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K ―背番号89―  作者: K2MA


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19/34

第19話 持つ

 ロッカーで、大島がKの後ろを通りかかった。

 足を止める。


「お前、後頭部ちょっと傷ついてるぞ」


 Kの紅い防具の、後ろ側だった。

 金の線の少し下に、白く擦れた跡がある。

 指の先ほどの長さだった。


「転んだんすか」


 若手が笑った。

 用具係が、防具を覗き込んだ。


「それ、リーグの承認品なんで、割れたら替えがすぐ出ないですよ」


 Kは、傷の場所に手をやらなかった。

 大島を見ることもなく、そのままロッカーを出ていった。


「……聞いてねえな」


 大島は、閉まった扉を見た。


    *


 相沢のノートには、同じ形の書き込みが増えていった。


 ホワイトベアーズ戦。

 九回表、七点差。

 代打K、空振り三振。

 投手、長く持つ。

 足、早く戻る。


 オーシャンズ戦。

 八回裏、六点差。

 代打K、見逃し三振。

 投手、二度外す。

 足、動かず。

 甘い直球を見送る。


 ファルコンズ戦。

 九回裏、五点差。

 代打K、一塁ゴロ。

 投手、持って、すぐ投げる。

 足、半分だけ戻る。


 相沢はペンを置いた。

 乗る打席と、固まる打席が、交互に来ている。

 どちらも、相手の間の中で打っていた。


 代打の場面は、軽くなっていた。

 点差が開いた終盤。

 結果が試合を動かさない一打席。

 それでも、どの投手も長く持ってきた。

 どのチームにも、同じ映像が回っているのだ。


 代打からベンチに戻ったKが、バットを置いた。

 いつもより、少しだけ強い音がした。

 タオルを膝に放る。

 畳まなかった。


「Kさん、今日機嫌悪くないですか」


 若手が小声で言った。


「顔見えねえのに、よく分かるな」


 大島が言った。

 若手は首をすくめた。


「なんとなくです」

「なんとなくで分かるくらい、悪いんだろ」


    *


 世間の熱は、早かった。


『代打K、四打席連続凡退 研究された二刀流』


 スポーツ記事のタイトルが、そう出た。


〈やっぱ一発屋だった〉

〈投手に専念させろ〉

〈足で合わせてるのバレたらもう終わりでしょ〉

〈160投げるんだから打たなくていい〉

〈いやまだ四打席だろ〉


 最後のコメントには、返信がつかなかった。


    *


「アレやられたら、もうダメじゃねえか」


 伊丹が言った。

 監督室の画面では、三打席分の映像が並んでいる。

 どれも、投手が長く持っていた。


「あと数打席もすれば、何か変わると思いますよ」


 相沢が言った。


「根拠は」

「本人が、もう分かってるので」


 伊丹は画面から顔を上げた。


「顔も見えねえのにか」

「足が、分かってます」


 相沢は、二つ目の映像を止めた。

 Kの右足は、戻っていなかった。


「足を動かさなきゃいい、とは分かってる。でも、何のために動かさないのかが、まだ身体に入り切ってない」

「教えてやりゃいいだろ」


 相沢は、眼鏡の位置を直した。


「教えたら、僕の答えになります」


 伊丹は、しばらく相沢を見ていた。


「……お前、意外と悠長じゃねえな。頑固なんだな」

「よく言われます」


 真壁が、横から口を出した。


「明後日、先発です」

「分かってる」


 伊丹は画面を消した。


    *


 大阪の三塁側にも、赤いタオルがいくつも揺れていた。

 Kの先発。

 相手はバイソンズだった。


 一回裏、先頭の坂口が打席に入った。

 Kがセットに入る。

 坂口が、右手を上げた。


「タイム」


 打席を外す。

 バットの先で、足元をならす。

 ゆっくり戻る。

 Kがもう一度構えた。

 坂口は、また外した。

 スタンドの一部が笑った。

 竹田はマスクの奥で、口の端を下げた。


