第1話 89
七月も終わりに近い朝だった。
東条フェニックスの監督室では、エアコンがぬるい風を出していた。
「やっぱり無理か」
伊丹登が言った。
「脇腹ですからね」
投手コーチの真壁慎吾は、メモから顔を上げなかった。
胸ポケットのボールペンを、二度ノックした。
考えるときの癖だった。
「今日だけ無理させて、あと一か月消える方が困ります」
「二軍は」
「昨日投げた奴が多いです。上げるなら――」
午前九時十三分。
机の上で、伊丹の携帯電話が鳴った。
画面を見る。
GM、久世隆文。
嫌な予感がした。
「はい」
『監督。少しお時間よろしいですか』
「悪いけど、今ちょうど先発の――」
『その件です』
伊丹は黙った。
『本日付で、選手を一名登録します』
「……誰を」
『午後、そちらへ伺います』
「名前を聞いてる」
一拍。
『Kです』
伊丹は真壁を見た。
真壁も、こちらを見ていた。
「……何?」
『登録名は、K』
冗談を言う男ではない。
だから余計に腹が立った。
「久世さん。朝からくだらないこと言ってる暇ないんだよ。今日の先発が飛んだんだ」
『存じています』
「じゃあ――」
『そのKを、本日のファルコンズ戦で先発させてください』
伊丹は電話を耳から離した。
画面を見る。
やはり、久世隆文だった。
「……もう一回言ってくれ」
『本日の先発は、Kでお願いします』
「誰なんだ、そいつは」
『Kです』
「そうじゃねえ!」
真壁が顔をしかめた。
電話の向こうで、久世は声の調子を変えなかった。
『手続きは終わっています。リーグ側との確認も済んでいます』
「俺は聞いてない」
『現場へのご連絡が今日になったことは、申し訳ありません』
「投げられんのか」
『投げられます』
「どこで投げてた」
『午後、資料をお持ちします』
「答えになってねえ」
『申し訳ありません』
伊丹は額を押さえた。
「……会長か」
沈黙。
それが答えだった。
伊丹は通話を切り、携帯を机に伏せた。
「誰です」
真壁が聞いた。
「知らん」
「先発は」
「その知らん奴だ」
「……はい?」
「Kだってよ」
真壁は数秒、黙った。
「外国人ですか」
「知らん」
「育成から?」
「知らん」
「二軍にいました?」
「いたら俺が知ってる」
伊丹は、伏せた携帯を見下ろした。
「親会社が、今日知らねえ投手を連れてきて、今日一軍で投げさせろってよ」
真壁は笑わなかった。
伊丹も、笑っていなかった。
*
午後一時四十二分。
久世は鞄を抱えて監督室に入ってきた。
その後ろに、選手が一人いた。
伊丹はまず、久世を見た。
それから、その選手を見た。
頭から顔までを、何かが覆っている。
ユニフォームの襟の上に、紅い色が見えた。
何だ、その格好は。
伊丹は口に出さなかった。
「監督、真壁コーチ。お時間をいただき、ありがとうございます」
「挨拶はいい。説明しろ」
伊丹は立ったままだった。
久世が鞄の留め具を外し、ファイルを一冊取り出した。
薄い。
受け取る前から分かった。
「これだけか」
「私からお渡しできるのは、それだけです」
開く。
紙が一枚だけだった。
登録名、K。
背番号89。
投手。
右投げ左打ち。
一八五センチ、八五キロ。
紙を裏返す。
何もなかった。
生年月日も、出身地も、出身校も、前の所属も書かれていない。
「……舐めてんのか」
「現場からはそう見えるだろうと、理解しています」
「なら、こんなもん持ってくんな」
伊丹はファイルを閉じた。
「どこで投げてた」
「お答えできません」
「何歳だ」
「非公表です」
「本名」
「非公表です」
「じゃあ何なら言える」
「リーグ側による選手資格、契約、本人確認の審査は、すべて完了しています」
伊丹は、選手の顔のあたりを指さした。
「で、その格好だ」
選手は動かなかった。
「まさか、それ被ったまま投げるつもりじゃねえだろうな」
「その予定です」
答えたのは久世だった。
「公式戦で通るのか」
「リーグには事前に使用申請を出しています。安全確認も含めて、承認は得ています」
「……事前に?」
「はい」
「俺は今日、初めて聞いたぞ」
「申し訳ありません」
「そういう話をしてんじゃねえ!」
伊丹は机を叩いた。
選手は、やはり動かなかった。
伊丹はそちらへ向き直った。
「お前」
紅い頭部が、わずかにこちらを向いた。
「今日投げろって言われてんのは、分かってるな」
うなずいた。
「できるのか」
また、うなずく。
「喋れないのか」
反応はない。
「喋らないのか」
少し間があった。
