第28話 gamenexus編 最終話 屋上の小さな告白
I. 変わった朝
(青野冷・視点)
俺の日常のルーティンは、完全にトレースされていた。 同じ時刻に目覚め、同じ制服に袖を通し、同じ通学ルートを消化して教室のドアを開ける。
だが――ドアを開けたその瞬間、教室のざわめきがピタリと止まった。
ほんの一瞬。0・5秒にも満たない、完全な空白。
直後、ざわめきが再び再起動する。だが、そのノイズの質が明らかに違っていた。
以前の教室は、俺にとって透明な箱に過ぎなかった。誰も俺を見ていないし、俺も誰も見ていない。それが最も処理負荷が低く、安全な環境だった。
今は――無数の視線がある。好奇、驚き、戸惑い。そして、ほんの少しの畏敬。
『あいつが、あのZEROだったのか』という事実が、教室の空気の構成比率を完全に書き換えていた。
俺は何も言わず、極めて平坦な足取りで自席へと向かった。窓際の、いつもの席。
「……」 通路を隔てた隣の席で、戸田直樹が俺をちらりと見た。
いつもなら、このタイミングで「おいオタク、今日もゲームか?」と無意味な接触をしてくるのが日常の仕様だった。だが今日、戸田は俺と目が合ったのに――何も言わず、気まずそうに視線を逸らした。
それだけのことだ。
だが、それは戸田が今まで「自分よりカースト下」だと認識していた人間に対して、初めて態度を改めた(アップデートした)という明確なエラーログだった。
戸田の横では、小松拓也がちらちらとこちらを盗み見ている。
何か言いたそうに口をもごもごさせているが、結局その口が開かれることはなく、小松は慌てて俯いて自分のスマホを弄り始めた。
(何だ、あいつは) 俺が首を傾げるだけの、理解不能な行動。 ――小松が、プロゲーマーMOZEの熱狂的なファンであることを、俺はまだ知らない。
席に座ろうとした時、クラスの入り口を通り過ぎる影があった。瀬川陸だ。 彼は入り口でピタリと足を止め、俺の方を真っ直ぐに見据えて、低い声で言った。
「昨日の試合、観た。……ああいう勝ち方ができるのは、お前だけだ」
それだけ。 俺の返答など待たずに、瀬川は隣のBクラスへ向かって歩き去った。 大袈裟な敗北宣言などない。ただ一言だけ事実を告げて、背中を見せた。
だが、その一言に――俺は、瀬川陸という人間の芯の強さと誠実さのアルゴリズムを見た気がした。
「……そうか」 誰にも聞こえないボリュームで応えて、俺は席に着いた。
*
HRの時間。 担任の佐藤が教室に入ってきて、出席簿を開いた。教室を一巡する教師の視界(sight_range)が、俺のところで一瞬だけ止まる。
「青野くん」 「はい」 「今日は、いつもと顔が違うね」
それだけだった。 それ以上深く干渉することなく、佐藤はいつも通り出欠を取り始めた。
だが――俺は、あの一言の意味を正確にコンパイルしていた。佐藤は、俺がゲームの大会で優勝したという『結果』を褒めたのではない。俺の『内側』の変容を、目視で見抜いたのだ。
(……非論理的だ。俺は何も変わっていない。同じ教室で、同じ席に座っている)
だが――クラスメイトのざわめきが、はっきりと耳に入ってくる。誰かが笑っている声、教科書をめくる音、遠くの教室から聞こえるチャイムの残響。
かつてはすべて、排除すべき『ノイズ』だった。処理する価値のない不確定要素の塊。 今は――うるさい。だが、不思議と不快じゃなかった。
変わったのは、周囲の環境ではない。 俺自身の認識だ。
II. 背中を押す手
(赤井温・視点)
隣のBクラスの教室。 「はい、アウトー」 星野ひかりの容赦ない鶴の一声が、私のスマホ操作を完全に凍結させた。
「な、何がアウトよ! アタシは別に――」 「今朝から17回、スマホ開いては閉じてるの、数えてたからね。青野にLINEしようとしてるんでしょ」
「してないっ! ただ、その……!」
私は耳まで赤くしながら口ごもった。
