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胡綜の嘆願

「だ、大丈夫でございますよ。見付けるのが方士でもなければ、大事には至りませぬ」

「これは、全土を渡り歩かねばならぬか」

 深刻な調子の介象かいしょうに、于吉うきつかたくなにこばんだ。

「私は、断じて探しになんぞ参りませぬぞ」

 于吉は介象と元緒げんしょに背を向けると、遠い水平線へ眼を遣り、続けた。


「私はこの地方で何十年も民を救って参りました。今日まで、介象さまと元緒さまのお教えどおり、尊敬され、感謝される方士を目指し、方術の鍛錬たんれんも怠りませんでした。それが、あの呉の領主の仕打ちは何ですか?」

 于吉の横顔が、に照らされている。目尻が光って見えた。

「私には、方術で人民をたぶらかし、天下を獲ろうなどという野心は毛頭ございませぬ。それを領民の前で首をねるなど、孫策そんさくの方こそ野蛮やばん極まりない。金輪際こんりんざい、孫家のやからは頼まれてもたすけませぬ!」


 介象は、于吉の背に向かって語った。

「その孫策は死んだ。あれは、方術によるものだ。お前も気付いていたろう」

「……呉の将兵は、私が孫策をあやめたと思っていることでしょう」

 水平線に眼を向けた于吉は、さびしげだった。

「して、于吉よ、お主はこれからどうするつもりじゃ?」

 元緒が問い掛けた。


「長い間、この地で精進して参りましたので、愛着はございます。しかし、一所ひとところでの長居ながいは利がないと悟りました。私も旅をしながら各地をめぐることにいたします」

 于吉は振り返ると、力なく笑った。

「それで舟を修繕しておったか」

「まずは、海を渡り、遼東りょうとうでも目指そうかと」

「慣れぬことはせぬ方がよいぞ」

 元緒は、からからと笑った。

 すると、その折――。


 遠方から旅装した者がひとり、此方こちらへ向かって駈けてきた。

 次第に近づいてくると、青年であることが見て取れた。息せき切って駈け寄って来た長身の若者は、ほうこそ汚れていたが、儒生じゅせいの如く澄んだ瞳で尋ねた。

「失礼をつかまつる。拙者せっしゃは、呉の孫権そんけんに仕える胡綜こそうという者」

 胡綜は、まじまじと介象と元緒を見比べながら続けた。

「肩に奇妙な亀、そして、この風貌ふうぼう、方士の介象さまとお見受けしたが……」

如何いかにも」

「ああ! やっと見付けた!」


 介象が応じると、胡綜は疲れきった表情を浮かべ、腰から砂地にへたり込んだ。

 介象と于吉が、懐疑かいぎの眼を胡綜へ向けている。

 胡綜は、はっとして勢いよく佇立ちょりつすると、介象に拱手きょうしゅして述べた。

「方士、介象さま。ゆえあって、お頼みしたきがございます。どうか拙者とあるじの居城までご同行願いたく」

 若者の胡綜は、深刻な表情を浮かべて言った。


 察しが付いたように、介象と元緒、そして、于吉が互いの顔を見比べた。

「お主はどうする?」

 介象は、于吉に向き直って聞いた。

「私は手伝いませぬ。何せ、旅の支度したくで忙しいですから」

 そう言うと、于吉はそそくさと舟の修繕に戻った。

「止めておけ、介象。我らが浮世に関わるは、我らに関与した者の命運をも狂わせることになるやもしれぬのだぞ」

 肩から元緒が早口でささやいていた。


 しかし、介象は、新たな呉の領主に興味があった。いつの時代も呉の地をべる者に注目していた。

 ふと、介象は胡綜の手に眼を遣った。胡綜の左手には、小さな肉刺まめがあった。弓使いにできるそれだった。

 世間では、呉に尚武しょうぶの気風ありとうたわれていた。眼前の胡綜からも、それはあながち間違いではないことが見て取れた。

 介象は、腰にびた三振りの剣に手を添えた。かちりと、それぞれのつばが触れ合った。


 介象の面貌めんぼうに、不敵な笑みが浮かんだ。

「何やら、おもしろそうだな」

 いつもこうだった。元緒は項垂うなだれるとあきらめた。

「わ、我が主にお会いいただけるのですね⁉ 良かったあ」

 安堵あんどで一気に疲労が襲ってきた胡綜は、再び砂地へ腰から落ちた。

随分ずいぶんと疲れているようだな? これから曲阿きょくあに戻らねばなるまいに」

 胡綜の顔をのぞきこむようにして、介象がしゃがみこんだ。


「道行く人に尋ねては、昼夜問わず各地を行き来しておりました故、少々疲労が蓄積した次第。しかし、我が主の喜ぶ顔が見られるとあらば、これくらい何ともござらぬ」

 健気けなげにも胡綜は、笑みを浮かべていた。

 介象はすっくと立ち上がると、舟の修繕にいそしむ于吉に向き直った。

「邪魔をしたな。また会おう」

 于吉は顔も向けず、ぞんざいに手を振り返した。

 介象はそれに笑みで応えると、左手で胡綜のかいなを持ち上げるようにして立たせた。

「元緒よ、しっかり掴まっておれ」

 返答の代わりに、肩を力強く掴まれた。

 胡綜は、依然として疲労困憊ひろうこんぱいていだった。

 介象は、中指に人差指を重ね立てた右手を眼前に構え、唱えた。


縮地しゅくち――」


 介象と元緒、そして、胡綜の姿が消えていた。

「相変わらず、見事に術を使いこなす。再び研鑽けんさんし、長く霊気を練らねば、あのような術すら使えまい」

 舟からひょっこり顔を出した于吉は、介象が方術を駆使して去るのを見送っていた。

「そういえば、草庵そうあんに霊気を込めた護符ごふがあったな」

 于吉はひとちながら額の汗をぬぐうと、再び舟の修繕に専念した。


 砂穴から出てきたのは、先ほどとは違う小さなかにだった。

 優しい波が、規則的に浜へ寄せていた。



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