うなずいた。
伊丹は久世を見た。
「本人側の条件です」
「記者会見は」
「ありません」
「取材」
「受けません」
「ヒーローインタビュー」
「出ません」
「顔は」
「公開しません」
伊丹は鼻から長く息を吐いた。
「野球選手、やる気あんのか」
選手は何も言わなかった。
「……いい。ブルペン行くぞ」
「監督」
久世が呼び止めた。
「一点だけ。会長からのご要望は、本日先発させるところまでです。何球投げさせるか、いつ代えるか、次の登板を与えるか。そこは現場に任せる、とのことです」
「当たり前だ」
伊丹は選手を見た。
「十球で駄目なら、十球で代える」
Kは、うなずいた。
*
ブルペンに、人が集まり始めていた。
昼過ぎに突然現れた、正体不明の89番。
親会社の指示で、今夜先発するらしい。
その話がロッカーを一周するのに、十分もかからなかった。
「マジで投げんの」
「誰だよ」
「なんであんなの被ってんの」
「二軍にいた?」
「いないって」
騒ぐ若手たちの後ろで、大島忠宗は腕を組んでいた。
三十五歳。
フェニックスの四番を打つ二塁手だった。
若手を止めることはしなかった。
ただ、目だけは紅い頭部から外さなかった。
捕手の竹田哲平が、Kの前へ歩いていった。
「竹田。今日、受ける」
Kがうなずく。
「サインは普通でいいか」
うなずく。
「……喋んねえって、マジなんだな」
竹田は首をかいて、ホームベースの後ろにしゃがんだ。
Kがボールを握った。
一球目。
ミットが鳴る。
「……は?」
誰かが言った。
二球目。
また鳴る。
「一五二」
計測器の横で、スタッフが言った。
周りが静かになった。
「まだ肩、作ってる途中だよな」
「たぶん」
一五一。
一五三。
竹田がミットを下げる。
Kが投げる。
手前で、球が消えるように落ちた。
「スプリットか」
次。
外へ、大きく滑る。
竹田が体を伸ばして捕る。
真壁の目つきが変わった。
「もう一球、今の」
同じ球。
今度は、さっきより深く曲がった。
竹田が立ち上がった。
「球は本物です」
「捕りにくいか」
伊丹が聞いた。
「いや。ちゃんとしてます」
真壁も言った。
「適当に覚えた変化球じゃないですね」
「じゃあ、何で資料が空なんだよ」
「俺に聞かないでください」
大島は、黙って見ていた。
速い。
それは認める。
変化球もいい。
だが、球が速いだけで一軍の先発が務まるほど、野球は簡単ではない。
二軍で結果を出したわけでもない。
昨日まで、球団にすらいなかった男だ。
大島は何も言わず、ブルペンを離れた。
*
試合開始の一時間前、伊丹は監督室でメンバー表を書いていた。
一番から九番まで、いつもの名前が並ぶ。
投手の欄で、ペンが止まった。
一文字だけ書く。
K。
余白が、やけに広かった。
ドアが叩かれ、場内アナウンス担当の若い職員が顔を出した。
「すみません、読み方の確認なんですけど」
「何の」
「先発の……ケー、でいいんですよね」
「他に何がある」
「いえ。ケー、ですよね」
職員は自分に言い聞かせるように繰り返し、出ていった。
*
午後六時。
東条フェニックス対福岡ファルコンズ。
三万人近い観客の上に、夏の夜の湿った空気が溜まっていた。
大型ビジョンに、ファルコンズの打順が並ぶ。
一番、水城。
二番、大楠。
三番、野間。
四番、滝川祐希。
その名前が出ただけで、三塁側が揺れた。
四年連続四十本塁打。
日本代表の中軸を任されてきた強打者だった。
『東条フェニックス、本日の先発ピッチャー――K。背番号89』
一瞬。
球場の音が薄くなった。
マウンドへ向かう男を、誰もが見た。
紅。
黒。
金。
頭から顔全体を覆う、防具。
目元に黒いライン。
頬に、金で描かれた炎とも羽根ともつかない意匠。
口元まで、覆われている。
「……何あれ」
「顔、全部隠れてない?」
「Kって誰」
「始球式じゃねーの」
スマートフォンが一斉に上がった。
三塁側のファルコンズファンまで、画面を向けている。
竹田がしゃがむ。
先頭、水城。
サイン。
Kがうなずく。
足を上げる。
ミットが鳴った。
「ボール!」
大型ビジョン。
151 km/h。
「おおっ」
「速っ」
ざわめきの種類が変わった。
今まで観客が見ていたのは、覆面の男だった。
今の一球で、少しだけ。
投手になった。
二球目。
水城が振る。
左前。
無死一塁。
大楠。
初球からバントの構え。
紅い頭部が一塁へ向く。
投げる。
一塁側へ転がる。
Kがマウンドを駆け下りる。
速い。
拾う。
一塁へ。
「アウト!」