昨夜の決勝戦のことは、もう学校中に知れ渡っている。配信の同時接続数は五十万を超え、ZEROとScarletの劇的な逆転優勝はSNSのトレンドを完全にジャックした。当然、「Scarlet=赤井温」「ZERO=青野冷」という事実も、クラス中の知るところとなっている。
「あーあ。昨日あんなに息ぴったりだったくせに、現実だとまだモジモジしてんの? ゲームん中では『任せなさい、冷!』とかカッコよく言ってたくせにさー」
「ひかり、声でかい! 聞こえるでしょ!」
隣の席で腕を組んでいた中村舞が、ドスの利いた声で割って入った。
「もう面倒くさいんだけど。アタシが今からAクラス乗り込んで、あの計算機男の首根っこ掴んで連れてきてやろうか?」
「ダメっ!」 私は即座に否定し、椅子から立ち上がって両手をテーブルに叩きつけた。
「……アタシが行く。アタシの口で、ちゃんと言いに行くから」
ひかりと舞が、驚いたように目を見合わせた。
以前の私なら、深く考える前に勢いのままAクラスに突撃していたはずだ。考えるより先に体が動く。直感に全振り。それが赤井温という人間だったから。
だけど今は、「勢いじゃダメだ」と自分の中で明確にストッパーがかかっている。
ひかりが、にっとイタズラっぽく笑った。 「了解。昼休み、屋上は誰もいないようにキープしとくから」 「え、何でそんなに手際――」 「聞くな。プロの仕事だから」
舞が「恋のアシストまでしてやるなんて、ほんと割に合わねぇんだけど」とぼやきながらも、どこか嬉しそうに廊下を歩いていく。
私は、胸のスマホをぎゅっと握りしめた。 (勢いじゃなくて。……ちゃんと、自分の言葉で)
III. 屋上の小さな告白
(青野冷・視点)
昼休み。 関係者以外シャットアウトされた、誰もいない屋上。
秋晴れの空が、どこまでも高く澄んでいた。
フェンスの向こうには街並みが広がり、遠くで電車の走る音がする。穏やかな風が、俺の隣に立つ赤いサイドテールを揺らしていた。
扉が開く音に、温が振り返る。 「……遅い」 「最適ルートである中央階段が混雑していた。接触を避けるため、やむを得ず迂回ルートを取った」
「あんたのそういう理屈っぽい所、ホント変わんないわね」
俺は温の隣に並び、同じフェンスにもたれかかった。
二人きりの屋上。仮想空間の中では、会話すら不要なほど完璧に呼吸が合う俺たちが――現実では何を話していいか分からず、明確なラグが発生している。この距離感の不器用さは、何百時間タッグを組んでもパッチが当たらないらしい。
「……で、用件は何だ。俺を屋上に呼び出したのはお前だろう」 「用件って……。そういう言い方するから、計算機男って言われるのよ」
温が苦笑する。少しだけ、二人の間の空気がほぐれた気がした。
風が吹く。温のスカートの裾が揺れ、彼女は両手でそれを押さえてから、少し真面目な顔つきになった。
「ねえ、青野。あんた……あの準決勝の後、ホントに2000万全部ガチャに突っ込んだの?」 「……事実だ」 「バカじゃないの」
温の声は、怒ってはいなかった。どこか微かに震えていた。
「あれ、あんたが一人で生きていくための、一番大事なセーフティネットだったんでしょ。もしURが当たらなかったら――」
「当たった。確率を捻じ伏せた結果がすべてだ」
「そういう問題じゃないのよ。あんたは――アタシと一緒に戦うために、自分の安全網を全部投げ捨てたってことでしょ。アタシよりずっと慎重で、計算高い青野が」
俺は黙った。否定する論理が見つからなかった。
「……お前のためじゃない。俺が、お前の隣に『対等な相棒』として立つための必要経費だ」
温は一瞬、俺の顔を見つめてから、呆れたように優しく笑った。 「出た。いっつもそう。照れ隠しで、自分のことみたいに理屈に言い換えるの」 「言い換えてない」
「嘘つき」
温の目には、とっくに俺の不器用なアルゴリズムの正体が見透かされている。
*
沈黙が落ちた。 穏やかな、だがどこか心地よい緊張感を孕んだ沈黙。
温が何度か口を開きかけては、閉じた。 深呼吸をして、また開きかけて――閉じる。 三度目に、自分に言い聞かせるように、小さく呟いた。
「……勢いで言えば、ラクなのに」
