表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
14/23

八月十二日(水)―2


俺が結城雅臣先輩の存在を知ったのは、中学三年生の時だった。

おそらく結城先輩の方は俺までその頃から知っていた、なんて露ほども思っていないだろう。インターハイの見学から帰って来た楓に憧れの人が出来た!と報告され、オープンキャンパスでの部活動見学のときにあの人、とこっそり彼女に教えられてこりゃ憧れても仕方ない、と思ったのをよく覚えている。幼馴染は意外と面食いだったと知った瞬間だった。


ストーカーにならないように気を付けろ、と忠告して背中を殴られたのも今では良い思い出……………だったら良いなぁ、と思っている。


当時の楓は結城先輩の事を異性としてというより、『陸上の先輩』として憧れていた様子だったので、ふと考えてみると、今二人が付き合っているのは何だか不思議な事のように思えた。

しかし、やはり男女(しかも相手はスーパーマンなイケメン)の事なので、楓も全く何も思っていなかったという事は無いのだろうが。


「すいません、ウチ麦茶しかなくて…」

「ああ、お構いなく」


結城先輩は男の俺にもまるで惜しむ事無く爽やかな笑みを向け、片手を上げて制した。

今、俺は何故か結城先輩を自宅のリビングに通し、何故か慌ててクーラーの電源を入れ、何故か二人分の麦茶を用意していた。


楓を訪ねて来た結城先輩と鉢合わせした俺は、当たり障りの無い挨拶を交わして足早にその場を去ろうとしたのだが、インターフォンを鳴らした真野家からは何の反応も帰って来なかった為、思わず足を止めてしまった。どうやら楓を含め、お隣さんは全員出掛けていたらしい。俺と結城先輩の間には微妙に気まずい沈黙が流れ、俺は思わず言ってしまったのだ。『楓が帰るまでウチで待ちますか?』と。


そんな訳で、現在自宅のリビングで非常に気まずい思いをしていた。そりゃあもう、空腹感さえ忘れるほどの。先輩は俺のような気まずさなどまるで感じていないのか、どこか楽しげに室内を見渡している。


「やっぱり、楓の家と間取りは一緒なんだね」

「まあ、同じマンションですから。ポテチ食べます?」

「いただきます」


両手を合わせ、おどけた調子で食べる旨を伝えて来る。何度か話した事も有り、人当たりの良い人物だという事は知っていたが、中学生の頃から何の部活動にも所属していなかった俺は『先輩』という人種との接し方がいまいち分からず、どうしても結城先輩と話すときは変に緊張してしまう。


俺はそんな緊張を誤魔化すように、先輩の前とその向かいに麦茶の入ったグラスを置いて、向かいの椅子に腰掛ける。その際、話題を求めて目が泳いでしまったのはどうか見逃して欲しい。


「楓の奴、先輩待たせてどこ行ってんですかね…」


そして、思いつく共通の話題はやはり楓だけだった。そもそもこの気まずい空気は楓が家に不在だった為に生まれたもので、そう思うと彼女が少々憎らしい。もっとも、楓本人はまさか結城先輩が俺の家で麦茶を飲んでいる状況なんて、想像もしていないだろうけど。

結城先輩は苦笑して首を横に振った。


「違うよ、俺がアポも無しに急に訪ねたんだ。さっきメールしたら友達と会ってて、一時間もすれば戻るってさ」


という事はもしや、この気まずさは一時間続くのだろうか。


「だから、待つのは俺の勝手。むしろ、友達と会ってたなら悪い事したかな」

「……楓は、先輩と会えるならどんなときでも喜びそうですけど」

「そうかな?それなら嬉しいな。優しいね、君は」


眩い先輩の笑顔と共に送られた言葉がむず痒い。俺みたいなだらけた人種は、これだけ真正面から好意的な評価を受ける事に慣れていない。また、そんなあからさまな褒め言葉を口にして全く嫌味にならないのは、この人の人徳って奴だろうか。


「でも、どうして事前に連絡しとかなかったんですか?」


連絡しておけば、こんな風に行き違いになる事も無かっただろうに。そんな俺の心情を察したのか、先輩は困ったような表情を浮かべる。


「まあ、そうだね…確証の無い事だったから、俺もここに来るまで迷っててさ」


訪ねずに帰ろうかなとも思ったんだけど、と続けながら先輩はグラスを持ち上げて、中で揺れる氷へ視線を落とす。氷はその拍子に音を立てて崩れ、その音とその仕草が何だか妙に似合っていた。美形は何をしても似合うんだから、と心の中で茶化して自分を慰めようとしたが、余計に虚しくなるだけに終わった。


「昨日久しぶりにゆっくり会ったんだけど、何だか様子がおかしかったから。何かあったのかな、って思って。で、考えてみると一昨日に街中でばったり会ったときからおかしかった気がして、気になっちゃってね」


