6
デイーは心地よい酩酊感に、ゆっくりと帰り途を歩いていた。
澄み切った夜空には満月がかかっていた。頬に当たる夜風はまだ冬である季節を感じさせるのに充分な冷たさだったが、酔っ払っているこの身にはちょうど良い。
有意義な夜だった。
デイーは、コートのポケットに手を突っ込みながら、微笑んだ。
リックと最高の気分で、別れた。
彼にはもう会うこともないだろうが、貴重な出会いをしたと思った。
女神ネーデが失敗した俺に与えてくれた幸運だな。
まあ、彼の飲んだワイン代で今月の給料は吹っ飛んだが。それは、仕方がないだろう。
自分の住む集合住宅に入り、デイーはエレベーターに乗ることなく、階段を選んだ。
何故か、歩きたい気分だった。
リズミカルにタイル張りの階段を歩き、自分の部屋がある五階に行き着くと、デイーは口笛を吹いて部屋前の通路を歩き出した。
自分の部屋前に目をやったデイーは、目を見開いて立ち止まった。
ドアにもたれかかるようにして立つ、一人の人物がこちらを見ていた。
シアンだった。
デイーは、酔いが一気に醒めるのを感じた。
――――――――――
「……楽しそうじゃねえか」
うらめしそうにそういうシアンは、寒空の下で待ち続けたせいか、唇の血色が悪くなっていた。
「……なんで……ここ……」
デイーは驚きのあまり、うまく言葉が出てこない。
シアンはもたれていたドアから身を離して、身を縮こませながらデイーに近付いた。
グレーのコートに、白いマフラーをした彼女は白い息を吐いた。
「とりあえず、部屋に入れて。寒くて、たまんねえ」
デイーはあわてて、ドアの鍵を開けてシアンを中に入れた。
「あー、寒かった。ゼルダに比べたら序の口だけどな」
シアンが息を吐きながら、安堵したように言った。
「すぐ部屋温めるし、コーヒー入れる。そこで座ってて」
リビングのソファーにシアンを座らせ、デイーは寝室から急いで毛布を持ってきてシアンに渡す。
シアンは毛布にくるまって、部屋を見渡した。
本、本、本。
全て、法律関係。
部屋の至る所に、本が置かれ、机の上には山のごとく乱雑に積み上げられていた。
「はあ、すげえな。本ばっかり。……女っ気全くなし」
シアンがふ、と笑った。
「……散らかってて、悪いけど」
デイーは、バツが悪そうに答えた。
シアンが来ると分かってたら、片付けておいたのに。
というか、シアンが自分の家に来るなんて初めてだ。
デイーはドキドキしながら、コーヒーを用意する。
「俺の家、知ってたんだ」
「ボスに聞いてた」
「なんで、ここに……」
「ほらよ、これケーキ。食おうぜ」
毛布にくるまったままのシアンがデイーに近付いて、持っていた袋をデイーに差し出す。
「……お前、店に来ねえし。予定より早めに切り上げて、先に帰らせてもらったのに、お前、帰ってないし」
デイーは箱入りのケーキの入った袋を受け取る。
「悪かったよ。予約のなかなか取れないレストランカイザー、キャンセルさせて。お詫びに、お前とケーキ食べようと思って来たんだよ」
シアンは上目遣いでぶっきらぼうにそう言った。
デイーは、目の前のシアンの表情の愛らしさに、ぼんやりと立ち尽くした。
ああ、女神ネーデよ。感謝します。
俺に、こんな幸運を与えてくれて。
その瞬間、デイーの頭からは先程のレストランカイザー、リックに関する事柄の記憶が、地平線のはるか彼方まで飛んでいった。
「……ありがとう。ごめん、待たせて」
「本当にな。俺が風邪ひいたら責任とれよ。……つーか、お前、どこ行ってたんだよ」
乱暴にシアンはソファーに座りこんだ。
言いにくそうに、デイーは告げた。
「……レストランカイザーで、食事してた」
「はあ!?」
シアンは大きな声を上げると、次の瞬間には目を細めた。
「なるほど、そうだな。オレ以外に相手いるだろうしな。……あの子かよ。裁判所で見たぜ。ブロンドの赤い眼鏡の知的美人さんだ」
なんでそこに彼女が出てくるんだろう。
疑問に思いながら、デイーは首を振った。
「ちがうのかよ。なんだ、あの子、お前に気があるぜ。一回、ご一緒しろよ」
「いや、そんなはずない。彼女は親切なだけ。……レストラン行った相手は、今日パブで会った……」
「パブで今日会った女の子かよ。おいおい、デイーお前意外に冒険家だな」
「……男だけど」
「男!?」
シアンはもう一度大きな声を出すと、顔に笑みを浮かべ、はは、と笑った。
