めて成り行きを見守った。
「四賢が俺に何の用だ?」
甘寧は眼を瞑り、寝そべったままである。
「劉表さまは、錦帆賊を迎え入れる用意がある。これまでのことは互いに不問とし、共に荊州を安寧に導こうではないか」
劉先と傅巽が馬上の甘寧に拱手した。
「劉表? あの能なしの爺がそう言ってんのか?」
「そう申しておることは確かでござる。加えて、甘寧どのを将にするとも申しておりまする」
丸い躰の傅巽が、愛想笑いを浮かべている。
「錦帆賊には、劉表を迎え入れる用意があるのか? ――の間違いじゃねえか?」
「――――⁉」
「あっははは‼ お頭、よく言ったぜ‼」
錦帆賊の無頼漢たちは、挙って嘲笑した。
「俺たちは流れ者だ。いつまでも荊州に留まるつもりはねえ。それに、俺たちは劉表に喧嘩を売った憶えはないぜ。いつも吹っかけて来るのは、お前らの方だ」
「甘寧どのよ、人には守るべき五つの道があろうぞ。父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信でござる。お主にはその中の長幼の序が欠けておる。どのようなことがあれ、年少者は年配者を敬うことこそ正道なり!」
劉先は右手を突き出すと、左手を背に隠すようにして諄々(じゅんじゅん)と得意げに説いてみせた。
「うるせえよ。さっさと帰れ。昼寝の邪魔すんな。殺すぞ」
「――――⁉」
「あっははは‼ お頭、そりゃあ、ちと可哀想だぜ‼」
無頼漢たちは、腹を抱えるようにして再び嘲笑した。
劉先と傅巽は、屈辱と怒りで見る見るうちに面を朱にした。
「我らを辱しめおって!」
「後悔しても知らぬぞ!」
劉先と傅巽は踵を返すと、怒り心頭の体でその場から足早に去って行った。
「劉表ごときが、俺たちを使い熟せる訳ねえだろ!」
「一昨日来やがれ!」
錦帆賊の呶号が、劉先と傅巽の背に飛んでいた。
「必ずや後悔させてやる」
「実にも」
劉先と傅巽は、地団駄を踏むようにして帰還の途に着いた。