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紅花鳥の間は、その名の通り鮮やかな赤系の花や鳥が描かれた応接間だ。
そこには、やや神経質そうな、だが端正な顔立ちの中年男性がいた。
顔の印象は違うが、その額や顎の骨格にジョージと似通ったラインを感じる。
この男はケイネス・アシュトン。フレアの伯父であり、ジョージの兄だ。
かつては当主の座を嘱望されていたが、道ならぬ恋愛に夢中になり、その資格を剥奪された。
その後、二度と表舞台に立たせないつもりで田舎の屋敷に押し込めていたが、分家筋の子爵に不幸が重なって後継者がいなくなってしまった。そこで急遽、彼が宛がわれたのだ。
過ちがあったものの、ケイネスは優秀な後継ぎ候補だった。
公爵になる為に幅広く勉強していたので、子爵を継ぐくらい何とかなった。
だが、過去の遺恨は大きく前当主と現当主には嫌われている。
分家の子爵だというのに、公爵令嬢のフレアに礼を執ろうともせず、座っている。ちらりと不遜な視線を向けただけだ。
会う前はカーテシー付きの挨拶も考えていたが、礼儀を欠いた相手に付きあうつもりはなかった。
「何の御用かしら、アシュトン子爵」
「挨拶もナシに随分とした対応だな」
「お忘れかしら? いくら子爵家当主とはいえ、卿は祖父のお情けでその地位にいますのよ」
フレアやユリアに子供が生まれ、成長したらさっさとお払い箱にされる運命だ。
そうでなくとも、他の分家筋にでも目ぼしい若者が成長したら、すぐさま子爵当主の座は挿げ替えられるだろう。
早ければ数年もしないうちに、その爵位を取り上げられる。
ケイネスが子爵になった当時は、フレアは王家に嫁ぐ予定でどうしても空白の期間が長くなるので彼にお鉢が回ってきただけである。本当に仕方なく、という判断だ。
ジョージは分家の管理など適当に済ませるだろうから管理を委譲は出来なかった。領地が荒廃する未来しか見えなかったのだ。
若い時ならばともかく、前当主の祖父は老齢。致し方なかったとはいえ不出来な次男を当主に据えた分、自分の体に鞭打って色々手を回していた状態で子爵領を管理は難しかった。領民が困らぬようにと苦渋であり、苦肉の策だった。
よって、ケイネスは結婚も許されず、養子も取れない。領地の為だけに臨時にその地位にいるだけである。
そのことは、ケイネスだってわかっているのだろう。眉間や鼻の周囲にぐっと厳めしい皺が寄る。
普通は未婚の令嬢より、爵位が低くとも当主である方が目上となる。
だが、実家のバックボーンを考えて、下位の当主が上位の令嬢を軽んじることはない。鷹揚に構えるくらいは許されるが、当然その家の格式を見て礼を尽くすのだ。
愚かしくも、二十年以上たってもまだケイネスは公爵家の人間だという頭が抜けていないのだろう。
祖父がまだ目を掛けているうちに、女と関係を切ればここまでぞんざいな扱いは受けなかっただろうに。
フレアがそっと嘆息する、ずいずいと遠慮なく茶を飲んでいるケイネスは気づかない。
久々の良質な茶葉や茶菓子が恋しいのだろう――何せ、不倫相手は頭の出来がよろしくないので、ケイネスは都合のいい時ばかり利用され、今も困窮している。
よく見れば、纏っている服の仕立ては良いがデザインが前の物だし、着古している。
こほん、と後ろに控えていた従者がワザとらしい咳をすれば、漸く本題に入った。
「聞きたいことが有る。エンリケ殿下との婚約が無くなったのは事実か?」
「あら、流石に田舎にも届きまして?」
否定しないフレアに、ケイネスは怒鳴りつけてきた。こういう嫌なところはジョージにそっくりである。
「何を考えている!? 相手は王族だぞ?」
「敬うべきモノもないハリボテに尽くすのは飽きましたの」
「王家を何だと思っている!?」
「わたくしに流れる薄いシェリダン公国王族の血を盾にすることでしか、国交すらできない無能。自国語しか使えない王妃と王子は、国内の公務すらまともにできてはいないではないですか」
「それを支えるのがお前だろう!」
フレアの言葉に被せるようなケイネスの怒号。その上から目線に呆れる。
少しだけ、貴族当主の座を間借りしているだけで随分偉そうになったものだ。子爵風情が、王家と公爵家の婚約破棄について何か言える立場ではない。
そもそも、フレアは精一杯尽力したが、それに調子づいて放蕩をしたのはエンリケだ。そして、イビリの一環でそれを助長させたのはグラニアだ。
そして真実の愛だのと言う、くだらない妄言でフレアとの関係を断ち切った。
マザコン殿下のことなので、プロムで婚約破棄をした理由に予想がつく。かつてのヘンリーとグラニアの真似をしたかっただけだ。そして、ミニスはその時の一番のお気に入りの女だっただけ。
だから、フレアにとってこの婚約破棄は想定内というか、計画通りなのである。
エンリケに複数の女性との関係があることは知っていた。中には一線を超えた女性もいることだって知っていた。あれほど口を酸っぱくして注意したのに、どうやら右から左へ素通りしていたようだ。
エンリケの女癖の悪さはずっと前から問題視されているし、当然ケイネスだって知っているはずだ。それを知っていて、よく言うものである。
「あら嫌ですわ。ケイネス伯父様ったら、何をそんなに怒っていらっしゃるの? わたくし、アシュトン公爵家の品格を保つために手を尽くしましたのよ? この婚約が流れようとも、我が家は名誉も財も傷つかず、失わないように準備は整えていましたの」
貴族たちも、市井の民たちもフレアに同情している。
ザルのように女にだらしないエンリケの過去の所業は、裁判の時に読み上げられている。
婚約破棄を発端に起こった浮気の清算は、王家の最大のスキャンダルと化していた。フレアは周囲に口止めをしていないし、フレアを思って口をつぐんでいた貴族たちは少なくない。ここぞとばかりにエンリケの酷さをあちこちで囀っている。
裁判所の傍聴席は常に満員で、その席を取ろうと貴賤や老若男女問わず画策をしていると聞く。
皆が王家の特大の醜聞を、娯楽として、あるものは燻った復讐心を満たすために来ている。
「だが、何故ユリアを追い出した?! お前の妹だろう! 異母だからと言って、まだ幼いあの子がどうして! 結婚は早すぎる!」
幼いと言われて呆れる。ユリアはもう十六歳の立派な淑女だ。婚約は勿論、少し早いものの結婚だって不自然でない。
追い出したなんて心外である。ユリアは喜んで嫁いでいったし、嫁入り道具はフレア用にあったものをいくつか用立てした。王族に嫁いで行ける程の物を持たせ、好みの旦那様をゲットしたラブラブ凱旋と言って欲しいくらいだ。
確かに急ごしらえではあったが、両家や当人の間では納得済みである。
ケイネスは勝手な事を言っているが、ユリアだって結婚願望はあった。今までジョージの持ってくる縁談が悪すぎて頷かなかっただけだ。
元娼婦の母と言われようが、ユリアは立派な公爵令嬢なのだ。しかし、欲に釣られやすい節穴が選んでは、まともな相手は用意されない。
賢いユリアは、フレアにまともな人を紹介してほしくてずっと『可愛い妹』でいてくれたのだから、フレアは『妹思いの姉』として筋を通した。
フレアはフレアなりにユリアを可愛がっているから、手を尽くしたのに酷い言い草である。
「おかしくなくってよ? アシュトン公爵家の娘が、婚約者が決まらないことが妙なくらいよ。ちゃんとユリアも納得して嫁いでいったわ――少々急になったけど、お相手は素敵と喜んでいたし、どうしてもエンリケ殿下との縁談を持ちあがらせたくなかったのね」
フレアがあっさりとそういうと、苦虫を噛み潰したような顔になるケイネス。
余程ユリアを公爵家に引き留めたかったのか。昔からケイネスはフレアには冷たいが、ユリアには甘かった。
その理由は知っているが――まだこの男はバレていないつもりらしい。
「この……減らず口を……お前のせいで、どれだけあの人が苦しんでいると……」
聞こえていないつもりなのか、怨嗟のような低音で唸るケイネス。恨みがましい目が炯炯と光っている。
フレアは心底軽蔑するようにケイネスを一瞥し、顔も見たくないとばかりに扇を広げた。
もう少し黙っていようと思ったが、気が変わった。
「お断りです。卿とグラニア王妃の気色悪い願望の為に、何故わたくしが犠牲にならねばならぬのやら」
フレアの言葉に、どす黒く染まっていたケイネスの顔が驚愕に震え、一気に青褪める。
その目が、何故それをと言っていた。
「知らないと思っていましたの? お粗末ですこと」
フレアは王子妃教育と王太子教育両方を詰め込まれていたので、王宮に寝泊まりすることも多かった。
グラニアの虐めで下女の真似事をさせられたことだってある。
だから、色々と情報網が広いのだ。
王子の浮気相手のレディ――メイドからデビュタント前のご令嬢、人妻や未亡人までかなりストライクゾーンが広かったことや、官僚の汚職、大臣のヅラ事情から、王の秘密の恋人や、王妃のたくさんの愛人たちに、王太后の持病まで腐るほどあった。中には、フレアだと分かっていて、色々と告げ口をしに来る人だっていた。
エンリケの異性へのだらしなさは、間違いなくグラニア譲りである。
「知っていますわよ? お祖父様――先代当主様に接見禁止されているというのに、未だに王妃と未練がましく通じ、密会を重ねていることを。挙句、子供まで作ったことや、髪色などが伯父様に似ていて、慌てて隠したことも」
歌うように罪をなぞるフレア。
酸欠の魚のように、ハクハクと口を開け閉めするケイネス。
これは墓まで持っていくと、ケイネスは決めていた。
ばれてしまえば、すべてが台無しになってしまう――だが、周りに祝福されて、二人の運命を紡ぎ直すにはこれしかないと考えだした秘策だというのに。
「フ、フレア……待ってくれ。お前はどこで、どこまで知っているんだ?!」
「さあ? 多分ほぼすべてではないかしら?
