7
シアンの顔が間近にある。
彼女の宝石のような黒い瞳が自分を見つめている。
唇に感じる彼女のやわらかな唇の感触と、頬にふれる息遣い。
彼女の体温とともにたちおこる彼女の匂いにデイーはくらくらした。
突然、シアンが顔を離した。
あ。
デイーは、すがるような目でシアンを見下ろした。
もっと、続けてほしい。
懇願の思いで見つめる自分に、シアンは手の甲で自らの口を拭いながら見上げて勝ち誇ったように笑った。
「機嫌なおしたら、今の続きしてやる。……許すよな?」
――――傷ついた。
傷ついた。
デイーはシアンをドアの方に向けさせると、彼女の背中を押した。
「ああ!? なんだよ、お前……!」
「帰れよ。今すぐ、帰れ」
大きな声を上げる彼女に、デイーは低い声で応える。
俺は、犬かよ。
ふざけんな。
泣きたくなる。
いつまでたっても、俺はおまえからその程度にしか見られないのかよ。
十年経っても。
司法試験に受かっても。
抵抗を繰り返すシアンをドアまで押しやったデイーに、シアンは身をよじってデイーを見上げた。
「ちょっと、まてよ、お前……!」
「帰れよ。遅いんだから」
デイーはぐいぐいとドアにシアンを押し付けた。
「待てって!」
バン、とシアンがドアを手のひらでいきおいよくたたいて音を出した。
驚いてデイーは力を緩めた。
シアンがデイーに向き直った。
「……いい加減、はっきりさせようぜ」
低い声でシアンが言い、デイーの顔をにらみ上げた。
「……俺は子供が産めないし、これから先も当分ボスのものだ。お前が将来家庭を持つ普通の生活がしたいんだったら、はやく可愛い女の子を探せよ」
間を置いて、シアンは続けた。
「……じゃなきゃ、さっさとオレに手を出せ」
シアンから投げつけられた予想もしなかった言葉に、デイーは目を見開いて立ちすくむ。
「どうなんだよ。今日こそ、はっきりさせようぜ。オレは気が短いんだよ」
シアンはデイーをにらみつけたまま言い放った。
「……」
デイーはシアンから目をそらしてうつむいた。
「お前に、手は出せない」
「はあ? ボスが怖いのかよ」
「いや……」
デイーは、消え入りそうに小さな声で答えた。
「だって、お前と結婚してないし」
シアンは目を見開いて、あんぐりと口を開けた。
「……出たよ……キエスタ思想……!」
あきれをとおりこした声で、シアンはデイーに向かってさけぶ。
「しんっじらんねえ……バカじゃねえのか、お前。今年で二十八だろうが」
ほっとけよ。
デイーは唇をかむ。
「信じらんねえ……キエスタ人の男はオレには理解できねえ」
シアンは大きな目を見開いてさらに大きくした顔のまま、まだ言っている。
デイーは小さい声で続けた。
「俺も分かってる。……今はボスは自由にさせてくれるけど、いずれ俺は家族の顧問弁護士だ。嫌われ役だろうし、恨み買うこともあるだろう。だから、簡単に家庭とか持てないだろうし、そんな俺と好きこのんで一緒になってくれるような女もいないだろうし」
「……なんだ、そこは割り切ってんじゃん」
シアンは若干驚いたように言った。
「ならこっちもそんな風に割り切れよ。……言っとくけど、ボス、まだまだオレに飽きないと思うぜ。飽きがくるの何十年後かもしれないぜ。オレが、シワシワになって白髪になるくらいだったらどうするよ。……あ、やべ。シワシワで思い出した。最近、肌の調子が悪くなったら、戻んのに時間がかかんだよな。三十までは多少不摂生しててもなんとも無かったのによ」
「だから、それまで俺が待てばいい話だろ」
「基礎化粧品のレベル上げようかな。保湿力倍のリッチなクリーム買っちゃうか?でも、まだ三十四だぜ、オレ。ああいうのは四十過ぎてからでいいと思ってたんだけど……今、なんて言った、デイー」
「だから、俺がそれまで待てばいい話だろ」
デイーは言葉を繰り返す。
シアンは呆気にとられたような顔でデイーを見返した。
「……ボスが飽きるまで? ……オレがシワシワの婆さんになるまで?」
「うん」
デイーは笑顔で頷いた。
シアンはしばらく目玉がこぼれ落ちるかと思うくらい目を見開いて、デイーを見つめていた。
が、やがて、彼女は観念したようにため息をつくと微笑んだ。
「……お前は気が長いね、デイー」
デイーに近づくと、シアンはデイーの肩に腕を乗せ、顔を寄せる。
耳元でささやく彼女の吐息にデイーは胸がふるえた。
「悪いけどオレは、そこまで我慢できそうにないわ。……言っとくけど、ずっと前からボスに息抜き程度の関係の許しはもらってるんだぜ」
シアンは意味ありげに微笑んでデイーを見上げると、デイーの頭を引き寄せて口付けた。
デイーは華奢な彼女の背におずおずと腕を回した。
頭の先から足先までしびれるような感覚に、デイーは気が遠くなり、目を閉じた。
今までキスは、故郷の母に子供の時にしてもらったぐらいだ。
まあそれとは違うんだろうと思っていたが、やっぱり全然違った。
それに、シアンはプロだから吸い方とか、舌遣いとか……他と比べたことないから分からないけど、なんていうか、多分すごいんだと思う。
デイーは、あまりの気持ち良さに感動する。
すごいな。
キスだけで、こんなに気持ちいいのかよ。じゃあ……。
デイーはあわてて、彼女の肩をつかんで顔を離した。シアンが不愉快そうにデイーを見上げた。
「あ、あの。さ、さっきのサボイホテルの話だけど」
ドキドキしながらデイーは言った。緊張のあまり、声が震える。
「……上の……部屋も……一緒に予約していい?」
シアンが興醒めした顔で、デイーから身を離した。
あれ? なんか、怒ってる?
