第一話:水を一杯
「言葉は武装である」
──そんな趣旨のコメントを、あるところで目にしました。
言葉は、自分を守るための盾になる。
相手を説得するための武器にもなる。
そして、ときには、正しさをまとったまま、相手の逃げ道を奪ってしまうこともある。
では、言葉を持つことと、言葉を使いこなすことは、同じなのでしょうか。
そんなことを考えながら、この物語を書き始めました。
少し不器用な旅の始まりです。
どうぞ、お付き合いいただければ幸いです。m(_ _)m
【第一話:水を一杯】
セラが最初に覚えたのは、石の投げ方ではなく、石の避け方だった。
顔の右半分に、火傷の痕がある。
多くのものを失い、代わりに得た。
幼い頃、領主の館が焼かれた夜のためだ。
引きつれた皮膚は、笑おうとしても笑いの形にならない。
人はそれを見て、話を聞く前に、眉間にシワを寄せ、先に怒りを決める。
だから彼女は、聞いてもらうために、言葉を研いだ。
──七年前、セラは口の利ける女だった。
正しいことを、正しい順序で、一分の隙もなく言った。
隣領の若い領主ベルトランは、彼女の前で、昔からの態度のまま、三日のあいだ反論を探し続けた。
一日目、彼は言った。
「飢えは、先代の頃からだ」、と。
セラは、三年分の徴税の帳面を広げた。
先代の倉の数と、彼の倉の数を、並べて読み上げた。
──彼の倉のほうが、多かった。
二日目、彼は言った。
「民が、勝手に畑を捨てたのだ」、と。
セラは、村の名を七つ挙げた。
畑を捨てた日と、徴発の使いが来た日を、順に並べた。
──使いは、いつも、先に来ていた。
三日目、彼は何も言わなかった。
セラは、先代から今までに飢えて死んだ者の数を伝えた。
「──それを、民の前で、言うのか」
彼は長く黙ってから、小さな声で、訊いた。
「明日、広場で」
セラは、そう答えた。
正しいことは、人の前で言われなければならないと、思っていた。
その夜、領主の館の灯りは、朝まで消えなかった。
セラは、それを窓から見て、眠った。
四日目の朝、彼は門を閉ざした。
閉ざす前に、門の上から、一度だけ、セラを見下ろした。
「──では」
最後に、ベルトランは言った。
「私には、何が残る」
セラは、答えなかった。
答えを持っていなかった。
正しさの先のことは、考えたことがなかった。
三か月後、飢えた民が門の外へ押し出された。
二度と、領主の声を聞く者はいなかった。
──その日から、セラは喋らなくなった。
◆◆◆
荒野の野営地には、風と、馬の鼻息しか聞こえなかった。
野営地は、丘の裾に張られていた。
眼下を、浅い川が流れている。
川の向こうには、敵の篝火が、数えきれないほど瞬いていた。
丘の上の将軍の天幕には、青い獅子の旗が垂れ、川向こうには、白い塔の旗が見えた。
両軍あわせて二万。
夜明けとともに、激突する運命であった。
天幕の列の外れで、馬が、湿った藁を力なく噛んでいた。
セラは三日かけて辿り着いた。
道中、戸口に藁を結んだ家を、いくつも見た。
藁は、住む者が去った印だった。
畑では、刈られなかった麦が、倒れたまま腐っていた。
泥は膝まで跳ね、外套は裂け、足の裏の豆は潰れて、靴の中で湿っていた。
陣の入口で、二本の槍が交差した。
「女の来る場所じゃない」
若い兵だった。
まだ頬に幼さが残っている。
腰の袋は、半分も膨らんでいなかった。
もうひとりの年嵩の兵が、セラの顔を見て、舌打ちした。
「気味の悪い面だ。どこの間者だ」
──セラの喉には、言葉が七つあった。
身分の証。
通行の理。
将軍の弱み。
夜明けの戦の愚かさ。
命令の矛盾。
兵たちが恐れているものの名。
そして、目の前の男が、何を恐れて彼女を罵ったのかを暴く言葉。
どれも正しく、どれも鋭い。
その全ては、相手が言い返す前に、その足場を崩すことができた。
七年のあいだ、彼女は黙ったまま、それを研ぎ続けていた。
口を開いた。
声が、出なかった。
七年ぶりの喉は、錆びた蝶番のように、固かった。
唾を飲んだ。
もう一度。
水が、欲しかった。
足も、痛かった。
けれど、人に何かを請うことを、セラは、ずっと昔にやめていた。
断られたら、七つの言葉に戻る。
そう決めて、ようやく、息を吸った。
指が、外套の裾を、握りしめていた。
「三日、歩きました。足が、痛くて」
けれど、口にしたのは、そのどれでもなかった。
若い兵が、きょとんとした。
「……はあ」
「水を、一杯いただけませんか」
「むぅ……」
年嵩の兵が何か言いかけて、やめた。
『水を請うた者は、名を問われず、借りを一つ負う。』
谷の民の古い習いでは、水を請われて断る者はいない。
山から流れ込む水は、谷に土を残す。
岩ばかりの斜面では育たぬ麦も、川沿いの畑では穂を垂れる。
山の恵みは、いつも、目に見える形で、谷の暮らしに届いていた。
けれど水は、途絶えれば、命を奪うものでもあった。
だから谷では、請われたら、まず渡す。
名は、問わない。
谷の民は、両軍の兵の、半数を占める。
『水を請うた者には、その日、刃を向けない。』