その娘を自分に惚れ込んでいる娼婦に預けて、お父様を騙してアシュトン公爵家の次女として遇させたこと? ユリアはお父様の娘ではなく姪で、本当はわたくしの従妹で、エンリケ殿下と異父兄妹であること?
わたくしとエンリケ殿下を結婚させ、ユリアに公爵家を継がせ、それぞれの子供を結婚させればグラニア妃と伯父様の血は孫の代で王族と貴族として交わる。そして、正しい婚姻として成立すると思っていたのでしょう」
本当に気色悪い話だ。
グラニアとケイネスの秘密の関係はけして公にできない。
王家としても致命傷だし、今度こそケイネスの首は物理的に飛ぶだろう。
秘める恋ならずっと慎ましくしまい込んでいればよかったのに、二人は自分たちの恋や愛が正しいという証明がしたいがためにフレアやユリアを巻き込んだ。
実際は欺瞞と虚偽に塗れ、証明もクソもない。
二人の画策とエンリケとフレアの縁談の利害が一致し、ユリアを公爵令嬢としてアシュトン家に入れさせることができた時点で、大分作戦は成功していた。
アシュトン公爵家側で、愚かなジョージを唆したのはケイネスの手の者だ。
だが、周囲は騙せても勘の鋭いフレアは気づいた。
ユリアの赤みがかった髪は義母やジョージと一緒に見せかけたケイネスのもの。グラニアが金髪だったからか、ユリアのピンクブロンドはケイネスの赤毛より明るい色合いだった。そして、ユリアの顔立ちはグラニアに似ていた。
幼いころからアシュトン公爵家の一族の肖像画を目にしていたし、王宮に出入りしていたフレアは、若かりし頃の王妃の肖像画もたくさん見ている。
だから、ユリアの両親よりも類似性のある人物を見つけたのだ。
ケイネスの乱心は、アシュトン公爵家ではタブーの一つだった。
だが、親切な親戚はどこにでもいるもので、頼んでいなくともせっせと教えてくれる。
だから、ケイネスとグラニアの学生時代の関係を知っていた。国王との恋愛に隠れていたが、二人はかなり深い仲だった。だから当時の当主は激怒して、ケイネスを廃嫡した。
グラニアはケイネスを選ばずヘンリーと結婚して、王妃となった。
だが、二人の恋愛は続いていた。
もともと王妃という淑女の鑑であるべき地位になったとしても、グラニアの性格が急変するはずもない。ゾエやヘンリーに散々怒鳴られても、常に愛人を持っていた。
あれは既に病気だ。『愛されている自分』を感じていたい、歪んだ承認欲求で壊れている。
そして、ケイネスが爵位は下がったとはいえ、子爵家の当主になったので王宮に出入りできるようになったのも大きいだろう。
焼け木杭には火が付き易いという奴である。
道ならぬ恋に二人は燃え上がり、結ばれない悲恋に酔っ払ったあげくこんなに気持ち悪い計画を立てたのだ。
狡賢いケイネスのことだ。問い詰めてものらりくらりと躱すし、グラニアは腐っても王妃である。純愛で結ばれたと人気を集めたので、国王のヘンリーだってグラニアを擁護するだろうから、フレアは黙っていた。
内心は怒り狂っていても、自分の立場を守るためなら王家は、フレアの訴えは黙殺する。
だからフレアは機を待った。
王家の力が失墜するこの時まで。
グラニアを支え、庇う知略家を、引きずり出すこの時を。
読み通りに姑息なドブネズミは排水溝から顔を出した。グラニアが絡むと冷静さを失うケイネスは、エンリケの失態から出た王家の醜聞に飛び出してきた。
フレアの婚約破棄に、ユリアの辺境伯との結婚――これはグラニアとケイネスの計画に反することだ。
いつもなら、こそこそと隠れていて、暗いところをうろちょろしながら逃げ回って尻尾を掴ませないのに。
「本当に気持ち悪いわ。自分たちが結婚できないからって、子供や孫でやろうなんて」
「ふざけるな! 私とグラニアの愛は真実だ! 運命の恋なんだ! グラニアはヘンリーに強要されて断れなかっただけだ!」
二十年前に学生だった――当事者であったケイネスにとっては、使い古されたラブストーリーでもなく、今も現役真っただ中のようだ。
祖父や祖母が優秀だったと嘆いていたが、ただ勉学の呑み込みが良かっただけで、中身はこうも幼稚とは。フレアはますます失望した。
「あら、そうなの? グラニア妃殿下は、たくさんの愛人を召し抱えておいでよ? よく王宮の可愛い小鳥たちが囀っているもの。侍従や楽師、庭師、文官、騎士、吟遊詩人、とあるご当主とのW不倫というのもあったわね」
グラニアが王宮に閉じ込められている理由は、この見境のない性格もあるだろう。
王妃になる前の王子妃の時点で、国際問題を起こしかけた人だ。社交場に美男子がいれば、婚約者や伴侶が居ようと絡みに行く。
見かねたゾエやヘンリーは、当然外交に彼女を出禁にした。
学生時代から恋多き女性だった。そして、恋人たちに「貴方が運命だ」と嘯いて尽くさせるやり方は、エンリケそっくりだ。
「嘘をつくならもっとましな嘘をつくんだな」
愚かな伯父は、自分は特別だと思っている。だから、フレアは現実を教えてあげることにした。
ケイネスにとっては人目を忍んだ秘めた恋のつもりでも、存外そうではないのだ。
「伯父様は隔月第二木曜日の恋人だそうですわ」
その言葉に、今度こそケイネスが真っ青になった。
王妃の宮殿にいる侍女や侍従は質が悪いのだ。フレアが笑顔で話しかければ、ペラペラとよく喋る。
普段から人使いの荒いグラニアに辟易しているから、少し優しく労わればすぐになんでも口を割る。グラニアの癇癪で首にされたメイドや騎士へ、次の紹介状を認めたことは一度や二度ではない。
ケイネスは愕然としていたが彼も薄々、彼女の本質や別の男の影には気づいていたのだろう。
グラニアにとって、ケイネスは『異性にもてる自分』を作るための付属品でしかないことに気付いていない。気づきたくないだけなのかもしれない。
「嘘だ! このクソガキ!」
「グラニア妃殿下が気の多いことは学生時代から有名でしょう? 蝶のようにヒラヒラと目ぼしい花に飛んでいくとお聞きしますわ」
娼婦は夜の蝶とも呼ばれる。グラニアを娼婦に見立て侮辱したことに、ケイネスは激昂した。
殴りかかろうと手を伸ばしたケイネスであるが、それはあっさりとフレアの従者に捻り上げられ、床に転がされる。
フレアはすうっと目を細めて、無様に転がるケイネスを見る。
それは肉親を見る目ではなく、罪人や羽虫を眺める温度だった。
「ああ、そうですわ。言い忘れてしまいましたけれど、お祖父様が近いうちにお見舞いに来てくださると言っていたの。わたくしからもお話を通しておきますから、親子水入らずでお過ごしになったら?」
フレアの祖父はジョージなんて目ではないくらい厳格な人だ。
だが、人情のある人でエンリケの婚約者になったフレアを心配していた。この婚約破棄の顛末にも大層立腹していた。
彼は、不倫や不貞、浮気といった類のだらしないことは大嫌いなのだ。当然ながら、ケイネスとグラニアの関係も怒髪天を衝くだろう。
未だに続いていた火遊びは彼にとっては孫であるフレアとユリアの将来すら巻き込んだ。孫娘たちを利用したこの計画は、余りに身勝手で顰蹙を買うことは間違いない。
ユリアはもう縁談が纏まったし、知らないのだ。きっと祖父の怒りの矛先は無様に転がる諸悪の根源にだけ行く。少なくとも、次に会えたとしたら子爵ではなくなっているだろう。
これはアシュトン公爵家と王家の醜聞でもある。
祖父がグラニアに対しては思うことは腹に抱え、王家に対して確執ができるのは明らかだ。
「地下牢へ入れておいて頂戴。貴族扱いはしなくていいわ」
フレアはそういって、扇を閉じた。
その後に、牢で気づいたケイネスが「グラニアが黙っていないぞ」と脅しのつもりか喚いていたが、その失言は一層に祖父だけでなく、一緒に来た祖母の怒りまでを買う羽目となった。
王宮の一角――と言ってもその中でも一番寂れた宮殿にミニスは入れられていた。
エンリケに会いたいと何度いっても、その願いはかなえられない。
ここ数日どころか、一か月近く会っていない気がする。
ここには暦が無く、ミニスは日記を付ける習慣もなかった。それに日付を数えていなかったので、時間の感覚がかなりあいまいだった。
ミニスはエンリケに誘われ、王宮に招待されてたまでは良かった。
その後は、エンリケの父――国王は酷く怒ってエンリケを罵倒するし、ミニスにも酷く冷たい。家庭教師はつけられたが、言うことが難しくて細かいし、ちんぷんかんぷんだった。
だが、何度もつかれる溜息や、冷たい視線がミニスの存在を目障りだと思っていることを伝えてきた。
最初は王子妃になるミニスへのやっかみかと思ったが、さざめく噂や陰口が耳に入るにつれて違うと分かった。
「え? あれがフレア様の次の婚約者?」
「まだ候補よ。基本的なマナーもお粗末で、話にならないそうだもの。付けられた講師たちが頭を抱えていたわ」
「さぞお美しいかと思ったら、野暮ったい方ね。品がないこと。野蛮で頭も悪そうだし、フレア様の代わりなんてできるの?」