むっつりとした彼女の表情にデイーは狼狽した。
「……いいけど。……わざわざ了解取るような男もいないと思うけどね」
シアンが素っ気なく答えたのにデイーはほっとした。
シアンはくるりとドアに体を向け、背を見せた。
「送ろうか」
「結構」
ぴしゃり、とシアンは言い放つ。
なんだろう。
なんか、機嫌悪いな。
萎縮しながら、デイーはシアンがドアを開けるのを見送る。
「じゃあな。三ヶ月後の六月十日。空けとけよ」
言って、シアンがデイーの顔を見た。
彼女に何の反応もないまま見つめ返したデイーにシアンはしびれを切らしたように言った。
「……気付けよ。オレとお前の初デートの日だろうが」
あ。
デイーは目を見開いた。
十年前のカチューシャ市国の大祭。
最初の前夜祭の日だ。
こくこく、と頷くデイーに、シアンは呆れたように微笑んだ。
「……じゃあな」
シアンは肩をすくめて、外に出た。
扉が閉まった……と思う間もなく、再びドアが開いた。
シアンが顔だけドアの隙間から出す。
「あと、ひとつ忘れてたわ。七月七日前後三日も空けとけよ」
デイーは目を見張った。
七月七日。
俺の誕生日だ。
「なんで、それ……」
「なめんなよ」
デイーの様子を見てシアンは笑う。
「カチューシャ市国行くからな。そのつもりで。……お前、とっくに忘れてんだろうけど、幸運の十人の特典に、ホテルの無料宿泊券あっただろ? あれ、まだ有効だから」
デイーの驚愕の表情にシアンは満足したようだった。
「三ヶ月後の、初回は期待してないから。気楽にやれよ。……まあ、二回目も期待してないけどな」
ニヤニヤ笑うシアンに、デイーは顔を赤らめた。
「と、それから……」
シアンはからかうようにデイーに含み笑いをした。
「今日じゃなくて、良かったんだ」
言葉の意味を理解して、数秒後、デイーは目を見開いた。
「あ、ちょっ……まっ……!」
追いすがろうとしたデイーの目前で、ドアが閉まった。
……くそ。
デイーはドアにもたれかかり、ガン、と額を打ち付ける。
あと、三ヶ月もお預けかよ……。
……まあ、いい。
ドアに額を押し当てながら、デイーは微笑んだ。
三か月の内にあいつが好きそうなローティーンが憧れる、普通ならありえない展開のデートプランをたててやる。
あいつ、少女趣味なのをボスにばれないように必死に隠してるけどな。
俺はあいつが、皆がひくほど、実はロマンス小説の世界に憧れてんのは知ってんだよ。
ラマーン扮するカレスの映画を最初から最新話まで観て、復習しようか。
往年のお決まり恋愛小説を片っ端から読んで、研究しようか。
……俺、歯の浮くようなセリフ、笑わずに言えるかな。
くく、とデイーは想像して笑った。
後ろに向き直って、デイーはドアに背をもたれる。
……ボスは、シアンのことをネーデだと言ったけど、自分はどちらかというとシアンはアネッテに近いとずっと思っていた。
だってシアンは、本当はパイ・ムーアよりも純粋な少女で、だれよりも献身的で一途な女性だ。
自分だけがそれを知っている。
十年前、カチューシャ市国の前夜祭のフォーチュンクッキーで、お互いに献身愛のカードを引いたあの時から。
悲劇の女性として有名なアネッテ。
俺が、いつかあいつを救い出すラミレスになりたい……なんて心の中で思っているのはおこがましいにも程があると思いますけど、許してくれますか。女神ネーデ。
デイーは天を仰いで、目を閉じた。
ああ、すごい一日だった。
当然か。
あいつの誕生日だもんな。
女神ネーデよ。
素敵な一日を俺に与えてくださって、感謝します。
デイーは顔に満面の笑みを浮かべて、彼の信仰する女神に祈りを捧げた―――。




