第36話 十歳児の日々 ~白銀の狩人
これまでの攻防で俺の魔力はごっそり減っていた。
もう多重詠唱は使えない。発動できても一度、それで形勢逆転は狙えない。
俺は二本の剣を構える。
背後を潰したおかげで警戒すべき方向は狭められた。それをさらに狭める。今のハンターフィッチは、こと速度に関しては紛れもない化け物だ。しかしそれが常に最大限の効果を発揮するとは限らない。全力疾走しているとき、ゆっくりとでも目の前に刃物が突き出されたらどうなるか。自暴自棄にでもなっていないかぎり、動きが鈍る。そのための二本。攻撃回数を減らし、行動範囲を狭めるための剣だ。
ハンターフィッチは測るように赤い目を細める。
途端、その輪郭が霞む。
甲犀の剣を袈裟斬りに振り下ろす。
何も捕らえず空を切り、右脇腹に衝撃が走る。
スティレットに硬い感触。痛みに構わずさらに押し込む。
不意に手応えが消失した。
距離を取り、体勢を立て直すハンターフィッチ。
その表情は再びの驚愕。
最初の賭けには勝ったか。
俺が速度についてこれないのはあいつも分かっている。ならば余計なフェイントはいれない。袈裟斬りに右手の剣を振り下ろせば、空いているのは左上か右下。重心の低さから最速で近づける右下を選ぶと読み、スティレットを懐に突き出した。
これでようやく一撃。
少しはいけると思ったが、ろくなダメージにならなかったようだ。感触から甲犀のスティレットは弾かれている。速度だけでなく、防御力まで跳ね上げるか。そりゃ自壊もするはずだ。
俺は悠然と構えつつ、気を引き締めた。
同じ手は通用しない。攻撃頻度は落とせたかもしれないが、次からはもっと警戒してくる。より凌ぎにくくなったな。
その懸念は的中する。
ハンターフィッチの動きは変則的となり、俺は無様に二本の剣を振り回すだけとなってしまう。白銀の影が縦横無尽に森を駆け、頭部と首筋、左胸だけを残し、俺の身体に爪痕を刻みつける。軽いはずの剣が重くなり、わずかな動作でも痛みが走った。
疲労か失血か。意識も怪しくなってくる。
それでも剣を振り続けた。
姿は見えない。だが、「見え」てもいた。
俺が血飛沫を飛ばすたび、相手も死へと近付いている。
そして到頭、動きが止まった。
俺を一睨みし、ハンターフィッチはゆっくりと距離を取る。
やっとか……。
互いに瀕死。もう選択肢は多くない。
来るな――全力の、最後の一撃。
剣とスティレットを構えた。
霧散しそうになる意識を掻き集め、集中する。
全力に余計な動きは不要。ただ真っ直ぐに突き進んでくる。
ハンターフィッチは低く身構え、消えた。
すぐさま甲犀のスティレットを投擲、弾かれる。
悪寒すら間に合わない。
後方に飛びながら甲犀の剣を振り下ろし、同時にマントの下の左手を押し出す。
剣は空を切り、背には巨木に激突した衝撃。
青藍のマントが、左手が貫かれる。
二秒にも満たない攻防。
静寂を破ったのは、ハンターフィッチの絶叫だった。
俺は心臓が動いているのを確かめ、ほっと胸を撫で下ろす。
左手に握った物を、鮮血とともに宙へ投げ捨てる。
「すまんな。人間ってのは、無駄に狡猾なんだ」
引き裂かれた皮袋から中身が溢れ出し、風に舞った。
懐から布を引っ張り出し、口と鼻を覆う。
あいつらなら持ってきていると思ったよ。
雪の大地に降り注ぐのは、赤銅色のクト・ピラプ。
ハンターフィッチはそれを浴び、鳴きながら雪の上をのたうち回った。
魔力に輝く白銀の毛皮が見る見るうちにしな垂れていく。
『白閃光華』の限界か。
なんとか凌ぎきったな……。
青藍のマントを斬りつけても即死は狙えない。だから全力の一撃は突き。狙いは最短距離で俺を絶命させられる急所、心臓を選ぶと思った。そして爪はマントを貫き、俺の左手ごと皮袋を突き破った。
最後の刺突は間違いなく、俺を殺せる一撃だった。
『深閑の剣』がクト・ピラプを取り出さなければどうなっていたか。拾ったと気付かせないための壁、巨木との距離、様々な要因のどれが欠けても、この結果には辿り着けなかっただろう。
ハンターフィッチはふらつく足で立ち上がり、構え直した。
まだやる気か。
確かに勝負が付いたとは言えないが、クト・ピラプの直撃を受けた今、鼻はおろか視界さえまともに機能していないはず。
それでも、ハンターフィッチは飛び掛かってきた。
爪を甲犀の剣で受け止める。軽い。
力任せに撥ね除けようとした刹那、不意に圧力が霧散、目の前で白い影がくるりと回転する。
尻尾!? まだ隠し玉があるのか!?