「あれがアシュトン公爵令嬢の後釜? 冗談だろう?」
「聞いた話では学園でも成績は下の中で、語学は一つも単位を持っていないそうだぞ」
「ええと……男爵? 子爵? どっちだったかしら? ストーンズ家はどこの領地でしたかしら? 聞いたことがないわね」
落胆、失望、嘲笑、諦観。
ミニスを見るたびに、知るたびに滲む良くない感情。
エンリケが隣にいた時、恋人としていた時の栄華が崩れ去るようだった。
窮屈な生活に嫌気がさす。豪奢なドレスでやるカーテシーは、重くて動きづらくてとてもつらかった。綺麗な細いヒールの靴は、歩くたびに、ダンスのたびに万力で足を締め付けてくるようだった。
どんなにミニスが頑張っても、ミニスの前任だったフレアには劣ると呆れられるばかり。
一つ出来ても、当たり前だ。まだこれしかできないのかと言われる。
言外に伝わる「これでは代わりにすらならない」という期待外れの思惑。
それでも我慢して、頑張って耐えた。
そんなある日、お茶会が催され、そこには貴族令嬢たちや夫人たちも招待されると聞いて喜んだ。
エンリケがいないのは残念だったけれど、愚痴を聞いてもらえると思ったのだ。
だが、そこには更なる絶望しかなかった。
そこにいたのは十代から三十代くらいの女性たちばかり。
小規模なサロンなのかと思いきや、その顔は誰も彼も険しい。中には臨月の妊婦ではないかという、大きなお腹の女性もいる。周りの怒りを抑えているような顔や、憂鬱そうな顔を見るとミニスも不安になった。
神官らしき男性と、たしかナントカ大臣の長ったらしい名前の貴族の中年男性が来ていた。ミニスにはまだ、宮廷内の顔ぶれを覚えきれてはいなかった。
「さて、お気づきでしょうけれど――いえ、若干分かっていない方もいらっしゃるようなので説明しましょう。ここにいらっしゃった皆さんはここ三か月まで、エンリケ王子殿下と交際関係にあった方です」
「え!?」
ミニスは素っ頓狂な声を上げてしまった。
だが、冷ややかな周囲の視線に口を噤んでしまう。
「と言っても、私は孕み腹だとつまらないと、お腹が目立ってきたら捨てられたけれどね」
「わたくしなんて、結婚しようってプロポーズまでされた一週間後にこのチンクシャと婚約するって寝耳に水な話を聞かされたわよ?」
「あ、私は娼婦じゃないけれど、金払いというか、貢いでくれるから付き合ってただけでーす。お店出したくて、恋人だから王宮御用達とか、お墨付き欲しくて付きあっていただけ。別にお妃狙いじゃないし、そもそも本命じゃないので」
「アタシも言い寄られていただけ。弟と妹がいっぱいいて、いいもの食べさせたくて。それに流石に王子を無下にできないからね」
「酷い、酷いわ……エンリケ様ぁ。わたくしのことを、運命の人だと言ってくれたではありませんか……っ! 純潔まで捧げたのに……! お父様もお母様もお怒りになって、勘当されてしまった。これからどうしろと言うの?」
わあわあと最後の令嬢は泣き叫んで、突っ伏してしまった。
見ればミニスより年下と思しき、十三か十四という年頃だ。
一般的に、未婚の貴族令嬢が純潔を失うというのはまともな結婚が絶望的になると言っていい。
家によっては、結婚初夜で純潔を散らされてこそ、その貞淑さを証明するという風潮がある。
特に由緒ある家は、血統を重んずるのだ。
(エンリケ様、本当に浮気をしていたの……!?)
デビュタント前の乙女から、未亡人や町娘、娼婦までより取り見取りである。
会話からして、肉体関係があったのは明白の女性もいる。
女性関係の華やか噂は聞いていた。だが、所詮は噂だと思っていたし、王子なのだからモテると思っていた。ここまでだらしないとは思っていなかった。
「神殿の方がいるということは、アシュトン公爵令嬢からの不貞の慰謝料請求かしら? わたくしは殿下との仲は清算して縁を切ったし、ご令嬢も僅かな慰謝料でお許しいただくことができましたわ。お腹の子の処遇は王太后様に一任するという条件で、決まったはずですわ」
お腹が張るのか、腹部を撫でながら言う夫人。商家の未亡人だという彼女は、非常に婀娜っぽい美女だった。ミニスも胸は大きさには自信があるが、彼女はそれを上回るたわわな巨乳だった。
そして王太后が関わるということは、子供はエンリケとの間にできたと言っているようなものだった。
王妃のグラニアは基本、責任のあることや面倒ごとを引き受けない。そのくせ、エンリケの我儘を周囲に受け入れろと強要する。
知っていたのか、大臣が頷きながら話す。
「ええ、それは分かっております。貴女は王命で強制招集し、保護をして出産していただくために来ていただいたのが大きいのです。生れた子供を誰かが誘拐したら厄介ですからね。
他の方は、確認の為です。こちらがメインと言えます。この中で、エンリケ殿下と肉体関係のあった方は正直に申し上げてください」
「……わたくしはありました。エンリケ様に強く求められ、断れなかったのです」
聞けば、ずっと泣いていた彼女は田舎からでてきたばかりの男爵令嬢らしい。
エンリケにかなり熱心に口説かれ、気づいたら――と言っていた。
それ以外にもちらほらと出てきて、見てみれば半数以上がそういう関係にあったと分かった。ミニスは愕然とする。
あっけにとられ過ぎて返事をしていないのはミニスだけとなっていたが、それすら気づかないほどだった。
「我々は、病気の確認のために貴女がたを呼びました。アシュトン公爵令嬢から教えていただいた情報によると、エンリケ殿下は性病を患っておいでだそうです」
その場にいた全員が凍り付いた。
病気というのは忌避されがちだが、特に性病というのは外聞が悪い。未婚女性だろうが、既婚女性だろうが醜聞になるのは間違いなかった。
フレアがエンリケの奔放な社交にうるさく言い続けていた理由は、これもあったのだろう。だが、王家の顔を立ててなるべく伏せて苦言を呈していたのだ。
エンリケは全てを知っていても、自分が楽しければ万事を通す。のちのことは周囲に尻拭いをやらせればいいと軽く考えていたのだろう。その弊害が今ここに出ていた。
関係がないと言っていた中にも、実はあった人がいたのだろう。
「ご存知の通り、エンリケ殿下は性に奔放で、子種をそこら中にまき散らしていました。それだけ、女性と関係を持っていたということです。その中には場末といえるような環境の娼婦や、異性にだらしない女性もいたのです。余りに候補が多くて絞り切れませんが、そこから拾ってきたのでしょう」
「ちょ、ちょっと待って! アタシらはどうなるんだい!?」
「病気の症状が出始めるのは、多くは半年後から一年後です。その、アシュトン公爵令嬢の尽力もあり、何とかエンリケ殿下に薬を飲ませたり、治療をさせたりしてここ半年は五つから三つまで減らすことができたのです。
勿論、殿下には完治まで房事はご法度だとキツく言っていたのですが、あの方が守るはずもなく……」
飽きっぽいエンリケの女性関係は派手だった。まだその性病に気付いていないのは比較的新しい恋人たちだけだ。エンリケは基本、一年持たない。平均で口説き始めて別れるまで半年内で済んでしまう。
色々調査した結果、このお茶会という名の暴露大会となったのだ。
「関係を持っていらっしゃった方には、検診後、内服薬を処方させていただきます。余り放置しますと、将来の子供は望めなくなるだけでなく、局部に痒みや発疹、痛みが出てくるでしょう。放置すればそれは全身に回り、骨や筋肉、神経を侵して瘢痕のようなものが出てきて、顔が落ちくぼんで変形する恐れがあります」
「ひぃ……っ!」
誰かの喉から、真っ青に引き攣った悲鳴が出た。それはミニス自身だったかもしれない。
ミニスは関係を明言できなかったことを悔やんだ。
関係は持っていたが――言いたくなかった。それは、ミニスはエンリケと結婚したかったからだ。
処女ではないミニスは、その相手がエンリケであっても不貞が疑われる。
王室の規律として、王子妃は婚姻をするまで純潔であらねばならない。ヘンリーとグラニアが強引な結婚をしたことにより、更にその規律は厳格になった。
ミニスが純潔でないとバレれば、問答無用で王子妃の資格を剥奪されてしまう。
折角、色々我慢しているというのにという鬱憤と、性病に罹っていたらどうしようという不安が揺れ動いていた。
「ああ、ストーンズ男爵令嬢。貴女もエンリケ殿下と寝ていることは分っています。婚約破棄騒動後、紳士淑女らしからぬ放埓な夜を過ごされたようで」
今まで黙っていた神官が、後ろを通り過ぎざまに言い放った。
その声には隠し切れいない侮蔑が込められていた。
略奪愛をしたことか、性病に罹ったことか、今に及んで黙っている太々しさにか――そのすべてにだろうか。
背筋が凍り、ぞっとする。
(バレていた? いつ? どこでどうやって!?)
