第19話 持つ
ロッカーで、大島がKの後ろを通りかかった。
足を止める。
「お前、後頭部ちょっと傷ついてるぞ」
Kの紅い防具の、後ろ側だった。
金の線の少し下に、白く擦れた跡がある。
指の先ほどの長さだった。
「転んだんすか」
若手が笑った。
用具係が、防具を覗き込んだ。
「それ、リーグの承認品なんで、割れたら替えがすぐ出ないですよ」
Kは、傷の場所に手をやらなかった。
大島を見ることもなく、そのままロッカーを出ていった。
「……聞いてねえな」
大島は、閉まった扉を見た。
*
相沢のノートには、同じ形の書き込みが増えていった。
ホワイトベアーズ戦。
九回表、七点差。
代打K、空振り三振。
投手、長く持つ。
足、早く戻る。
オーシャンズ戦。
八回裏、六点差。
代打K、見逃し三振。
投手、二度外す。
足、動かず。
甘い直球を見送る。
ファルコンズ戦。
九回裏、五点差。
代打K、一塁ゴロ。
投手、持って、すぐ投げる。
足、半分だけ戻る。
相沢はペンを置いた。
乗る打席と、固まる打席が、交互に来ている。
どちらも、相手の間の中で打っていた。
代打の場面は、軽くなっていた。
点差が開いた終盤。
結果が試合を動かさない一打席。
それでも、どの投手も長く持ってきた。
どのチームにも、同じ映像が回っているのだ。
代打からベンチに戻ったKが、バットを置いた。
いつもより、少しだけ強い音がした。
タオルを膝に放る。
畳まなかった。
「Kさん、今日機嫌悪くないですか」
若手が小声で言った。
「顔見えねえのに、よく分かるな」
大島が言った。
若手は首をすくめた。
「なんとなくです」
「なんとなくで分かるくらい、悪いんだろ」
*
世間の熱は、早かった。
『代打K、四打席連続凡退 研究された二刀流』
スポーツ記事のタイトルが、そう出た。
〈やっぱ一発屋だった〉
〈投手に専念させろ〉
〈足で合わせてるのバレたらもう終わりでしょ〉
〈160投げるんだから打たなくていい〉
〈いやまだ四打席だろ〉
最後のコメントには、返信がつかなかった。
*
「アレやられたら、もうダメじゃねえか」
伊丹が言った。
監督室の画面では、三打席分の映像が並んでいる。
どれも、投手が長く持っていた。
「あと数打席もすれば、何か変わると思いますよ」
相沢が言った。
「根拠は」
「本人が、もう分かってるので」
伊丹は画面から顔を上げた。
「顔も見えねえのにか」
「足が、分かってます」
相沢は、二つ目の映像を止めた。
Kの右足は、戻っていなかった。
「足を動かさなきゃいい、とは分かってる。でも、何のために動かさないのかが、まだ身体に入り切ってない」
「教えてやりゃいいだろ」
相沢は、眼鏡の位置を直した。
「教えたら、僕の答えになります」
伊丹は、しばらく相沢を見ていた。
「……お前、意外と悠長じゃねえな。頑固なんだな」
「よく言われます」
真壁が、横から口を出した。
「明後日、先発です」
「分かってる」
伊丹は画面を消した。
*
大阪の三塁側にも、赤いタオルがいくつも揺れていた。
Kの先発。
相手はバイソンズだった。
一回裏、先頭の坂口が打席に入った。
Kがセットに入る。
坂口が、右手を上げた。
「タイム」
打席を外す。
バットの先で、足元をならす。
ゆっくり戻る。
Kがもう一度構えた。
坂口は、また外した。
スタンドの一部が笑った。
竹田はマスクの奥で、口の端を下げた。
二番の沢井も、同じことをしてきた。
三番の藤崎は、Kが足を上げかけたところで手を上げた。
球審が認める。
Kは足を下ろした。
ボールを持ったまま、立っていた。
竹田はタイムを取り、マウンドへ行った。
Kが待っている。
竹田は、打席の藤崎を振り返らずに言った。
「向こう、嫌がってんな」
Kが竹田を見る。
「正面から来れないんだよ」
Kが、すぐにうなずいた。
竹田は一瞬、言葉を止めた。
「……早えな、うなずくの」
Kは何も返さなかった。
竹田は捕手の位置へ戻った。
藤崎が打席に入る。
Kがセットに入る。
藤崎が、また外そうとした。
Kは、構えを解かなかった。
ボールを持ったまま、静かに待っている。
急がない。
苛立つ様子もない。
藤崎の方が、先にバットを構え直した。
初球の直球。
見逃し。
「ストライク!」
藤崎は、それから一度も打席を外さなかった。
四球目のスプリットで、空振り三振。
その回、Kは三人で終えた。
ベンチへ戻る途中、Kは一度だけ、一塁側のバイソンズのベンチを見た。
それから、自分のベンチの奥に置いてあるバットの方を見た。
竹田は、その視線の先を追った。
何を見たのかは、分からなかった。
Kは七回を一失点で投げ終え、試合はフェニックスが勝った。
*
三日後、本拠地でのホワイトベアーズ戦。
八回裏、6対1。
勝負はほとんどついていた。
二死、走者なし。
七番、三好の打順だった。
「K」
伊丹が言った。
スタンドの反応は、少し前より控えめだった。
期待と、心配が半分ずつ混ざった拍手。
ホワイトベアーズのベンチから、投手コーチが出てきた。
投手が代わる。
『ピッチャー、若槻』
今季入団したばかりの右腕だった。
一軍に上がって、まだ数試合しか投げていない。
相沢はベンチの前に立ち、ノートを開かずにいた。
Kが左打席に入る。
相沢は、Kの足を見た。
右足が、わずかに開く。
若槻が、捕手のサインを見る。
その間に、Kの右足が内へ戻った。
若槻は、まだセットにも入っていない。
Kは閉じ終えて、そのまま待っていた。
若槻がセットに入る。
持つ。
長い。
Kの足は、動かなかった。
若槻の一球目。
外角の直球。
わずかに外れた。
「ボール!」
二球目。
若槻がまた止まる。
さっきより長く持つ。
Kは動かない。
外のスライダー。
Kは見送った。
「ストライク!」
一ボール一ストライク。
若槻が三度目に構えた。
持つ。
さらに長い。
Kは、動かない。
若槻が、プレートを外した。
ロジンバッグに手を伸ばす。
Kは打席を外さなかった。
同じ構えのまま、立っていた。
若槻がもう一度、足を止める。
持つ。
Kは、動かない。
若槻が、また外した。
捕手が立ち上がり、マウンドへ向かった。
スタンドがざわつき始めた。
捕手が何かを言い、若槻の肩を叩く。
若槻は、二度うなずいた。
相沢は、若槻の顔を見ていた。
苦しいのは、投手の方だった。
捕手が戻る。
若槻がセットに入る。
今度は、持たなかった。
持てなかった。
三球目。
直球。
真ん中寄りに入った。
Kの右足が、踏み込んだ。
音がした。
打球は、高く上がった。
右翼手が一歩だけ下がり、止まった。
打球は、そのまま右翼席の中段へ落ちた。
一瞬遅れて、スタンドが立ち上がった。
Kは、打った場所から一度だけ打球を見送った。
それから、いつもと同じ速さで走り出した。
一塁を回る。
二塁を回る。
三塁を回るとき、照明が紅い防具の後ろを照らした。
後頭部の小さな傷が、一度だけ光った。