俺は大袈裟かもしれないが、唖然とした。さすがスーパーマンは格が違う、と改めて思う。

一昨日、楓は確かに街中で結城先輩が女性といた事に嫉妬していた。けれど、楓はそんな自分を醜いと思っていたから、きっと昨日会った時もそんな感情をひた隠しにしたはずだ。それでも、そんな楓からわずかな異変を感じ取ってこうして訪ねて来るとは…………これか。これが、美琴が俺に対して散々無いと繰り返す『甲斐性』というやつか。


………………その『甲斐性』ってやつがあれば、例の安芸との一件も、もっと清々しい気持ちで受け入れられたのだろうか。


「えっと、秋山君?」

「はい」

「秋山君は、何か聞いてる?」


その何気ない問いに対して、俺はあからさまに固まる。


「えーっと………」


聞いているか聞いていないか、という二択なら思い切り聞いている。何があって、それに対して楓がどう思ったかまで余すとこなく。けれど、それを俺が言う訳にはいかないだろう。

だからと言って、俺に上手く誤魔化してこの場を切り抜ける器用さがあるはずもなく、視線をぐるぐるとさ迷わせて開く訳にいかない口をもごつかせていると、そんな動揺が伝わったのだろう。結城先輩は苦笑していた。


「ごめんごめん。困らせるつもりじゃなかったんだ。無理に言えとは言わないよ」

「えーっと…すみません」

「あはは、大丈夫。秋山君から聞き出すような真似、きっと楓は嫌がるよね。分かってるんだよ」


だけど、と結城先輩は塩味のポテトチップスを一枚口に入れて、味わって、飲み込んで。それでようやく言葉を繋いだ。それはどこか困ったような表情だった。


「ちょっと不安にはなるかな。楓は俺に何も言ってくれないから。嫌な事とか、哀しい事とか」

「それは先輩を好きだからっ……あの、だから、言えなくなってるだけなんすよ?嫌われたく無くて」


俺は焦って早口にそう言った。ちょっと身を乗り出してしまったかもしれない。

けれど、それだけは断言できた。俺は、楓が本当に結城先輩を好きなのを知っている。もしかしたら、本人に伝える場合の照れなどが無い分、普段から聞かされている惚気で結城先輩以上に知っているかもしれない。


結城先輩はそんな俺に対し、やっぱり困ったような、けれどどこか明るいものを含ませて、肩をすくめるようにして笑った。

まるで、出来の悪い子供を仕方が無いなぁ、と笑って受け入れるように。


「知ってる」


それを見て、俺が感じたのは安堵だった。自分でも何故だか分からないけれど、結城先輩のその顔を見て、本当に楓を好きでいてくれているんだ、と理屈じゃないところで納得した。不思議なくらい確信的に。

そして、同時に俺にとって楓は大事だけれど、やはりこの気持ちは恋ではなく幼馴染へ向けたものなのだと、ようやく分かった。


だって俺は今、心から安堵出来たから。結城先輩の影響を受けて、例えば髪とか、変わっていく彼女に確かに不安は覚えたけれど、それでも安心出来たから。楓が好きな人に、好かれている事を素直に喜べた。それは、彼女の事を異性としてではなく、姉のように妹のように接して過ごしてきたこれまでがあったからだと思う。


不意に思い出すのはちょうど一年ほど前になる、夏の暑い日。楓は足を壊した。

中学のときから陸上を生活の真ん中に置いていた彼女は、インターハイを目前に控えていた。俺には詳しい話を聞く勇気が無く、未だに彼女の足がどういう事になってしまったのかは分からないけれど、一つだけ確かだった事は、楓はそれ以来陸上を続ける事が出来なくなった。


普通に歩く事は出来る。完治すれば走る事も問題は無い。しかし、それまでのように陸上選手として走る事はもう無理だろう、と言われたらしい。


それでも楓は笑っていた。仕方ないよ、と軽快に笑っていた。どう見ても空笑いだった。無理するなよ、と言えば無理なんてしてないよ、と言った。その夏の最高気温を記録した暑い日に、彼女は汗を沢山かいていたけれど、それ以外で水分を消費しなかった。乾いた笑顔で、俺が責めるように無理するなと訴えても、楓は泣かなかった。


その次の日の夕方になって、楓は退部届を出しに行く、と家を出た。会えば他の部員に気を使わせるから、と彼女は部活が終わる頃を見計らって学校へ向かった。

それからすぐに空は厚い雲に覆われ、夕立になった。俺は先日の言い合いで気まずさを感じていたけれど、言いようの無い不安を持て余して、傘を持って迎えに行った。数えるほどしか行った事の無い部室棟の回りで右往左往しながら陸上部の部室を探していたら、この雨の中で少し開いている扉があった。古ぼけた表札は、そここそが陸上部の部室であると告げていた。