きっと、ミニスのふしだらな貞淑は王太后に伝わるだろう――とっくに伝わっていたが。
ぐるぐるとそんな疑問が頭の中で回る。だが、答えは出るはずもない。
「い、いやあああああ!」
ミニスは目の前が真っ暗になり、そのまま卒倒した。
牢に居座っていた、醜い言葉ばかり喚く鳥は祖父が引き取ってくれた。
グラニアの馬鹿な妄想を具現化してしまうブレインは消えた。これから、グラニアはヘンリーに隠れて画策することができず、二進も三進もいかなくなるだろう。
もともと、その場だけを逃れようと、いい顔をして平気で破綻した嘘を吐く人だ。
その嘘つき癖のせいで、国王のヘンリーは何度も足元をすくわれている。
王家の求心力が回復しないのは、いつまでもあれを王妃に据えているのも一因だろう。
既にヘンリーの寵愛はグラニアにはないが、真実の愛と高らかに謳って結婚してしまったので、その関係を公にできない。政略的な意味でも娶ることができず、第二妃すらいない。
それが更に王族の能力基盤を脆くさせていると分かっているが、ヘンリーは自縄自縛に陥っている。
フレアは待っていた。
ゆっくり丁寧に数多と仕組んだ細い糸が、彼らの武器を絡めとり、足かせとなり、腕をもぎ取り、その首を切り落とす時を。
ずっと都合の良い道具として信用していた――見下していたフレアが、その裏で何を考えているとも知らず、のうのうと平穏を貪っていた彼らを仕留めるその時を。
華麗に、凄惨に、残酷に、派手に、陰湿に、大胆に。
幸い、彼らはフレアが心を痛めるような良識は欠片も持ち合わせておらず、惜しむような才覚はなかった。
彼らがフレアを虚仮にして利用していたように、フレアは彼らをただの実験サンプルに程度にしか見ていなかった。
丁度良く全てが整っていた。素材が、器具や機材が揃っていた。理論も想定もしていた。やってみたかったけれど、アレを必要と切に願う存在は大していなかった。
宗主が変わろうと、生活が保障されていれば民は気にしない。
古い袋に、新しい葡萄酒は入れてはならない。
折角入れても、古い袋は破れてしまうからだ。
(神殿も頑張ってくれているけれど、もう一押しね)
フレアは読んでいた本を置く。女性の横顔のシルエットが描かれた表紙は、ここ数年周辺国で流行っている。
ブランデルのおとぎ話よりいい加減なラブストーリーとは違い、淡々ととある女性の人生の足取りを辿るように展開される物語だ。
淡々としているのに、そこが生々しさを浮き彫りにしていると人気なのだ。
視点は女性で構成されており、時折変わる。見ている女性も、見られている相手も女性なので、表紙が女性のシルエットなのだ。
この本はブランデルでは手に入らない。何せ、ヘンリーが王子時代に起こした婚約破棄で、どこの貿易も必要最低限の取引すらやせ細り、娯楽類は殆ど入ってこない。
フレアが飲んでいる紅茶もそうだ。貴族にはごく普通の嗜好品だが、ブランデルで流通しているのは国産ばかり。
幼いころから外交の盾として働かされていたフレアは、個人的なルートをいくつも持っている。
ふ、とフレアが綻ぶように笑みを浮かべる。それはエンリケたちが氷のようだと言うものとは違う。雪解けを齎す、春の息吹のような笑みだ。
「いい香りね。味も素敵。やはりランファンの紅茶は薫り高いわ」
「流石はフレア様。御明察でございます。お気に召したようで、喜ばしい限りです。本日の茶菓子のスノーボールも、人気のレシピを再現したものです」
いつもの壮年の執事ではなく、二十代半ばほどの青年の従者が一礼する。
本来の身分は客人として来ているのだが、従者の真似事をして遊んでいる。本物従者たちは追い出されてしまったが、彼は目端が利くし、器用に立ち回っている。
フレアとしてはゆっくり観光でもして欲しいところだが、彼はこちらの方が楽しいらしい。その理由は、察していた。
しかしフレアは淑女の微笑で本心をそっと隠し、いつものように振舞うのだ。
エンリケの長年の不貞行為と、大々的に行った婚約破棄の賠償金は莫大となった。
せめて、密やかに解消を打診して内々にすませば国庫が空になるだけで済んだ。
王家の都合と、父親の強欲さにより六歳の時にフレアは婚約させられた。それから十二年間にも及び高位貴族令嬢を拘束し、虐待とまで言える厳しい指導と、大量の公務の押し付けも露見してしまい、まともな婚約は既に望めない。
どこからかゾエの苛烈な教育と、グラニアの陰湿な苛めが露見し、貴賤問わず顰蹙を買った。それを止めなかったヘンリーも、冷ややかに見られている。
原因であるエンリケの風当たりは強くなる一方だ。彼を王にするな、王位継承権を剥奪し、王族から抹消しろと民が蜂起している。
ブランデルのロイヤルファミリーの醜聞が次々と明るみになり、ゴシップ合戦が繰り広げられる。
通常の執務や公務すら遅延しているのに、国民の王家への不信は募り、その対策に追われていた。一方で、フレアを擁護する動きは一層に強くなり、残る裁判で、ますます王家側は不利になった。
北の塔に閉じ込めたエンリケは反省の色を見せず、気が付けば暴れだし、女を寄越せ、酒を寄越せと腐っている。その様子を見て、王宮内の武官・文官問わずますます忠誠心は低迷していた。
現国王のヘンリーやその王妃グラニアの人気を支える層は、上級貴族より下級貴族や平民だ。
それはランファンの姫君ではなく、身分の低いグラニアを選んで結婚したからだ。譜代臣下を始めとする上級貴族から顰蹙を買っていたが、名もなき民衆という数で地位を守っていた。
そしてそれは今、フレアやアシュトン公爵家に奪われた。
民思いの王が即位したと思ったら、景気は悪くなるばかりだし、王子の素行は最悪。彼の女癖の悪さは、貴族の世界だけでおさまらなかった。城下に行っては女性を強引に口説き、娼館で乱痴気騒ぎを起こす。今まで黙っていた者たちがしゃべり、ここぞとばかりに噂は拡大していった。
グラニアは自分にだって人脈があると言うが、それは王妃という立場やグラニアのちやほやされてのぼせ上る性格を知っている者たちが、甘い汁を啜りに来ているだけだ。
おこぼれが無くなれば、あっという間に雲隠れするのは想像できた。
ゾエはエンリケの件で心身共に参ってしまっている。無理が祟ったのもあるだろう。
息子に続き、孫までもとグラニアに怨嗟を吐いているそうだ。
内乱寸前のブランデルではあるが、ヘンリーは自分の行いのせいで周辺国から孤立していることを知っている。下手に助力を求めれば、内政干渉は免れない。
そうすれば、ブランデル王家は真っ先に淘汰されるだろう。
醜聞と借金に塗れたブランデル王家は、鼻つまみ者だ。
ここまで来てしまえば悪しき古い王家を排斥し、新しい王家を擁立したほうがいいだろう。新時代が始まるのだと銘打ったほうがずっと国民を纏めやすい。
だが、ヘンリーにもプライドがあった。
「やっと、やっとここまでやってきたんだ。偉大な王として名を残すために、民に寄り添う王として名を残すために努力してきたんだ……! 愚王などではない! そんなの認めない……! 全てはグラニアが、エンリケが悪いのだ……!」
玉座でぶつくさと譫言のように繰り返す姿に、宰相は饐えた目で見下ろしている。
そこには長年苦楽を共にし、国を治めてきた家臣はいない。
主君を見る目ではなく、羽虫か汚物を見るような種類だったことに、ヘンリーは気づいていなかった。
ヘンリーはもう、民衆に愛される王ではなく暗君であった。ブランデルの歴史に名を残すとすれば、愚王としてである。
虚栄によって作り出された、ヘンリーの名君像は崩壊している。
既に、断頭台は近くに忍び寄っていた。
夜も更けた王宮で、健診結果を見たミニスは愕然としていた。
二つの性病に罹っていた。完全治癒には三年はかかるらしく、それまでは性交だけでなく、粘液接触になるような深い口づけの類も禁止事項に入っている。
もし安全に子供が産みたいのならば、五年は待った方がいいとまで言われてしまった。
その頃には、ミニスの滑らかだった頬や白い首筋に赤い発疹ができ始めていた。
苦くて臭い薬湯を毎日飲んでいるが、なかなか消えない。本当はこんなものを飲みたくないが、顔がゾンビのように崩れてもいいなら飲まなくていいと突き放された。
「うう……っ! これじゃ結婚できない……っ! お姫様になれない! お妃様になれない! 嘘つき! 嘘つき嘘つき嘘つき! すぐに結婚できるって、お妃様にしてくれるっていったのに! お姫様みたいなドレスと宝石を毎日くれるっていったのにぃ!」
発疹は気温が上がったり、体温が上昇したりすると凄まじい痒みを伴った。
