14:00 覚醒する才能と、穏やかな絆
エルティスが放った強烈な魔力の余波と風圧が静まると、あんなに猛烈に吹き荒れていた雷雨が、まるで彼の気分と同調していたかのように嘘のようにピタリと降りやんだ。
分厚い灰色の雨雲が真っ二つに割れ、その隙間から真昼の眩しい太陽が差し込み、水たまりのできた石畳をキラキラと黄金色に照らし出している。
「ふう……本当に、嵐みたいなエルフだったな……」
「は、はい……。あんなに強い方、生まれて初めて見ました……」
時刻は午後2時を回ったところ。
俺の胸ポケットには、エルティスが強引にねじ込んでいったサブカードが収まっている。
複雑な紋章が刻み込まれたそれは、特級ギルドカードの副証――つまり、あの神域到達者が俺たちの『後ろ盾』になったという絶対的な証明だ。
その冷たくも重い感触を指先で確かめながら、俺とミアは深く、長い息を吐き出した。
致死性の猛毒が充満する腐死の沼地での死闘、そしてエルティスからの実力査定。アドレナリンのバフが完全に切れ、朝からずっと張り詰めていた緊張の糸が緩んだことで、急激に身体の奥から疲労感がどっと押し寄せてくるのを感じる。
俺たちはひとまず休息を求めて、ギルドの裏手から宿屋へと続く道を歩き始めた。
雨上がりの街は、湿った土と建物のレンガの匂いが立ち込めている。水たまりを避けながら歩く俺の足取りは、鉛のように重かった。
指先が微かに震え、息をするのすら億劫に感じる。
だが、ふと隣を歩くミアを見ると、彼女も確かに疲れた顔はしているものの、俺ほど極端に消耗しているようには見えなかった。
(あれだけの運動量と緊張を乗り越えたのに、この程度の疲労で済んでいるのか?)
俺の脳裏に、先ほどの訓練場での光景が何度もフラッシュバックする。
(あのスピードと威力は、アドレナリンによる筋肉のリミッター解除と、俺たち二人の間で発動した『相互作用』だけが原因だったのか……?)
相互作用自体もろくな説明を受けていないので、どのような条件で発動して、どんな効果があるのかまだ分かっていない。
でも、今はまずミアの現状の身体能力の把握をしたい。
疑問をどうしても確かめたくなった俺は、宿屋の少し手前にある、人通りの少ない路地裏の開けた場所で足を止めた。
「なあ、ミア。疲れているところ悪いんだが……もう一度軽く素振りで見せてもらえるか?」
「えっ? はいっ、わかりました!」
ミアは嫌な顔一つせず素直に頷くと、安い鉄製のショートソードに手をかけ、スッと腰を落とした。
剣を握ったこともないはずの彼女の構えには、一切の無駄がなかった。背筋が伸び、重心がピタリと安定している。そして、軽く地面を踏み込んだ。
――ヒュンッ!
速っ。
いま、俺は彼女にアドレナリンのバフをかけていない。
薬効はほとんど切れ、素の状態だ。疲労も蓄積しているはずである。
にもかかわらず、ミアが放った突きは、バフ使用時にはさすがに劣るものの、かなりの速さで、空気を鋭く切り裂く風切り音が、一拍遅れて鼓膜を打つ。
(やばい……強すぎるだろ……! 魔法のバフが切れている状態でも、これほどの身体能力と踏み込みができるなんて!)
エルティスの言っていた言葉が再び蘇る。
『君のその魔法で身体のリミッターを外したからこそ、眠っていた力が一時的に覚醒したんだろうね』
いや、一時的ではない。
潜在能力の扉が一度こじ開けられたことで、彼女の中に眠っていた規格外の身体能力が、ベースアップして完全に定着してしまった気がする。
剣を握ったこともない元農村の少女が、素の状態でここまでの動きができるとは。戦慄を覚えると同時に、これ以上ないほど頼もしい相棒を持てたことへの深い安堵が胸に広がる。
「すごいな、ミア。これなら、明日は簡単な魔物討伐の依頼も受けられそうだ」
「はいっ! トオル様のお役に立てるなら、どんな魔物でもお任せください!」
ミアは誇らしげに胸を張り、満面の笑みを浮かべた。
ちなみに、昨日ギルドに納品した『極光草』は、俺の魔法による保存状態が異常なほど完璧すぎたため、ギルド本部で正確な査定とカウントを行っている最中だ。
報酬の受け取りは明日以降になるが、当面の活動資金は十分にある。
その後は精神的緊張もあり、ぼーっとベンチで風を感じていた。ミアは何も言わずに隣に座り、何も言わずに一緒に髪を揺らしてくれた。
この何とも言えない時間が、嬉しく、心地良かった。
* * *
すっかり日も落ちて宿の部屋に戻った俺は、ミアをベッドの縁に腰掛けさせ、ふうと深い息を吐いた。安全な場所に辿り着いたことで、ようやく心の底から安堵できた。
「さて、ミア。そろそろ薬をかけ直しておこう。手を出して」
俺が手を差し出すと、ミアはその両手で、俺の右手をぎゅっと大切そうに握り返してきた。小さな手のひらから、彼女の温もりと、今日という過酷な日を共に生き抜いた微かな鼓動が伝わってくる。