咄嗟に血だらけの左手を上げ、顔を守る。
その手にぽふりと、柔らかい感触が触れた。
何が――?
恐る恐る顔を上げ、呆然とした。
背を向け、森の奥へと駆けていくハンターフィッチ。
あまりにも見事な転進振りに、俺はただ、その場に座り込んでしまった。
◇◇◇◇
全身にヒーリングポーションを振りかけ、大雑把に治しつつ血糊を落とす。
特に左手の傷は深い。血は止まり穴も塞がっているが、肉は剥き出しのままだ。手持ちのポーションをすべて使うわけにはいかない。ハンターフィッチだけでなく、無数の魔物が蔓延る森。何が起きるか分からない。
剣を握ると痛みは走るが、充分振り回せる。今はこれで良い。
水袋から一口飲み、雪の森へ視線を送った。
ハンターフィッチは逃げた。死にかけているが魔物、殺さないかぎり回復する可能性が高い。そしてこの戦いで多くを学習させてしまった。最速の殺戮者として帰ってくるのは想像に難くない。俺がリードヴァルトを離れたら、誰があれを殺せるだろう。
瀕死のハンターフィッチなら簡単に追えるはずだ。雪には足跡が残っているし、木を伝っても血痕は隠せない。
行くか。
俺が動きかけたとき、背後に気配を感じた。
「帰ってなかったのか」
振り返り、問いかける。
ピドシオスが化け物を見るような目で、俺を見上げていた。
「逃げ切れる相手じゃない。仲間の回復と追ってきたときの準備をしていた」
「それは賢いな。ヒーリングポーションは足りたか? まだあるぞ」
「いや大丈夫だ。それより魔物は?」
「逃げたよ」
俺の言葉にピドシオスの緊張が解れた。死体がどこにもないので不安だったのだろう。
「なあ、あんた何者だ? 人間の子供だよな。ギルドでも何度か――いや、もっと最近……そうか、正門だ。門番と揉めていたな?」
やっぱり見られていたか。
「揉めてはいないが、質問は後だ。今はやることがある」
「やること?」
「追撃する」
ピドシオスは絶句した。
血糊は落とし切れていないし、エラス・ライノの革鎧はずたずた。全身が傷だらけなのは一目で分かる。ポーションで癒やしたとしても、それだけの激戦を繰り広げた直後だった。
しかし、向こうはもっと酷い。回復手段があるとは思えないから瀕死のまま。だからこそ、今を逃すわけにはいかない。
「一緒に行くか?」
ピドシオスは頬を硬直させ、後ずさりした。
微笑を返し、俺は走り出した。
レクノドの森の形を例えるなら、八の字のすぼまった部分に近い。
北へ進むと森は途切れ、東に一週間ほど進むとコージェス連合バロマット王国に到達する。では南はどこへ行くのか。
答えは、誰も知らない。森の幅はどこまでも広がっていき、八の字は深殿の森と呼ばれる人跡未踏の大森林に繋がっていた。アルシス帝国周辺で最も危険な地域である。
そんなことを思い返していたのは、東に続いていた血痕が少しずつ南に逸れ始めたからだ。
とはいえ、いくら何でも何十日もかかる大森林まで逃げたりはしないだろう。ねぐらはこの近くにあるはずだ。
痕跡を辿り、俺は雪の森を走り続けた。
日はだいぶ傾いているが、雪のおかげでそれほど暗さは感じない。できることなら完全に沈む前にケリをつけたい。ハンターフィッチは夜行性、闇は圧倒的に向こうが有利だ。
ほどなくして、俺は何かの気配を感じた。
ここまで深いと、どんな横やりがあってもおかしくない。
注意深く周囲を観察する。
気配は小さい。少なくとも大型の魔物ではなさそうだ。
茂みを揺らさないように掻い潜り、そっと窺う。
目の前は狭い広場になっていた。奥には樹齢数百年の巨木。
根元を見て、俺は息を殺した。
太い根が地面から張り出し、その狭い隙間に白い影が潜んでいる。
驚くほど気配が小さい。
死にかけているのか?
その瞬間、鋭い殺気を受け、振り向き様に剣を振るう。
聞き慣れた音を立て、白い影が雪に着地した。
「二匹目……?」
違う。今のがさっきまで殺し合っていたハンターフィッチだ。なら根元のやつは?