ミニスが度々激情に駆られると、血流が上がり体温もあがる。その発疹は全身に広がり、ミニスはストレスもあって掻き毟った。
理想と現実の差は開くばかりで、ミニスはパンク寸前だった。
そこには王子を射止めたはずの可愛らしい少女はおらず、鬼女と言わんばかりの形相だ。爛々とした目をギョロギョロと動かし、掻き毟って血まみれの肌と服も相まって亡霊のようだった。
日に日にその抑圧されたストレスは膨れ上がった。
いっそ、全てを諦めればよかったものの、ミニスは一度掴みかけた夢に縋り続けた。エンリケに負けず劣らず、ミニスもまた何処までも身の程知らずで強欲だった。
「帰りたいよ……! 家に帰りたいぃいい! もぉ、こんな生活いやあ! 出して、出してえええ!」
ついにミニスの精神は決壊した。
今までの鬱憤が爆発し、ミニスは暴れ出した。バンバンとガラス戸をやたらめったらに叩きまわる。
髪を振り乱し、裸足で走り、ガラスをたたき割りながら暴れまわる様は異様だった。
真っ暗な廊下で、月明かりにガラスの破片が僅かに輝いている。血と涙と汗で濡れた頬に、髪が張り付いている。
だが、ミニスはもうすでに帰るところはない。婚約破棄の渦中の人物であり、原因の最たる一人であるミニスの実家、ストーンズ男爵家はお取り潰しになった。
慰謝料が払いきれずに、夜逃げしようとしたところを捕らえられ、両親は投獄された。裁判後、慰謝料を少しでも払うために労働奴隷として鉱夫や娼婦になる。ミニスには兄弟はいたが、彼は両親とは違い関与は浮上しなかった。それでもはした金で奉公人として働かされている。
何も知らないし、考えも寄らない。
ミニスはいつも自分のことばかりで、家族がどうなったかなど想像すらしていない。
ミニスが嫌々勉強し、周りに嘲笑されている間、彼女の家族は地獄へ落とされていた。
「出してよぉ! わた、あた、あたしは王妃になるのよ! なんでこんなところにいるのよ! エ、エッエンリケ様はどこなの!」
幽鬼のような有様だった。酷い吃音交じりの声で甲高く叫び、一層に髪を振り乱す。
その悍ましいありように、騒ぎを聞きつけてやってきたメイドは腰を抜かした。
メイドの手から鍵を奪ったミニスは、外を目指して走り出す。扉を開ければ螺旋階段があり、その一番下に外へとつながる扉があった。
そこから明かりが漏れている。
「ああ! そ、そと、外だわ! やっやややった! やったわー!」
狂喜して駆けだしたミニスは足を滑らせた。
暗い中でランプも持たず。ガラスで足を切って濡れていたミニス。人の血は滑るのだ。既に精神は錯乱状態であり、足取りも危うかった。
原因はたくさんあったが、なるべくしてなった。起こった事故。
長い階段を転げ落ちたミニスは、全身を強か打ち付けて痣と打撲、骨折だらけになった。
一命はとりとめたが、それは幸いと言っていいか分からない。首から腰を強く打ち、歩くことも喋ることもできなくなったのだ。顔を強く打ち付けた影響で口が上手く動かせなった。薬を飲み込むこともできないが、発疹と共に凄まじい痒みは全身に広がっていく。
王都から遠く離れたとある屋敷で、月の女神の如く麗しい佳人がバルコニーに佇んでいた。ネグリジェにストールを羽織っただけの簡素な装いだが、その気品は陰ることはない。
一枚の紙片を詰まらなそうに一瞥し、部屋に戻る。バルコニーの手すりにいた大型の鳥は彼女が背を向けるのを合図のように飛び去った。音もなく、闇夜に消える。
彼女が暖炉の中に紙片を投げ込むと、数秒だけ室内が少し明るくなる。
「……思ったより持たなかったわね。役者が一人減ってしまったわ」
そう言ってベッドに入り、何事もなかったように寝入ったのだった。
北の塔へ幽閉されていたエンリケは、ミニスが足を滑らせてからだいぶ時間が経ってからその事故を聞いた。
もともと怠惰で根性のないエンリケは、北の塔の脱走防止の術式に早々に根を上げていた。最初は暴れていたものの、慣れてくるとずっと寝台でダラダラ過ごし、両親である国王夫妻に早く出してくれるように要求ばかりする毎日だった。
今回は女を寄越すように言っても通らないので、ミニスを連れて来いと言ったら、その事故のことを聞いたのだ。
浮気性であるエンリケは既にミニスに対して執着しなかったのか「へえ」とどうでもいいように返事をした。だがややあって「可哀想だから見舞いにいってやりたい」と、露骨にこの塔から脱出する口実にしようとする始末だった。
心配するそぶりは見せず、見舞いのためにやたらきらびやかな衣装を求め、見舞いの品を見繕うという名目で繁華街へ行きたいと言っている。
寝たきりの人間に何を贈るというのだ。宝石やドレスなどお呼びでない。
王族なのだから、繁華街に赴くより商人を呼び寄せるのが正しい。だが、エンリケは外に出る口実とともに、ナンパをしたいという魂胆が透けて見えた。
この状態でも女漁りに余念がない。ある意味感心する。尊敬は全くできないところではあるが。
「そうだ、そろそろデビュタントの夜会が行われるだろう? 近年のデビュタントは装いが地味で味気ない。俺が目ぼしいレディにドレスを贈ってやろう!」
「エンリケ殿下。貴方は外出が許されない立場です。買い物もできません。大人しく謹慎していてください」
名案とばかりに馬鹿馬鹿しい妄言を吐くものだから、誰もエンリケに同情しない。
デビュタントの少女たちだって、そんなものを贈られても恐怖と迷惑でしかないだろう。そもそも、エンリケがその夜会に招待されると思っているのだろうか。
貴族界隈では、この放蕩王子がデビュタントを食い荒らしていることは有名だ。
目を付けられないように、わざと不細工に仕上げてデビュタントの夜会に送り出される令嬢もいる程である。
勿論、それは今の賠償問題に関わっている。王家を散々悩ませて、貴族と王族の距離を乖離させている原因だ。
誠意を見せるためには大金を支払わなくてはならないが、もう王家の国庫はカツカツである。首が回らない。ない袖は振れない。かといって出し渋りをすれば、王家への不信感は強まり、反発心は増すばかりだ。
現役親世代と未来の子世代の両方に嫌われた王家は、立ち行かなくなっている。
甘ったれの王子は、自分が何かしなくてもすべてフレアやグラニアが都合よく動いてくれたので、そういった考えが最初からない。
全く自分の今の立場を理解していなかった。
「もう謹慎は飽き飽きだ。全く、フレアもいつまで意地を張っているんだか。そんなことをしているからモテないんだよ」
監視の騎士は、フルフェイスの鉄兜の奥で顔を思い切り顰めた。
エンリケのバカ騒ぎで王家の機能はマヒしている。そして、それをいいことに国内外から、フレア・アシュトン公爵令嬢を是非妻にと縁談が殺到しているのだ。
今まで、フレアをブランデルに捕まえるために国王ヘンリーや王太后ゾエが、握りつぶしていたがそれもできなくなった。
フレアは自ら筆を執り、一つ一つに丁寧に返信をしているというが、彼女の返事を書く速度を上回る量の釣書の山があるという。
もともと才色兼備であるフレアを欲しがる国や家は数えきれないほどあった。それが一気にフレアを獲りにかかったのだ。
勿論、引く手あまたのフレアは、不良債権の極みでしかないエンリケとの復縁するつもりは全くない。
「まあ俺は寛大だし? アイツが土下座して許しを乞うなら考えてやらなくもない。正妃にはしてやらんがな!」
だが、そういった情勢に疎く、無駄に自信家のエンリケは知る由もない。
勝手な妄想で、フレアは切実に復縁を願ってウジウジ引き籠って拗ねていると解釈している。
「然様ですか。それより今日のお薬はお飲みになりましたか?」
「あんなマズイものをどうして俺が飲まなきゃならん。もう発疹も痒みもないから要らんだろう」
医者が処方しているというのに、素人判断で何を言っているんだ。
騎士は呆れていたが、監視兵は眦を吊り上げて問い詰めた。トイレに捨てていたという。道理でなくなっているはずだ。何度も似たような病気にかかっているらしく、馬鹿なエンリケなりに姑息な隠滅方法を覚えたらしい。
エンリケは偏食で、苦い味やすっぱい味が大嫌いなのだ。
いくら王家の圧力があったとはいえ、フレアがこんなのに十二年間も耐えられたものだ。
騎士達は密やかに目配せをしながら、エンリケの妄言を聞き流すことにした。
その頃、フレアは別荘に居なかった。というより、ブランデル国内にすらいなかった。
釣書に返事を書き続けていたところ、客人――ハインリヒ・グランマニエの祖国であるグランマニエ帝国に招待されたのだ。