水城は二塁。
一死二塁。
野間。
152 km/h。
「ストライク!」
横へ逃げる球。
空振り。
一五四。
ファウル。
スプリット。
落ちる。
空振り。
「ストライク! バッターアウト!」
「Kー!」
どこかから、初めてその名前が飛んだ。
名前と呼べるのかも分からない、一文字だった。
『四番――滝川祐希』
三塁側の空気が変わる。
応援歌。
回るタオル。
立ち上がる観客。
誰もが知っている打者。
誰も知らない投手。
竹田は、外へ逃げる球のサインを出した。
Kが首を振る。
直球。
竹田は少し迷って、外角に構えた。
154 km/h。
「ストライク!」
滝川は動かない。
内角。
155 km/h。
滝川が振る。
遅れる。
ファウル。
球場が沸いた。
「いけるぞ!」
「三振!」
竹田がスプリットを出す。
首を振る。
外へ逃がす球。
首を振る。
竹田はKを見た。
もう一度、直球。
うなずく。
三球目。
一五四。
わずかに、内へ入る。
滝川が踏み込む。
今度は遅れない。
乾いた音。
左中間。
外野手が追う。
途中で、止まる。
三塁側スタンドが、一斉に立ち上がった。
二ラン。
0対2。
本塁側だけが、静かになった。
Kは、滝川が一塁、二塁、三塁、本塁と回るのを見ていた。
二塁の大島は、打球を見届けてから、一度だけKを見た。
何も言わず、定位置へ戻った。
Kは次の武藤を、直球、スイーパー、スプリットで三振に取った。
一回、二失点。
*
ベンチで、伊丹は腕を組んでいた。
「真壁。今の真っすぐ、悪かったか」
「少し中に入りました。球そのものは、悪くないです」
「だよな」
伊丹は短く息を吐いた。
いい球を投げる。
それだけを理由に、昨日まで球団にいなかった男をマウンドに放り込んだ。
現場を、何だと思っている。
二回。
先頭の江口に、フルカウントから四球を出した。
走者がリードを広げる。
Kがセットに入る。
長い。
走者が、さらに半歩出る。
投げる。
次の球で、走者が走った。
竹田の送球は間に合わなかった。
「セーフ!」
竹田がマスクを跳ね上げて叫んだ。
「長い! セット入ってから長えんだよ!」
Kがうなずく。
矢崎の二塁ゴロで、走者は三塁へ。
立花の中飛で、走者が還った。
0対3。
安打は一本も打たれていない。
四球と、盗塁と、進塁打と、犠牲フライ。
伊丹には、さっきの二ランより、この一点の方が腹立たしかった。
「どう見る」
真壁はマウンドから目を離さなかった。
「変です」
「何が」
「今のは、下手です。でも、投げてる球は、こういうことを知らない奴の球じゃない」
伊丹は横を見た。
「あのフォームも、スプリットも、横の球も、適当に覚えたもんじゃないです。ちゃんと誰かに作られてる」
真壁は首を傾げた。
「なのに、こういうところだけ抜けてる」
九番の川瀬を遊ゴロに取り、Kはベンチへ戻ってきた。
*
三回。
Kがマウンドへ上がるたびに、客席がどよめく。
一番、水城。
この夜、最初に安打を打った打者。
初球。
156 km/h。
二球目。
157 km/h。
空振り。
三球目。
スプリット。
「ストライク! バッターアウト!」
(速くすれば、打てない)
大楠。
一五七。
一五六。
一五八。
それでも、センター前へ運ばれる。
一死一塁。
野間。
一五八。
一五七。
ファウル。
ファウル。
高めを打ち上げる。
遊飛。
二死一塁。
『四番――滝川祐希』
三塁側が、また沸いた。
初球、横へ逃がす。
ボール。
一五七。
ファウル。
低めへ沈む。
見送り。
外角、一五六。
滝川が振る。
低い打球が、センターへ伸びる。
早川が下がる。
届かない。
フェンス直撃。
一塁走者が二塁を蹴る。
三塁も回ろうとする。
「ストップ!」
三塁コーチが両腕を広げた。
跳ね返ったボールが、ほとんど真っすぐ早川の前へ戻っていた。
走者は三塁で止まる。
滝川は二塁。
二死二、三塁。
五番、武藤。
一五八。
一五八。
一五九。
一球ごとに、球場が沸く。
「出るぞ」
「百六十!」
Kが投げる。
バットが空を切る。
ミットが鳴る。
大型ビジョン。
160 km/h。
球場が、爆発した。
立ち上がる観客。
拍手。
掲げられるスマートフォン。
大型ビジョンに映る紅い頭部と、その横の160。
名前も知らない。
顔も知らない。
年齢すら知らない男が、公式戦のマウンドで百六十キロを投げた。
Kはマウンドを降りた。
二死二、三塁を、しのいだ。
無失点。
ベンチでは、竹田だけが笑っていなかった。




