八月十三日(木)-2
「だからっ、俺はもう一度ちゃんと話をしたくて、」
「話って何の?」
「えっ、そりゃあ、あの、謝りたい事もあるし」
「秋山君が謝る事なんて無いわよ?」
「………これからどうするかも聞いてないし」
「どうって、何の事?」
「……………………今これ、どこに向かってんだ?」
「どこって、私は塾が終わって帰るんだから、駅よ」
決まってるじゃない、とまるで俺が何か気のきいた冗談でも言ったかのように、安芸はくすくすとおかしそうに笑う。それはやっぱり、教室で見て来たクラスメイトの安芸で。分かっていたはずなのにここまで彼女は強情なのか、と思わず頭を抱えたくなった。
静かな微笑を浮かべる彼女は、長い髪をなびかせて住宅街を颯爽と歩く。雨でも降るのか、じっとりとした気持ち悪い空気が肌に纏わりつくのに、彼女の横顔はまるでそんな様子を滲ませない。ただ、不自然にならない程度に俺と目を合わせずに、前を向いて歩みを進める。
住宅街で人通りが少ないとはいえ、擦れ違う人達に俺達はどう映るのだろう。とりあえず、俺自身は相当情けない男に見えていると思う。
見事に夏休みが始まってからの数週間を無かった事にされ、あまりの徹底したスルーっぷりに恐る恐るでしか安芸に話しかけられないでいた。それも全て、簡単にあしらわれてしまっているが。
「親父さんの監視は、今はどうしてんだ?」
「………お父さんがどうかしたの?」
苦心しながらも直接的な物言いで問いかけてみれば、ようやく目ぼしい反応を取ってくれた。一瞬だが安芸の笑みは確かに強張って、返答が遅れた。わずかな事だが、今までのあしらわれようを思うと大きな一歩だ。
安芸は内心こんな所で何て事を言うんだ、と俺に殺意でも芽生えているだろうか。主に口封じ的な意味で。笑えない。
「や、そもそもすっぽかした俺が悪いんだし、こんな風に付きまとうのが迷惑なんだって事は分かってるけどさ。でも、何の説明も無いのは俺も納得いかないって」
「何の事かしら?」
安芸はあくまでとぼけた。しかし、口調に少し棘が出始めている。余裕が無くなってきたのかもしれない。
俺は駆け引きなんて出来ないタイプだ。そもそもそんな事が出来るほどの頭なんて持ってないし、要所を切り抜ける器用さも無い。だから、投げられるボールは一種類。混じりっ気ないストレートだけだ。
俺は安芸が見事に被っている夏休み以前の猫に対し、直球で切り込んだ。
「そうやって誤魔化すなら、俺は警察に行く」
安芸はぴたりと足を止める。
「警察行って、俺のクラスメイトが父親の殺害を目論んでます、って言う」
「………………………まだ起きてもない事件に警察が動く訳ないじゃない」
「それでも、おまえは大っぴらに動けなくなるよな。親父さん殺した後は確実に疑われるだろうし、万一事を起こす前に邪魔されたらおまえにとっちゃ最悪だろ」
この手段は直球だけど反則だ。何より父親への憎しみを優先している安芸にとって、あまりに有効過ぎる。安芸は俺をゆっくりと振り返って、顔は上げないまま瞳だけで睨みつけて来た。
髪の隙間から見える双眸が鋭く俺を射抜く。やはりこの直球は、過ぎるほどの効果を発揮したらしい。その目はようやく見つけた、俺の会いたかった安芸だ。
「………父の前にあなたを殺すわよ」
安芸は絞り出すように、声を潜めて低く言う。今視界に入る範囲に人はいないが、一応ここは住宅街なので他人に聞かれるのを警戒しているのだろう。
俺も彼女に倣って声量を落とす。
「やれるならやってみろよ。親父さん殺す前に俺の殺害容疑で逮捕される危険を冒せるなら」
これはハッタリだ。安芸なら、その程度の危険は平気で冒すかもしれない。何しろ尋常じゃない意思の強さを持つ危険人物だ。そして、それ以上に安芸の言葉にはいつも、どんな事さえ『本気さ』というものを感じるのだ。けして、冗談と笑い飛ばさせてくれない何かを。ああ、そういえば、冗談は嫌いなんだったか。