彼は皇弟にあたる第四皇子だが、実力主義のグランマニエ皇族の中で、頭角をメキメキと現している。
グランマニエの皇子や皇女の数え方は特殊なのだ。前の後継争いに若年過ぎて入らなかった皇子や皇女で王位継承争いに参加する場合、皇帝の養子となるのだ。そこから年齢順に数えていく。もし、養子を拒否すると継承権を剥奪される。
何故こんなことをするかと言えば、グランマニエの王位継承争いは完全実力主義。
より良い皇帝を輩出するのが、歴代の皇帝の手腕の一つとされる。たとえ、その皇帝がぱっとしない統治でも、その次代が華々しい功績を残せば、それを選んだ前皇帝の評価は見直される。その逆もまた然りだ。
よって、自分が愚王扱いされないためにも、皇帝はシビアに公平に後継者を選ぶのだ。
四番目であって有力されているハインリヒは、相当な実力とカリスマを具えていると言えよう。
そんな皇子殿下直々のエスコートで、大陸屈指の勢力を持つ強国からの誘いだ。弱小国のブランデル王国貴族が無下にできるはずもない。
(戻れなくても……いいか。神殿はグランマニエにもある。謝礼の寄付金を乗せれば、こちらに慰謝料を持ってきてくれるでしょう)
黄金色のお菓子に弱い生臭坊主の多い神殿だが、味方にすれば心強い。長年神殿を蔑ろにしてきたブランデルという国は確執が多いこともあり、王家は手出ししにくいだろう。グランマニエに拠点を移し、それなりに過ごしやすくするには、多少の出資は必要経費である。
ずっとアシュトン公爵家に置いていたら、間違いなくジョージが手を出すだろう。
ちょっと憂鬱になったフレアに、ハインリヒが明るい声で話しかけてきた。
ここはグランマニエなので、当然グラン語だ。ブランデルにいた時はブランデル語で、旅の時は共用語のフォトン語を話していた。どれも堪能で、彼の教養高さを窺える。
話題も豊富だ。ウィットに富んでいているので、時間を忘れてしまう。
「フレア嬢が我が祖国の紅茶をお気に召したと聞いたので、色々取り揃えてみました」
移動中に零した言葉に、メイドや侍従が気を利かせたのかもしれない。
グランマニエは国土が広く、様々な名産品がある。
茶葉もそのひとつであったが、現国王夫妻の過去の暴挙によりブランデルではなかなか手に入らないのだ。
「ありがとうございます。嬉しゅうございますわ。ハインリヒ殿下の心遣いに感謝いたします」
その心遣いは素直に嬉しく、自然と笑みがこぼれた。
彼は聞くのも喋るのも上手なので、素直に会話するのが楽しい。正直、最近会話したジョージやエンリケは理不尽が多く、無茶苦茶過ぎてとにかく神経がすり減った。
「いえ、フレア嬢は前々から働き過ぎだと思っていたのです。我が国では是非ごゆるりとお過ごしください。あと数日もすれば、アシュトン公爵家の使用人たちも全員揃いますから」
従者の御仕着せではなく、異国情緒を感じさせる長い法衣をまとったハインリヒはにこやかに話す。
やや猫っ毛の白銀の髪と黄金色の瞳が眩い。色白で細身だが、その身からは力強い生命力が溢れていて儚げとは無縁である。
神秘的な美貌は、見る人を引き込む力がある。人懐っこい笑顔を浮かべると、それは一層の魅力に変わる。
自分の見せ方を分かっているとフレアは静かに感嘆した。
「もしグランマニエを気に入っていただけたなら、是非とも私と共とともに人生を歩んでいきたい。貴女ほどの素晴らしい女性を、私は知らない。貴女を蔑ろにした男の気が知れないな」
「まあ、お言葉が上手な方ね。……嬉しいけれど、時間を頂けるかしら。まだ誰かと結婚を考えるには時期尚早だと思いますの」
「ええ、貴女の心の傷が癒えるまで待ちます。その間、是非グランマニエを楽しんでください。ブランデルの由緒正しき大貴族と、シェリダン公国の誇り高き青い血を引き継ぐ貴女を皆歓迎するでしょう」
下らない言葉遊びだ。フレアも、アシュトン公爵家もグランマニエ皇族に本気で求められたら拒む術はない。
権威の失墜する前のブランデル王家がフレアを幼いころから雁字搦めに囲い込んだのは、そのためだ。
ハインリヒはすさまじくやり手だ。フレアの婚約破棄騒動を聞いて、その身一つではるばるブランデルまでやってきた。誰をも出し抜いて、数ある別荘の一つに隠れていたフレアの前にやってきたのだ。
恐ろしい程の行動力と胆力である。
この勘の鋭さが、彼が皇帝候補として名高い理由の一つだろう。
好機と在らば逃さず、臆せず動くこの決断力は、人の上に立つためには大事なことの一つだ。
今の皇帝トルハーンは、尊敬する皇太后の薫陶を受け継ぎ、シェリダン公国の王族を愛してやまない。そして、愛妻を貶めた憎きブランデル王家を憎みつつも、その犠牲になっているフレアを憐れんでいた。
遠縁とはいえ、フレアもまたシェリダンの姫と言える。
フレアは幼少期から突出した聡明さを持ち、その優秀さ際立っていた。そして食い潰そうとしているのが憎きブランデル国王夫妻とその愚息というのが余計に惜しかったのだろう。
だから、ハインリヒは弱小国の貴族であっても妻に娶ろうと考えている。
そう思いつつも、フレアはどこか寂し気に微笑んだ。
「貴方は歓迎してくださるの? ハインリヒ第四皇子殿下」
「は?」
てっきり、そつのない笑みが帰ってくると思ったらハインリヒはぽかんとした。
良くできた優美な笑みがべちゃりと床に落ちた気すらする。
フレアが不思議そうに見つめると、白皙の美貌が茹蛸のように鮮やかに紅潮していく。
「……するに決まっている! 私が、何年貴女を攫う機会を狙っていたと思うんだ!」
びっくりするほど真っ向から吐露してきた。今度はフレアがぽかんとする番だった。
自分でもらしくないほど大声を出したことに、ハインリヒも気づいて口を押さえる。だが、出た言葉は戻らない。
「出会ったときは随分可愛らしいレディが来たと驚いたよ。皆は才能だというけど、惜しみなく努力と研鑽を重ねる君がずっと傍にいてくれればと思っていた……既に婚約していたと知っていたから、無いもの強請りだと諦めるしかなかった」
観念したようにハインリヒは熱烈に心情を吐露する。
エンリケはやたら愛だの恋だのと高らかに謳っていたが、全く言葉の重みが違う。
エンリケは非常に軽薄なので、何度も使い古すと言葉の価値が軽くなるタイプだが、ハインリヒは普段は程々であるが、ここぞという時に取っておいて怒涛に畳みかけて重みを増すタイプだった。
質の悪いジョークを言う人ではないとフレアも知っていた。何より、いつもの飄々とした笑みが消えたハインリヒは、真摯に真剣にフレアを見つめている。
まだ赤みの引かない顔には、いつにない情念を帯びている。
「あの国は、じきに反乱や戦火に脅かされるだろう。君という特大のバランサーがいなくなったんだ。君の価値は、思っている以上に大きい。ここには、フレアを脅かす人間を入れやしない。どうか、安心して休んでくれ」
そういって、ハインリヒは真っ赤な顔を隠すように踵を返した。後ろから見える耳も赤い。
ぼんやりとそれを眺めながら、フレアは思う。
(エンリケ殿下の死にざまを見れなくなってしまったわ)
きっと、とびきり無様で、滑稽で、愚かな最期を見せてくれるだろう。
あの途方もなく愚鈍なピエロは、自分の立場を理解できるだろうか。
周りを犠牲にしてできていたエンリケ主演の劇場は終わった。彼は主人公であっても、ヒーローではない。何処までも滑稽な道化だと気づいたらどんな顔になるだろう。
それを楽しみに、一生懸命頑張ったのに。
ああ、なんてことだろうか。
「……それよりも気になることができてしまったわ」
初めて生きているのを実感したように、フレアの鼓動はトクトクと小さく高鳴っていた。
ブランデル王宮では騒ぎが起きていた。
王太后ゾエが倒れたのだ。数日間、意識朦朧としていたが目覚めることなく息を引き取った。
高齢だったが、かくしゃくとした女傑だった。早くに夫を失い、若くして王として立つこととなったヘンリーを、厳格であってもしっかり支えてくれた。
しかし長年の心労と、未だになくならぬ王族としての激務が堪えたのだろう。そして、それにトドメを刺したのは、間違いなくエンリケの暴挙だった。
その悲報にヘンリーは青褪めて落胆したが、隣にいたグラニアははしたない大口を開けてケタケタ笑っていた。
「あら? やーっと死んだの! これで私がこの国のトップレディね!」
グラニアにしてみれば、ずっと目の上のたんこぶだった姑が消えたのだ。
隣で肩を落としている王がいるのが目に入らないらしい。浮かれ切った様子で逝去の祝賀パーティをしようなどと不謹慎な事を言っている。