俺には、その一言の重さが正確に理解できた。
赤井温は、思ったことをその場で叫ぶ人間だ。考える前に動く。飛ぶ前に確認しない。それが彼女の天才性であり、最大の欠陥だった。
今――温は「勢いで言わない」ことを選んでいる。 それは、俺のために、不確定要素の塊である自分自身を制御しようとしているということだ。
温が、覚悟を決めた目で俺を真っ直ぐに見た。 大きな瞳の中に、もう迷いのフラグは存在しない。
「アタシ、これからもいっぱい計算外のことすると思うし、あんたの言うこと聞かないで飛び出しちゃうかもしれない」
声が少し上ずっている。頬が夕焼けのように紅く染まっている。だが、目は絶対に逸らさない。
「……でも。帰ってくる場所は、あんたの隣がいい」
秋の風が、その言葉を俺の聴覚に届けて、空へ消えていった。
俺は――数秒、完全に沈黙した。 頭の中で無数の計算が回りかけて、すぐに強制終了する。ここで損得の計算などしても何の意味もないことぐらい、とっくに理解している。
かつての俺なら「感情はバグだ」と即座に切り捨てていた。制御できないものは排除する。それが安全で、合理的で、正しい生き方だった。
だが、そのバグに俺のすべてを預け、そのバグに救われ、そのバグがなければ決勝の舞台にすら立てなかった人間が――今、俺の目の前にいる。
「……俺は、お前のように上手くは言えない」
言い訳のつもりではない。客観的な事実だ。 だが、事実の羅列だけでは足りないパラメーターがあることも、俺はもう知っている。
「ただ――お前が飛ぶなら、俺がどこまでもカバーしてやる。ゲームでも――」
一拍、間を置いて。
「――それ以外でもだ」
温の目が――大きく見開かれ、そして一気に潤んだ。 大粒の涙が、目の端に溢れる。
だが、彼女は泣かなかった。 代わりに、太陽のように眩しく、完璧な笑顔を見せた。
「言質取ったからね、計算機男! 撤回は絶対に許さないから!」 「……勝手にしろ」
俺の口元にも、かすかな笑みが浮かんでいた。自分でもよく分からない筋肉の動き(バグ)だ。だが、一切不快ではなかった。
*
「あ、そうだ。賞金のこと聞いた?」 温が唐突に話題のチャンネルを切り替えた。目元をさりげなく指で拭いながら。
「優勝賞金、一人5000万だって。あんたの口座、一気に黒字じゃない」
「……知っている。今朝確認した」
2000万を全額突っ込んでゼロに近づいた俺の口座残高が、一夜にして5000万円に書き換えられる。
かつて俺の「一人用ゲーム」の全財産だった2000万の、倍以上の数値。
「ちなみに準優勝は一人1000万だったらしいわよ。Night Houndたちに負けてたら、あんたの口座ホントにやばかったわね」
「……その場合の俺の総資産はマイナスだ。計算するまでもない」 「やっぱりバカじゃない!」
温が声を出して笑う。俺も――少しだけ、口の端が上がった。
5000万円という数字は、かつての俺にとっては「将来の安全保障」以上の意味を持たなかっただろう。だが今は違う。この数字は、温と横に並んで勝ち取った確かな証だ。俺一人では、決して手に入らなかったものだ。
「ま、これでしばらくはガチャに溶かす余裕もできたわけだし」 「二度とあんな額をガチャに突っ込むつもりはない」 「えー、つまんない。もう一枚ぐらいUR引こうよ」
「却下だ」
軽口を叩き合いながら、二人で空を見上げていた。 フェンスの向こうには、この街のざわめきが広がっている。
電車の音。車のクラクション。どこかの教室から聞こえる合唱練習の声。
――第一章。俺がこの学校に初めて来た日。 すべてが『ノイズ』だった。処理する価値のない雑音。人間関係は制御不能な変数であり、関わるだけエラーの元だと思っていた。
今――そのノイズが、不思議と心地いい。
「なあ、温」 「ん?」 「……うるさい街だな」 「何よ急に。嫌なの?」 「いや」
一拍。
「悪くない」
温がきょとんとした顔で俺を見て――やがて、ふっと柔らかく笑った。 「変な奴」
二人の笑い声が、秋の空に溶けていった。
(第一巻 完)