 二番の沢井も、同じことをしてきた。

 三番の藤崎は、Kが足を上げかけたところで手を上げた。

 球審が認める。

 Kは足を下ろした。

 ボールを持ったまま、立っていた。

 竹田はタイムを取り、マウンドへ行った。

 Kが待っている。

 竹田は、打席の藤崎を振り返らずに言った。


「向こう、嫌がってんな」


 Kが竹田を見る。


「正面から来れないんだよ」


 Kが、すぐにうなずいた。

 竹田は一瞬、言葉を止めた。


「……早えな、うなずくの」


 Kは何も返さなかった。

 竹田は捕手の位置へ戻った。


 藤崎が打席に入る。

 Kがセットに入る。


 藤崎が、また外そうとした。

 Kは、構えを解かなかった。

 ボールを持ったまま、静かに待っている。


 急がない。

 苛立つ様子もない。

 藤崎の方が、先にバットを構え直した。

 初球の直球。

 見逃し。


「ストライク!」


 藤崎は、それから一度も打席を外さなかった。

 四球目のスプリットで、空振り三振。

 その回、Kは三人で終えた。


 ベンチへ戻る途中、Kは一度だけ、一塁側のバイソンズのベンチを見た。

 それから、自分のベンチの奥に置いてあるバットの方を見た。

 竹田は、その視線の先を追った。

 何を見たのかは、分からなかった。

 Kは七回を一失点で投げ終え、試合はフェニックスが勝った。


    *


 三日後、本拠地でのホワイトベアーズ戦。


 八回裏、6対1。

 勝負はほとんどついていた。

 二死、走者なし。


 七番、三好の打順だった。


「K」


 伊丹が言った。

 スタンドの反応は、少し前より控えめだった。

 期待と、心配が半分ずつ混ざった拍手。

 ホワイトベアーズのベンチから、投手コーチが出てきた。

 投手が代わる。


『ピッチャー、若槻』


 今季入団したばかりの右腕だった。

 一軍に上がって、まだ数試合しか投げていない。

 相沢はベンチの前に立ち、ノートを開かずにいた。


 Kが左打席に入る。

 相沢は、Kの足を見た。

 右足が、わずかに開く。

 若槻が、捕手のサインを見る。

 その間に、Kの右足が内へ戻った。

 若槻は、まだセットにも入っていない。

 Kは閉じ終えて、そのまま待っていた。


 若槻がセットに入る。


 持つ。


 長い。


 Kの足は、動かなかった。


 若槻の一球目。

 外角の直球。

 わずかに外れた。


「ボール!」


 二球目。

 若槻がまた止まる。

 さっきより長く持つ。

 Kは動かない。

 外のスライダー。

 Kは見送った。


「ストライク!」


 一ボール一ストライク。

 若槻が三度目に構えた。

 持つ。

 さらに長い。

 Kは、動かない。


 若槻が、プレートを外した。

 ロジンバッグに手を伸ばす。


 Kは打席を外さなかった。

 同じ構えのまま、立っていた。

 若槻がもう一度、足を止める。

 持つ。

 Kは、動かない。


 若槻が、また外した。

 捕手が立ち上がり、マウンドへ向かった。

 スタンドがざわつき始めた。

 捕手が何かを言い、若槻の肩を叩く。

 若槻は、二度うなずいた。

 相沢は、若槻の顔を見ていた。


 苦しいのは、投手の方だった。


 捕手が戻る。

 若槻がセットに入る。

 今度は、持たなかった。

 持てなかった。

 三球目。

 直球。

 真ん中寄りに入った。

 Kの右足が、踏み込んだ。


 音がした。

 打球は、高く上がった。

 右翼手が一歩だけ下がり、止まった。

 打球は、そのまま右翼席の中段へ落ちた。


 一瞬遅れて、スタンドが立ち上がった。

 Kは、打った場所から一度だけ打球を見送った。

 それから、いつもと同じ速さで走り出した。


 一塁を回る。

 二塁を回る。

 三塁を回るとき、照明が紅い防具の後ろを照らした。


 後頭部の小さな傷が、一度だけ光った。


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