血まみれのハンターフィッチは荒い息を吐きながら、もう一体のそばに駆け寄っていく。
根元の方が顔を上げた。
黒目だった。こっちは通常種か。『鑑定』でも確認できる。なかなかの能力だが、この程度であれば『深閑の剣』なら余裕で対処できる。何より、こちらも手負いだった。
黒目の腹部を、矢が貫通していた。
二体のハンターフィッチが俺を睨み付ける。
一体は怯えながら、もう一体は殺意を込めて。
これまでの経緯が脳裏を過り、俺は眉を寄せた。
そういうことか……。
「お前は――仲間を守ろうとしていたんだな」
ゴードは狩人、そして『深閑の剣』で最初に攻撃されたのは、弓を持っていたダイラス。こいつは弓矢持ちを敵と認識し、襲撃していたんだ。もしかしたら黒目を射貫いたのは、行方不明の冒険者かもしれない。
どうすべきか。
ほぼ間違いなく、冒険者たちは変異種に殺されている。すでに死者が出ているのに、何を悩むことがあるのか。それにどちらも瀕死。今なら労せず仕留められる。それでこの騒動は終幕だ。
それでも、二体を前にすると逡巡してしまった。
思考を巡らすうち、俺は自らの発言を思い返す。
戦いの最中、俺は「楽しいか」と問いかけた。
返ってきたのは怒り。
仲間が死にかけている、楽しいはずがない。
心中のわだかまりを吹き飛ばすように、大きく呼気を吐いた。
何が正しいのか。そんな先のことを見通せるほど、俺は賢くはない。
未だ敵意を向ける赤目を、俺は見据えた。
「お前は『深閑の剣』が接近してきても、すぐには襲わなかった。自分たちの敵か見極めようとした。ただの殺戮者じゃない」
ヒーリングポーションを取り出して左手の傷に少しだけ掛けると、残りのポーションを変異種の足下に放り投げた。
黒目はビクッと身を竦ませ、変異種はわずかに飛び退く。
「言葉は分かるな? そいつは傷薬だ。まずは仲間の矢を引き抜け。貫通してるから、どちらかを切り落とすんだ。抜きやすくなる。そうしたらポーションをかけてやれ」
言いながら、左手の傷を見せる。
変異種は困惑したように俺とポーションを何度も見比べていたが、決心したのか黒目へ向き直った。
一閃。矢羽根が切り落とされる。
激痛に黒目が鳴いたが、変異種は一声鳴いて黙らすと、そのまま腹部に足をかけ、鏃を噛んで一気に引き抜いた。黒目は泣き喚いて暴れたが、変異種はびくともしない。どちらも弱り切っているのに、ここまで差があるのか。変異種ってのは本当に化け物だな。
俺が変なところに感心している間、変異種はポーションを咥え、黒目に振りかけた。
出血が止まり、ゆっくりと傷口が塞がっていく。
最初は騒いでいた黒目も、痛みが和らいでいくの感じたようで、きょとんとした表情を浮かべる。変異種はその背中や腹部に鼻を近づけ、本当に治っているのか確認した。
そういや魔物にヒーリングポーションが効果あるのか、聞いたこともないし調べたこともなかったな。ま、人間種も魔物も動物も、つまるところは生き物。効くに決まってるか。
俺は懐から目当ての物を取り出すと、変異種に向かって投げつけた。
風切り音に反応し、爪が煌めく。その途端、変異種はずぶ濡れになった。
「散々、切り刻んでくれたお返しだ」
変異種は自分の身体を見て驚いていた。
「今のもさっきのも、それほど強力なポーションじゃない。大きな傷は塞がっているが、無理をすれば開くぞ。それと勘違いするな。僕はお前の味方じゃない。冒険者には冒険者の、狩人には狩人の、魔物には魔物の生き方がある。冒険者が金を得るためお前の仲間を殺そうとし、殺された。今回の一件は、それぞれの生き方がぶつかり合ったに過ぎない。だからお前を否定しないし責めもしない。だが、僕にも生き方が――役割がある。今回は気紛れで治した。次は無いぞ。もし再びこの辺りの人間を襲うなら、いかなる事情があろうとも殺す。仲間にもよく言い聞かせておけ。忘れるな、白銀の狩人」
さて、これでこの騒動は本当に終わりだ。『深閑の剣』を拾って帰るとしよう。
あいつらにはどこまで話すかね。口裏合わせてもヘリット支部長には気付かれそうだし、こいつを軽く考えられても困るな。折角の苦労が台無しになる。
それと父には――黙っておこう。俺は素材の採取に来ただけだし、うん。
絶対ばれるだろうな、と重い足取りで立ち去ろうとしたとき、ふとネリオの知識が蘇った。
おい、ちょっと待て。
振り返り、変異種に目を合わせる。
「お前、もしかして――まだ子供なのか?」
小首を傾げる変異種に、苦い笑いが漏れた。
ハンターフィッチは群れを作らない。なら、こいつらは兄弟。おそらくは親離れした直後だ。スキルを使いこなせないのも当然だった。
まったく、子供同士の喧嘩であれか。
俺は後ろ手で軽く手を振り、今度こそ二体のハンターフィッチに別れを告げた。