「――『薬効顕現』。処方、ルパタジン。指定【主作用:抗ヒスタミン作用】」
『ルパタジンの投与を確認。当該薬品の半減期:約6時間。向こう6時間、トオルはルパタジンを使用できません』
淡い金色の光がミアの身体を優しく包み込み、皮膚の奥へとスーッと染み込んでいく。これでまた明日の夜まで、彼女が辛い痒みや爛れるような蕁麻疹に苦しむことはないだろう。
ホッと胸を撫で下ろしていると、ミアが握った手にキュッと力を込め、潤んだ大きな瞳で俺を真っ直ぐに見つめてきた。
「トオル様……わたし、トオル様にお会いできて、今までの人生で一番幸せです。これからも、ずっとお側にいさせてください」
「そんなの、こちらこそだよ。俺は一人じゃまともに戦うこともできないし、これから先もミアの力が必要なんだ」
俺が苦笑交じりにそう言うと、ミアは真剣な顔でゆっくりと首を横に振った。
「いいえ……わたしにはわかります。エルティス様も恐ろしいほどすごかったですが、トオル様はもっともっとすごくなります。きっといつか、一人で何でもできるようになるって思います」
「俺が?そんなわけ」
ミアが遮るように手を握り返して、こちらを真っ直ぐに見る。
「はい。トオル様の持つ知識と魔法は、この世界の頂点にいる方すら驚かせるものですから。……それでも、もしトオル様が一人で何でもできるようになってしまっても、わたしをお側に置いていただけますか……?」
不安そうに耳を伏せるミアの言葉に、俺は思わず微笑んだ。
(一人で何でもできる自分なんて全くイメージできないけど……仮にそうなったとしても。)
「当然だろ。俺がどれだけ強くなろうが、ミアは俺の最初で最高の相棒だ。ずっと一緒にいよう」
「……はいっ!!」
ミアの顔がパッと明るくなり、溢れんばかりの笑顔が咲いた。
彼女の嬉しそうな様子を見つめながら、俺は薬剤師としての根本的な疑問へと静かに思考を巡らせていた。
(抗ヒスタミン薬やステロイドで一時的に症状を抑え込んでいるけど、結局、ミアのあの重度のアレルギーの『原因』って何なんだろう? 規格外の潜在能力故の過敏体質……?)
アレルギー反応というのは、免疫系がバグを起こし、本来は無害なはずのタンパク質などの物質を「外敵」だと誤認してしまうことで起こる。
その結果、IgE抗体が大量に作り出され、肥満細胞からヒスタミンが遊離して、皮膚の炎症や痒み、最悪の場合はアナフィラキシーショックを引き起こすのだ。
環境の悪さ、安物の食材の不純物、あるいはこのファンタジー世界特有の特定の魔力物質。彼女の高すぎる潜在スペックが、それらを「毒」として過剰に判定してしまっているのだとしたら。
原因となる物質を特定し、取り除かなければ、彼女は一生ルパタジンやプレドニゾロンなどの薬に頼り続けなければならなくなる。
それは対症療法に過ぎず、真の治療とは言えない。
自分の持つ現代薬学の知識とこの不思議な魔法を駆使して、彼女の体質を根本から解明し、治してやること。
それも俺の果たすべき大切な使命だ。
――きゅるるるる。
と、その時。
真面目な思考を遮るように、俺とミアの腹の虫が盛大にハモって、静かな部屋に響き渡った。
「あ……」
「……そういえば、朝からバタバタしてて、俺たち全然ご飯食べてないな!」
顔を真っ赤にして獣耳をぺたんと伏せるミアを見て、俺は思わず吹き出した。
異世界の謎も、アレルギーの原因究明も、まずは腹ごしらえからだ。俺たちは笑い合いながら、遅めの夕食を求めて一階の食堂へと向かった。
食堂は、数人の客がのんびりとくつろいでいるだけで、落ち着いた静けさが漂っていた。
俺たちは窓際の席に座ると、焼き立ての香ばしい丸パンと、柔らかく煮込まれたオーク肉のシチューを注文した。
「ん……! このシチュー、肉が口の中でとろけるぞ! スパイスも効いてて最高だ!」
「はいっ、とっても温かくて美味しいです……!」
シチューに浸したパンを口いっぱいに頬張るミアを見て、俺の心もじんわりと温かくなる。
じっくりと煮込まれたオーク肉は噛むほどに旨味が溢れ、コクのあるシチューが疲労困憊の身体の隅々にまで栄養を運んでいく感覚があった。
「ふー、ふー……えへへ、美味しいです。奴隷商館にいた頃は、こんなに温かくてお肉がたくさん入ったお料理なんて、絶対に食べられませんでしたから」
そう言って笑う彼女の笑顔を守るためにも、俺はもっとこの世界での生き方を確立しなければならない。
「よしっ! しっかり食べて精もついたことだし、明日はギルドで極光草の報酬を受け取って、ミアの新しい装備でも見に行こうか!」
「はいっ、トオル様! 楽しみです!」
窓の外には、窓の外には、雨雲が去った澄み渡る夜空に、静かな月明かりが広がっている。
命懸けの死闘を乗り越え、強力なパトロンと深まった絆を得た俺たち。
絶対的な「半減期」の制約と向き合いながら、異世界で生き抜くための旅路は、まだまだ始まったばかりだ。