それだけ二人の仲が悪かったということだが、流石にゾエを慕っていない人間も、グラニアの目に余る浅ましい言動に顔を顰めていた。
ゾエの心労の一端は、この仕事の出来ないグラニアのせいでもあった。
だから、グラニアは振りでもしおらしくすべきだったのだ。
このあんまりな物言いに、ずっとオシドリ夫婦のふりを続けていたヘンリーも、堪忍袋の緒が切れた。
「この冷血女! 私の母親が死んでそんなに嬉しいのか!? お前に人の心はないようだな!」
憤怒を隠そうとせず、激情のままに罵るヘンリーに、グラニアはしどろもどろになった。
今まで多少睨まれることはあっても、ここまで怒鳴りつけられることなどめったになかった。ましてや、ここには臣下の貴族だって多くいる。
なんだかんだでグラニアを擁護することの多かったヘンリーが、怒りをあらわに詰ってきたのだ。
先ほどの図に乗った態度は打って変わって、グラニアは周囲に助けを求めて目をやるが、皆目を合わせない。
「で、でも! 王太后様はずっと私を嫌って見下していたじゃない!」
「王妃の座にありながら、執務も公務もできず、外交もできないお前に愛想が尽きていただけだろう! 勉強もせず、学ぼうともしない! おべっか使いばかりの寄せ集めの茶会を開いて、不倫やドレスや宝石自慢して社交のつもりだったのか!?」
実母の死は予想以上にヘンリーの心に打撃を与えた。
この二十年、実質的な公務の相棒はゾエであった。グラニアの人脈は問題児ばかりで、政治に関わらせたら碌でもないのが目に見えていた。
助けられるより、尻拭いの方が多かったほどである。
大恋愛の末に結ばれたという建前上、離婚などできない。自業自得とはいえ、ヘンリーはずっとグラニアの身勝手な言動に耐えていた。
鷹揚な王を演じながら、裏で奥歯を噛み締めて耐えていた。
ここまでしてやったのに、それを察しないどころか、実母の死を喜ぶグラニアの性根の醜さにほとほと嫌気がさしてしまった。
「王太后の死を祝うパーティをなど、正気の沙汰とは思えんな。どうやら王妃は療養が必要なようだ。これも北の塔へいれてしまえ」
疲れたように顔を覆ったヘンリーは、一気に十年も二十年も老け込んだようだった。
グラニアはそんな夫を見ても反省しない。慮るどころか、思い通りにいかず怒っている。鼓膜をつんざく絶叫を上げてヒステリーを起こしている。
かつては笑顔が可憐で天真爛漫だと惹かれた少女の面影はそこにはない。
(フレア……フレアがいれば何とかなったのに。フレアさえいれば……!)
今更惜しんでも遅い。
王家はフレアの足取りさえつかめていない。最近になって、どうやら王都の公爵邸にはいないらしいという情報が手に入っただけだった。
大貴族であるアシュトン公爵家の数多の別荘から、フレアを探し当てるのは困難だ。彼女が特に思い入れのある場所も分からない。元々王宮で拘束する時間が多く、あのエンリケがフレアのプライベートを覚えているなんて期待できなかった。
異母妹のユリアの方がまだ知っているだろう。しかし、彼女はいつの間にか国外に行ってしまっていた。
リスト辺境伯と非常に仲睦まじい新婚生活を送っており、来年に親戚をたくさん集めて盛大な結婚パーティを開くそうだ。
急接近のあまり婚約期間ゼロですっ飛ばしているという。
(フレアがダメなら、ユリアをと思ったが、それも無理だ……婚約くらいなら邪魔できたが、すでに婚姻の書類はランファンで整っている……あの国は、あの国だけは絶対ダメだ)
ユリアは実はジョージと義母の娘ではなく、ケイネスとグラニアの娘である。
フレアは気づいていたが、ヘンリーは知らなかったので多少強引になろうとも、何とか婚姻で縁を繋げようとしていた。
異父兄妹であるエンリケとユリアはあまり似ていなかった。
エンリケは性格から受ける傲慢な雰囲気や表情はグラニアに似ていたが顔の造作自体はヘンリーよりである。
しかし、外見は良くても性格は極めて怠惰で奔放であり、何をしても続かない飽きっぽさもあった。
ユリアはグラニア似であるが、髪色はアシュトン家の赤を受け継いだピンクブロンドとピンクアイである。性格もかつての天真爛漫だった――そう見えた頃のグラニアと似ていたので、ユリアのことはヘンリーもそれなりに気に入っていた。
その実、ユリアは相当腹黒いし狡賢かった。グラニアの男性受けするところと、ケイネスの頭の良さのいいとこどりだった。
それでも流石にフレアほどの器量はなかった。だが、敵に回してはいけない人間を見抜く能力には長けており、フレアには可愛い妹を演じていた。
色々含むところのあるフレアに打診された婚約も、下手に逆らうと地獄を見るという勘の鋭さがあったから逃げることができた。
(よりによって嫁ぎ先がランファン! ベネシーの祖国ではないか!)
ベネシーはヘンリーの元婚約者。ランファンの王女だった女性である。
今はグランマニエに嫁いで、皇妃――それも正妃だ。唯一の皇后となっている。
夫婦仲は非常に良く、あの一件以来緩やかに不況に陥って、下げ止まりを見せないブランデルと違い景気がいい。グランマニエに釣られるように存在感のある国である。
立場も強く、遺恨のあるブランデル――しかもヘンリーの頼みなど聞くはずもないだろう。
交渉しようにも、ブランデルにはフレアしかいなかった。使えそうなカードは既に手札に無かった。完全に袋小路である。
「フレアを探すんだ……! フレア・アシュトンを探せ!」
狼狽と焦燥の色が濃いヘンリーには既に王の威厳などない。
落ち着きがなく頼りがいのないこけた頬をした、草臥れた男でしかない。
豪奢な衣装と、無駄に豪奢な王冠が滑稽に輝いていた。
グランマニエにいるフレアは賓客として扱われていた。
滞在する離宮には一流の使用人がつけられ、真面目な騎士たちが警護している。
彼らはフレアを見ると感嘆を漏らす。母譲りの青みがかった銀髪や碧眼は、シェリダン公国の王族に良く現れる色らしい。皇太后の生まれたシェリダン公国を敬愛していることもあり、国民もそれに倣う傾向が強いそうだ。
事実として、わざわざグランマニエの皇太后が、祖国懐かしさとフレア会いたさに訪ねてくるほどだった。
ハインリヒの庇護だけでなく、皇太后のお気に入りとなったフレアは更に丁重に扱われることとなる。
皇帝トルハーンは、歓迎していた。亡き国シェリダンの面影を強く感じるフレアの滞在に、いたく喜んでいる。皇帝や皇太后のシェリダン公国贔屓は有名だったが、想像以上の歓迎っぷりである。
しかしランファンの一件もあり、国としての立場や皇后を思って今までは抑えていた。ブランデルの代表として出向くことの多かったフレアを大っぴらに厚遇できなかったのもあるだろう。
いまはすっぱりとブランデル王家との縁も切れており、諸手を上げての歓迎していた。
今回は公務ではなく純粋な旅行という形になっている。
ヘンリーに続きエンリケまで起こした婚約破棄に酷く心を痛めた被害者――ということになり、療養も兼ねているという形式になっている。手厚い対応も顰蹙を浴びることはなかった。
皇后ベネシーもかつては同じことをされた身として、フレアを擁護している。
仕事から解放され、自由を満喫するフレア。時折訪問者はいるが、話題に富んだ話し手が多くて心も踊る。
それ以外でも読書も小説や詩集、純文学や歴史書、はたまた経済新聞まで好きなように読めた。刺繍をしたいと言えば、見事な白漆の螺鈿細工の施された裁縫箱と色辞典並みに取り揃えられた刺繍糸が用意された。
フレアが気を許していた使用人のみを厳選してアシュトン公爵家から連れて来てもらえたこともあり、いたれりつくせりである。
二日に一度はハインリヒがフレアを訪ね、熱心に愛を囁きに来る。
非常にまめまめしいハインリヒは、その瞳に、声に、すべてにフレアへの愛情が滲んでいた。ひと月だけで十二年間のエンリケの婚約期間よりたくさんの手紙やメッセージカードを貰い、お茶会、デートを重ねた。
「フレア。今日はグランマニエの北の大地でだけ栽培されている稀少な花茶を用意したんだ。良く見ていてくれ」
そういってガラスの急須にハインリヒがお湯を注ぐと、フレアに見やすいようにそっと寄せてくれた。
中では干した花のような赤茶色の茶葉が揺れている。
「まあ、花茶なのに林檎? あと蜂蜜のような香り」
「いい匂いだろう? この甘い匂いに誘われて、熊がやってくるという逸話から別名熊呼び茶とも言われている」
「ふふ、そんな逸話もあるのね。でもわかるわ。美味しそうな香りだもの」