だから、俺は虚勢を張って彼女と対峙する。適当にその場の空気に流される事にだけ慣れた人生だ。今の安芸の緊迫さにさえ流されて、こちらも真剣な気になりきってみせてやる。
安芸は俺を睨んで、きつくきつく睨んで、それから大きな溜息をついた。体中の二酸化炭素が出尽くしてしまうんじゃないかと思ってしまうような、大きな溜息を。物凄く眉を寄せて、物凄く不愉快そうに吐いた。空気が一気に弛緩する。
「あなたがこんなにしつこい性格だなんて思わなかったわ」
それは安芸からの降参を示す言葉だった。呆れたようなその口調に緊張の解けた俺は、思わず笑みを浮かべる。彼女が俺のこのしつこさを見抜けなかったのは仕方の無い事だろう。そもそもここまで何かにこだわったのも、去年楓が足を壊したとき以外思い出せなかった。
そう思うと、安芸の物騒極まりない目的と楓のスポーツという健全な対象を並べるのは何だか楓に申し訳ない気がしたが、そこはまるで正反対なものだからこそ同じだけの感情を抱けた、という事で。
「んじゃあ、とりあえず……」
話をする為にどこか人気の無い所へ、と言いかけた所でぽつり。瞼の上に水滴が落ちた。と思ったらその一滴を皮切りに、バケツをひっくり返したような雨が降り出した。
気付いてはいたのだ。緊迫した空気の中、ほとんど睨み合うように安芸を見返していた為に、空気を読んで意識しないように心がけていただけで。雲がどんどん厚くなっていく空に、毎年のこの季節独特の感覚で夕立がくるのは何となく察していた。
大粒の雨の中、鞄の中身が濡れないようになのだろう、慌てて鞄を肩から胸の前に持ち直した安芸の右手を引っ張って、駆け出した。
大雨でお互いの声さえ聞こえにくく、ほとんど怒鳴り合うようにして言葉を交わす。
「どこ行くの!」
「俺ん家!近いし何よりタオルがある!」
「行けないわよ!」
「何で!?」
「こんなずぶ濡れでお邪魔したら玄関でもたついて貴方の家族に見つかるでしょ!」
「あ…その事について一つ言い忘れ!美琴に見つかった!」
「美琴って誰よ!?」
「妹!」
「馬鹿!」
怒られた。俺だけが悪いのだろうか。見つかり方から考えると、お互いの不注意といった感じなのだが。
視界が悪くなるような激しい夕立の中、同じように雨宿り先を求める人と擦れ違いながら、ひたすらにマンションを目指す。安芸は反論しながらも大人しく腕を引かれていたが、ローヒールでも雨の中でサンダルは走りにくそうだった。俺のスニーカーも水を吸って、その生温さが気持ち悪い。
今日は本当に散々だ。炎天下の中で何時間も安芸を待って、それなのに夏休みの数週間ごとすっとぼけられて、ようやく話をしてくれる感じになってこの夕立だ。間が悪い。そりゃもう、ちょっと笑えるくらい。
「………はっ」
そう思うと、何だか本気で笑えて来た。俺、無茶苦茶格好悪い。けれど、最近ではつんと澄ました顔ばかり見ていた安芸もずぶ濡れで、彼女もなかなかに格好悪い。それでも、雨の中で怒鳴るなんて冷笑なんかより余程とっつきやすくて、何だろう。良い感じだ。
意地を張った甲斐があった、しつこいのもたまにはアリだな、とそう思えるくらいには。
「じゃあ非常階段!あそこなら誰も使ってないしタオル取ってきてやる!走れ安芸!」
言われなくても走ってる!と鬱陶しい雨を蹴散らすように怒鳴る安芸を引っ張って、速く、速くマンションを目指す。田舎町の住宅街の中では目立つ十階建てのマンションは、もうすぐそこだった。
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