習いは、いつしか、軍の不文律になっていた。
「……ぬるいですけど」
若い兵は、革袋を差し出した。
習いのためだけの手には、見えなかった。
「ありがとう」
セラは受け取り、ゆっくり飲んだ。
水は本当にぬるくて、革の匂いがした。
両手で返した。
そして、笑おうとした。
右は動かず、左の口の端だけが、わずかに震えた。笑顔と呼べるものではなかった。
セラは、ようやくに身分の証を見せた。
若い兵は、目をそらさなかった。
「……将軍のところまで、案内します」
◆◆◆
将軍ハーゲンは、地図の上に両手をついたまま、振り向かなかった。
「撤退はせん。誰の使いでも同じだ」
天幕には、蝋燭が一本。
地図の上には、石の重しが七つ並んでいる。
敵の陣、味方の陣、川、丘。
そのうちの一つだけ、形がいびつだった。
子供の手が拾ってきたような、川の石だった。
「……ただ、水を請うて入った者を追い返せば、谷の兵が、俺に従わなくなる。話は、聞く。それだけだ」
セラは机の前に立った。
──七つの言葉が、喉にあった。
敵の兵糧は尽きかけている。
冬が来れば、どちらも凍える。
勝っても、将軍の領に若者は一人も戻らない。
兵たちは、勝利ではなく、帰還を望んでいる。
援軍が来るという確証はない。
撤退を拒むほど、退路は狭まっていく。
そして、将軍が守ろうとしているのは、領土か、兵の命か、それとも退くことのできない己の名誉か。
すべて事実で、すべて刃だった。
──ベルトランにも、そうした。
彼女は、地図ではなく、将軍の手を見た。
指の関節が白かった。
石の重しを押さえる手が、わずかに震えている。
(……あの人の手は、どうだっただろう。)
七年前、門の向こうで、ベルトランの手は。
分からなかった。
私は、あの人の論の穴ばかり見ていた。
手を見ていなかった。
「将軍」
「何だ」
「眠れて、いらっしゃいますか」
ハーゲンの肩が、動いた。
長い沈黙のあと、彼は答えた。
「……三日、眠っておらん」
「そうですか」
セラは、それ以上、何も言わなかった。
説かず、座らず、ただそこに立った。
彼が自分から口を開くのを、待った。
蝋燭が、一指分、短くなった。
「──息子が」
ハーゲンが言った。
「今朝の先陣に出ると言って聞かん。十七だ」
「はい」
「止めれば、臆病者の子と呼ばれる」
「はい」
「…………止めたいのだ。本当は」
セラは、うなずいた。
「お名前は」
「……エーリク、という」
「エーリク」
セラは、その名を、ゆっくり繰り返した。
それだけだった。
ハーゲンの指は、いびつな石の上で、止まっていた。
その夜、彼女は将軍の鍵穴を、一度も削らなかった。
──開くのを、待った。
◆◆◆
夜明け前、ハーゲンは、地図の端に挟まれた、敵軍の兵糧の記録を、長いこと見ていた。
それから、使いを一騎、闇に走らせた。
鞍に結ばれた書状は、短かった。
『陣を退く。
そちらも退くか』、と問うだけの。
宛名は、敵将の名だった。
──白い布を掲げた敵の使者が、野を渡ってきたのは、東の空が灰色になった頃だった。
兵たちは、何が起きたのか知らない。
天幕から出てきた将軍の顔は憔悴していたが、目は、昨日より静かだった。
「──全軍、待機」
それだけを告げた。
先陣の列の中に、十七の少年の姿はなかった。
──セラは、陣の外れの焚き火のそばにいた。
昨夜の若い兵が、また革袋を持ってきた。
もう片方の手には、欠けた椀。
水のように薄い麦粥が、半分ほど入っていた。
「あなた、将軍に何を言ったんです」
「何も」
「嘘でしょう」
「本当に。ただ、聞いていただけ」
兵は、首をかしげた。
納得はしていない顔だった。
セラは火に手をかざした。
──七年、言葉を研いできた。
刃のように、鎧のように。
そうしなければ、誰にも聞いてもらえないと信じていた。
「……でも、おかげで話ができます」
火の向こうで、若い兵が、ぎこちなく笑った。
「水の借りを返しただけ」
つられて、セラの頬が動いた。
右半分は、やはり動かなかった。
左半分だけが、ほんの少し、持ち上がった。
それが笑顔と呼べるものかどうか、彼女には分からない。
「ひどい火傷ですね」
けれど兵は、それを見て、また笑った。
「そうね」
朝の風が、野を渡っていった。
鉄の匂いは、運んでこなかった。
(第一話 終)
最後までお読みいただき、ありがとうございます。m(_ _)m
この物語には、美少女がすべてを解決してくれる魔法も、圧倒的な力で敵をねじ伏せるチートもありません。
あるのは、言葉を使うことに臆病になったひとりの女性と、彼女が旅の途中で出会う人々です。
正しいことを言えば、物事は解決するのか。
相手の弱みを見抜けば、人を動かせるのか。
そして、何も言わずに誰かのそばにいることにも、意味はあるのか。
そんなことを、私自身も考えながら書いています。
派手な逆転劇ではありませんが、彼女が何を見て、何を語り、何を語らずにいるのか。
その小さな変化を見届けていただけたら嬉しいです。
それでは、次の物語でもお会いできますように。(*人´ω`*)