その室内を覗き込んで、俺はようやく雨音に交ざって悲鳴のような声が聞こえる事に気付いた。陸上部の部室内で、楓が泣いていた。小さな子供以上に大きな声を上げて、叫んでいた。『走りたい』と悲鳴の合間に聞こえた。走りたい、走りたいと泣き叫ぶ彼女を慰めていたのは結城先輩だった。


そのとき感じたのも、安堵だった。俺の前で無理をしても、楓には他に泣く場所があるから大丈夫だ、と安心した。気を使わせる事で傷付けたという後悔と、自分勝手な話だが何だか置いて行かれたような寂しさはあったけれど、それでもこれで少しでも幼馴染の気持ちが晴れるように、と願った。楓はもう今までのように走れないけれど、走れなくてもまた溌剌とした顔で笑って欲しかったから。


俺は傘をドアノブに引っかけ声を掛けずにその場を去って、後から訪ねてきた楓は笑っていた。乾いたものじゃない、赤い目でどこか照れ臭そうに『心配掛けてごめんね、私はもう大丈夫だから』と笑った。その笑顔は信じられた。


時間が経ってそのときの気持ちを忘れていたから迷ってしまったけれど、その事があって当時すでに楓が結城先輩に恋をしていたのを知っていた俺は、心から応援したのだった。結城先輩は大事な幼馴染を幸せにしてくれる人だと思った。

まあ、たまに感じる不安や寂しさは離れて行く女兄弟に抱くものとして順当だ、という事で。


「結城先輩、すみませんでした」

「えっ、急にどうしたの?」


突然の謝罪の言葉と共に頭を下げた俺に、結城先輩は戸惑いの声を上げる。いくらスーパーマンでも、流石に状況を掴めないのだろう。だから、もう一度心の中で謝罪する。


すげぇ良い人なのに、一昨日殴ろうとしてすみません。


俺も楓が信じている結城先輩の事をもっと信じるべきだった。俺の大事な幼馴染を大事にしてくれる人なのだから。

もう、今なら卑屈も全部引っ込めて、素直に先輩の整い過ぎているご尊顔を心から褒められる。爽やかな目元の、夏の太陽さえ完敗するだろう輝きを放つキラキラとした笑顔。きっと吸血鬼が結城先輩の笑顔を視界に入れれば、わざわざ太陽の光を浴びずとも灰になる。そんな凄い人だ。見た目以上にその中身は、更に。


瞬く間に結城先輩に対し尊敬の念を抱いた俺は、気になったら即行動、というフットワークの軽さも見習おう、と思った。由井が『好き』という感情をスイッチに例えていたが、それは何も恋愛だけでは無いと思う。少なくとも俺にとっては。


俺は、誰に対してもそうだが、好意を持った相手の行動や考えを全面的に支持する傾向がある。これも意志薄弱が原因だろうが、良いと思った所を素直に見習うのは、悪い事だとは思わない。

安芸とちゃんと話をしよう。

謝るべき事をもう一度ちゃんと謝って、どうして急に協力はもう良いと言いだしたのかをちゃんと聞いて、俺は自分の考えを見つめ直して、その上でこれからどうするかを話し合おう。


きっとそうすれば、俺のこの妙な居心地の悪さも解消されるはずだ。

結城先輩は苦笑したまま、首を傾げた。


「んー、何かよく分からないけど、とりあえず顔上げよっか。君の妹さんらしき女の子が不思議そうにこちらを見てるから」


その言葉に、勢いよく顔を上げる。反射的に出入り口の方へ視線をやって、目が合ったのは先輩の予想通り俺の妹である秋山美琴。


結城先輩の『不思議そう』という表現はかなり柔らかいものだ。実際の美琴は怪訝そうというか、気味悪そうに俺を見ている。帰宅してリビングの扉を開け、自身の兄が見知らぬ人に頭を下げている姿を目撃すれば、その反応も分からないではないけれど。


とりあえず、美琴にはこの人こそスーパーな楓の彼氏だと紹介して、それから………この状況を何と説明すれば良いのだろう。俺は頭を抱えたくなった。




余談だが、美琴にはついに楓ちゃんの彼氏に誤解された、という誤解をされ、お客様(結城先輩)の前で危うく兄妹喧嘩に発展しかけた。それを諌めたのは結城先輩本人。しかも、下の子にそれも女の子にそんな物言いは良くない、と俺が怒られた。理不尽だと思ったが、尊敬している人に怒られると予想以上にその一言は大きく、ちょっとへこんだ。

結局俺は今日も兄妹喧嘩に敗北し、聞いていた一時間より少し早めに帰宅して俺の家を訪ねた楓は、美琴が小さな頃の俺達三人が写ったアルバムを結城先輩に見せている現場を目撃し、真っ赤になって悲鳴を上げたのだった。







読んでいただきありがとうございます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