「男かよ。なんだ。男二人で、あのレストランの食事楽しんできたのか。よかったじゃねえか。かなり、ご満悦のようでなにより」
「……」
デイーは心の中で、シアンが来るのが分かっていたらさっさと帰ってきたのに、とつぶやく。
「まだ寒い。早く、コーヒーちょうだい」
シアンが沸騰し始めたケトルの音に、ダイニングに目をやって言った。
デイーはあわててガスを切り、インスタントコーヒーを入れたカップにお湯を注ぐ。
「そっち、行くわ」
シアンが毛布を肩にひっかけたまま、立ち上がって移動し、二人がけのダイニングテーブルに座った。
「あっちのテーブル、本だらけだし」
リビングの方を見てシアンが言った。
デイーは食器棚から皿を出し、ケーキの入った箱を袋から出した。
「……お前、ほんとうに弁護士になったんだよな。司法試験、受かったんだもんな。……すげえわ」
シアンはリビングにあふれかえる書物の量を確認しながらつぶやく。
「まあ、これからだけど」
デイーはケーキを皿にのせながら答えた。
二つのケーキのうち、一つはシアンが好きそうな極甘だと思われるチョコレートケーキ、もう一つはベイクドチーズケーキだった。
「……お前、チーズケーキが好きだったよな」
シアンがデイーに目を移して言った。
デイーは頷く。
実は、自分はスイーツの類は苦手だ。まあ、故郷キエスタではチーズが常食だったこともあり、チーズケーキだけは好物だった。
でも、それをシアンに言ったことがあっただろうか。と、デイーは首をひねりながら顔から眼鏡を外し、テーブル上に置いた。
「……いつから、お前、眼鏡かけだしたっけ」
シアンがカップを両手で持ちあげ、口に運んだ。
「ロースクール入って、すぐだったかな。それ以前から視力悪くなってたんだろうけど、全然、気が付かなかった」
「それまで、視力どれくらいあったんだよ」
「4.0とか5.0とか、そんなもん」
「それ以前が良すぎだろ!」
シアンはカップを持ったまま笑う。
「あそこに住んでりゃ、みんなそうなるんだよ。視界を遮る建物とかねえし。草原の羊の数、数えるだろうし。……眼鏡かけてるやつなんか、いねえよ」
「そうか」
シアンは美味しそうにコーヒーをすすった。
「そんなに視力良かったのに、残念だったな」
カップの端を口に当てたまま、シアンはデイーを見つめて微笑んだ。
「あ……遅くなったけど、誕生日おめでとう」
デイーは思い出してあわてて言った。
「おう。今年で二十五になったぜ」
……ああ、俺、すごい幸せかも。
フォークでざくり、とチーズケーキを刺し、デイーは口に運んだ。
ケーキの味と共に、この幸せな空間に流れる時間を噛みしめる。
シアンが、俺の部屋にいて目の前でコーヒー飲んでケーキ食ってる。
シアンと二人きりになれたのなんて、いつ以来だろう。
じいん、と心が震えるのを感じた。
相変わらず、目の前の彼女は美しく、可愛くて、愛らしくて。
十年前にカチューシャ市国で初めて会ったあの頃と、ちっとも変わらない。
「……家族には、今も仕送りだけ?」
聞いてくるシアンの声に、シアンに見とれていたデイーは我に返った。
「うん」
「……そうか。寂しいけど。親孝行でえらいね、お前」
シアンはかすかに微笑んで、カップに残ったコーヒーをのどに流し込んだ。
「じゃ、帰るわ。オレ。もう遅いし」
シアンは椅子から立ち上がる。
え。もう。
デイーはすがりつきたい気持ちになるが、平静を装い軽く頷いた。
「ありがとう。……寒い中、待たせてごめん」
デイーも立ち上がりシアンを出口まで送る。
「あと……今日の、お詫びと言っちゃあなんだけど」
シアンがデイーに毛布を渡しながら言った。
「三か月後、サボイホテルに夕食予約とっといたから。空けとけよ」
……デイーは悔しさとがっかり感が混ざった気持ちで、シアンを見下ろした。
俺が、予約してシアンを喜ばせたかったのに。
その気持ちは表情にあらわに出ていたらしい。
シアンがデイーの様子を見て眉をひそめた。
「なんだよ不満かよ。そりゃ、カイザーよりは劣るけど、最近あそこもなかなかいいって言うぜ? ……なんだお前。今日、店来た時にもすねてたしよ。しょうがねえだろ? ボスの了承得てないんだから」
わかってる。俺がミスしたことは。
そう思いながらも、デイーはうつむいてシアンから目をそらした。
「……」
シアンはデイーを見上げていたが、ふいにデイーのネクタイをつかんで引き寄せた。
そのまま彼の唇に口づけた。
デイーは目を見開いた。