介象と元緒
周囲は見慣れた景色である。曲阿の城、その市街の広場だった。
「こ、此処は……?」
胡綜は、慌てた様子で辺りを見渡した。
「曲阿だ」
平然と言った介象に、胡綜はさらに動揺した。先刻まで、毘陵の海辺にいた筈である。
しかし、今は曲阿にいる。それも尋ね人の介象まで伴っていた。
胡綜は先ほどまでの疲労も忘れ、眉を顰めずにはいられなかった。
「縮地の術を使った」
「縮地の術――?」
胡綜は、介象に鸚鵡返した。
「訪れたことのある地であれば、その地を思念しただけで、瞬時に移動できる術じゃ」
介象の肩に鎮座した元緒が、銅鑼のような声音で言った。
胡綜は声を詰まらせ、眼を円くした。
「亀が、喋った……⁉」
「儂は亀ではない。方士の元緒じゃ。術で亀に姿を変えておるだけじゃ」
「方士の……元緒……さま」
「儂は、この介象の師じゃぞ。もっと敬わぬか」
「…………」
胡綜は、事態が飲み込めないでいた。頭の中で整理すると、それは凄いことだった。
主である孫権の命により、方士の介象を探しに、曲阿より東に位置する毘陵県へと向かった。僅かな手掛かりも見逃すまいと、馬での移動ではなく徒歩での移動を選んだ。人から人へ介象の目撃証言を聞き取り、何日も掛けてその足取りを追った。
行き着いたのは毘陵県の遥か東、静かな浜辺にその方士はいた。
風貌は侠客――。
腰に三振りの剣を佩び、肩には奇妙な亀を乗せている。肩まで伸びた黒髪に、漆黒の襤褸を纏っていた。
その方士は、呉の領主、孫権に見えることを是とした。
そして――。
「も、もう曲阿に戻っているのですか――⁉」
「縮地の術を使った」
介象は、繰り返して言った己がおかしくなり、呵々と笑った。
胡綜の瞳は輝いていた。すっかり疲労が消し飛んだ胡綜は、期待に胸が躍った。
「直ちに孫権さまへお目通りを請いましょう!」
胡綜は、介象と元緒を伴い、勇んで曲阿の城、その城門を潜ろうとした。
二人の門兵に行く手を阻まれた胡綜は、何やら事情を説明している。
すると、門兵のひとりが駈け足で城内に入って行った。間もなく、門兵が胡綜の許まで駈け戻ると、振り返った胡綜に笑みが浮かんだ。
「孫権さまは、直ぐにでもお会いしたいとのこと。さあ、参りましょう!」
介象は、胡綜に誘われるように城内へ入った。
気の逸る胡綜の足取りは軽く、ずんずん先へ進んでゆく。文官、武官問わず、擦れ違う者は皆その足を止め、胡綜と介象を交互に見遣った。
通された一室は、君主の間だった。
槍の鉾先を天井に向けた左右十人ほどの閲兵が、整然と部屋の両端に佇立している。
正面に向かって右側には、冷めた眼光を放った桑年の将が立ち、左側には、巨軀の将が品定めでもするように、腕組みして介象を睨みつけている。
「ほう」
歩を止め、感嘆の声を漏らしたのは、介象だった。その双眼は、中央に端座しているひとりの若者に向けられている。
碧眼であるだけではない。口が大きい分、顎が広い。異相といえば異相だったが、年齢には相応しくない威風堂々たる風格は、人傑であることを告げていた。
「王となるに違わぬ品格。この地からこれほどの逸材が出るのは久方振りじゃなあ」
介象の肩から、元緒が小声で言った。
胡綜は、上座の孫権に拝跪した。
「この者が方士、介象さまでございます」
「無礼は承知だが、佩剣をご容赦願いたい。我らが呉は、方士たる者に信を置いていない。不自然な動作は術を施すものと見なし、貴殿に刃を向けることになる」
警告したのは、右に端座した程普だった。冷ややかな眼光が介象に向けられている。
その程普の言動を制して、孫権は介象を迎えるように座を立ち拱手した。
「殿――!」
左から、韓当が弾かれたように立ち上がると、孫権の前に身を寄せるべく歩を進めた。
「微かに潮の香りがします」
孫権は、介象に微笑んだ。
「呉の領主、孫権です。介象さま、よくぞ参られました。貴殿をお呼び立てしたのはほかでもない。どうか我が頼み、聞き届けられたし」
孫権が頭を垂れると、韓当は二の足を踏んだ。
介象は微動もせず、孫権を見遣った。
「頼みとは?」
「事の次第は存じておりましょう。于吉に四散させられし八刀剣、これを探し出してもらいたい」
「合格までは、遠いようだのう」
銅鑼のような声音を放った亀の元緒に、孫権は眼を見開いて驚いた。
「亀が、喋った……⁉」
「何と――‼」
歴戦の将である程普と韓当でさえも息を飲み、居合わせた閲兵たちも、天井に向けた槍の鉾先が揺れるほど騒めいた。
「恐れ多いぞ。儂は、介象の師で方士の元緒じゃ。術で姿を亀に変えておる」
「方士の……元緒……さま」
孫権は瞳を輝かせ、介象の肩に掴まる奇妙な亀をまじまじと見遣ると、嬉々として再び拱手した。
「これはこれは、介象さまのお師匠さまでありましたか。気付きもせず、大変失礼いたしました。どうか元緒さまも、我が頼みに一役買っていただけないものでしょうか?」
「好い好い」
孫権の振る舞いに気を良くした元緒は、介象へ居丈高に指示した。
「では、介象、見せてやるがよい」
やれやれ顔の介象は、孫権に手を差し伸べた。