フレアとハインリヒが和やかに会話しているうちに、急須の中では茶葉が変化していた。
ありきたりな茶色から鮮やかな赤になる様は見事だった。
「このままでもいいけど、レモンや柑橘の汁を垂らすともっと綺麗になるんだ」
薄い菫色から淡い水色へと変わっていく。良く開いた茶葉は、ヤグルマギクのような姿になっていた。それに合わせて、紅茶の色も変わっていった。
初めて見る光景に、フレアは感動して目を輝かせる。知らずハインリヒに身を寄せてしまうくらい興奮していた。
「なんて綺麗。素敵だわ……これが本当に飲み物なの?」
「勿論、味も保証するよ。この青色は君の髪色や瞳の色のようだったから、見せたかったんだ」
そういって、青みがかった銀髪を一房そっととって口づけを落とす。
一拍遅れて気付いたフレアは、余りに近い距離と、その甘い眼差しに頬をじわじわと赤らめる。だが、揺れる瞳は絡めとられたようにハインリヒを映していた。
戸惑うフレアは、氷の女王ではなく年相応の乙女であった。
恥ずかしがっているフレアをこれ以上つつき回すのは紳士ではない。ハインリヒは、隙だらけのフレアが落ち着くまで待った。
(エンリケとかいう馬鹿も本当に見る目がない。こんなに可愛い人をほったらかしにして、頭も股も緩い女ばかりにうつつを抜かしていたなんて)
ハインリヒは笑みの奥に、一瞬だけ走る苦々しい怒りを飲み下す。
かわりに、この花茶に合うメレンゲのレモンパイを持ってくるようにメイドに合図するのだった。
これはパティシエ自慢の逸品で、表面がカリッと焼いて中はふわふわのメレンゲ、その下にあるレモンカードと香ばしいパイ生地が絶妙である。フレアの苦手な食材は一つもないし、好みの傾向から考えてもオールクリア。きっと彼女も気に入るはずだ。
エンリケが暮らす塔に、新しい住人が来た。
それは女のようだが、酷く煩い。ほぼ毎日ヒステリーを起こし、怠くて寝ているエンリケを無理やり覚醒させた。
その日も女は朝から金切り声を上げている。
時折、男の名前を叫んでいた。数人いたが、特にケイネスという男の名が多くて、次がヘンリーという名である。偶然かも知れないが父王の名を呼び捨てる声に、一層苛立った。
罪人の癖に偉そうな女である。その声はどこかで聞いた気もするが、正直エンリケはそれどころでない悩みを抱えていた。
最近、体が痒いのだ、ムズ痒くて良く眠れない。
首筋、脇腹、腕、股などの皮膚の柔らかいところからブツブツと赤く黒ずんだ発疹ができるようになってきた。
病気は治ったはずなのにおかしい。
エンリケが痒みを訴えても、塗り薬が処方されるだけだ。
白い塔は専属医師がいる。王宮医師を呼べといっても、こない。
今日も女は五月蝿かったが。さっさと猛獣用の鎮静剤でも打ってしまえばいいのにと思うほどやかましかった。
「おい、このうるさいのを黙らせろよ。ここには俺がいるんだぞ? 王子の眠りを妨げるとか、不敬だろう」
最近の騎士は、既に王族でなく小蝿でも相手をするようにエンリケを扱っている。
王族に出すとは思えない粗末な食事は二つの味気ないパンに、小さな肉料理、野菜のスープだけ。最低限の食事は見るに堪えないが、これしか出ないのだから食べるしかない。
結局は文句を言いつつ平らげる日々だ。
「はあ、これっぽっちか。俺はいつになったらここから出られるんだ?」
最近は怠さも慣れてきたエンリケ。反省する気もなく、騎士や監視の兵が来るたびにぐだぐだと絡んでくる。
その姿は王子というより不良であった。
そして、まだここから出る未来があると思っている姿が滑稽だった。
アシュトン公爵家では、一人残っているジョージが落ち着かない様子で外を眺めていた。
視線の先、街の方から細い煙がいくつか上がっている。
また民が蜂起しているのだ。ブランデル王族を排除しろと行進しているのだ。
民衆が声高に現政権や王族を批判しても、王国軍はそれを鎮めることができない。それどころか過熱する一方で、連日何かしら騒ぎが起きている。
最近、王都の治安は悪くなる一方だ。折角フレアの婚約破棄の慰謝料がたんまり入ったというのに、豪遊する気にもならない。
第一夫人のクレアは実家の領地に帰ったきりだし、ユリアは嫁いでしまったし。それにもう一人の妻はついていってしまった。
フレアはなんと、グランマニエ帝国にいる。ハインリヒ第四皇子という高貴な方からの御誘いを断れるはずもなく、事後報告で手紙が来た。
その頃はさして気にしていなかった。娘の行方より、どんどん増える慰謝料に笑いが止まらなかった。
何に使おうか、当初はワクワクしていた。
数か月前は、屋敷を改装し、馬車を全て新調しようと心躍っていたのが嘘のようだ。
気づけば、古くからいた使用人が一人二人といなくなっていた。祖父の代から仕えていた執事もいないし、メイド長もいない。見覚えのない使用人ばかりが事務的に動いていた。
使用人の一部はユリアたちに、そしてフレアを追ったのは分かるが、がらんとし過ぎた公爵邸はいっそ不気味だった。
今更になって、言いようのない不安が過る。
(フレアは戻ってくるんだよな? まさかグランマニエに住む気か? ユリアが嫁いだ今、フレアしか後継ぎはいないんだぞ)
養子など取りたくなかった。今頃になって、教育をする時間も金もかかることをしたくないのだ。それに、下手な養子を取れば、当主になった途端ジョージを排斥してくるかもしれない。
アシュトン公爵家はフレアに継がせたかった。
そうすれば、後で婿でも取って安泰に過ごせる。癪な話だが、フレアはジョージよりずっと出来が良かった。それこそ、ジョージが羨望し、妬んでいた兄のケイネスよりも優れていた。
(……そういえば、兄上は病気にかかられて子爵の地位を返上したそうだな。その後、とんと噂すら聞かぬが)
一瞬何かもやりとしたものが過り、ジョージは首を振って考えを追い出した。
ジョージは彼の両親から何も聞いていなかった。
ケイネスの企ても、不貞も、その末にできた子供をジョージに托卵したことも――彼もまた、フレアに対する理不尽な扱いを見かね、祖父母に見放されていた。すでに、信頼も信用もなかったのだ。
だが、ジョージは芽生えていた疑問を無視し、都合の良いように納得する。
ケイネスのことは、もう終わった話だ。
もう彼は公爵家の人間ではないのだ。
ジョージはこの公爵家はフレアが継ぎ、安泰な生活が待っていると疑いもしなかった。
グランマニエ帝国の栄華の象徴である宮殿。
その一角には吟遊詩人に女神の如くと称される美姫が一人滞在していた。
彼女の名前はフレア・アシュトン――現在、第四皇子に是が非でも皇子妃にと熱望されている話題の令嬢だ。
既にハインリヒの囲い込みは大詰めを迎えており、事実上内定している。
彼女は今、ゆったりとバスタイムを楽しんでいた。乳白色の湯の上には、色鮮やかな花弁が漂っている。それは目で見ても美しいが、美容効果も高く、また何とも言えない芳醇な香りを放っている。
湯船につかりながら新聞を読むという、ややはしたない姿でリラックスしていたフレア。
とある紙面を見て「あら、忘れていたわ」と小さく声を上げた。
その声に、丁寧によく泡立てて髪を洗っていたメイドが顔を上げる。
「如何いたしましたか、皇子妃殿下。かゆいところが? 何か気になることが?」
まだアシュトン公爵への縁談は正式に結んでいないはずだが、既にフレアは妃扱いだった。
誰も彼も、フレアを『皇子妃殿下』と呼ぶ。
トップである皇帝が黙認どころか、積極的にその噂を広めているのだから止めようがない。
フレアは嫌な気持ちになるどころか、少し面映ゆい気持ちになる。
ブランデルではいくら頑張っても、それが当たり前だった。失敗すればフレアのせい。成功すればエンリケやグラニアの功績となった。
足りなさすぎるエンリケの補佐をするために、多くを学んだこともあり、フレアはグランマニエで学ぶことは比較的少なかった。
王宮で王太后ゾエやその肝いりの講師にやたら厳しく叱責され、支離滅裂なグラニアの罵倒に耐える必要もないので勉強も素直に楽しかったほどだ。
グランマニエの王宮図書館や、王立図書館の蔵書は素晴らしかった。
皇子妃教育で気になったことを自分で調べると、様々な視点でも学び、考察するのが楽しかった。時折、本に夢中になり過ぎてハインリヒが嫉妬して取り上げる程に、のめり込んでいた。
ブランデル王国とは違い、グランマニエ帝国は息がしやすくすべての色が新鮮だった。
祖国であるはずのあの場所は、思い返せば返すほど碌な思い出がない。
「いえ、どうやらブランデルでクーデターが起きているそうなの。現ブランデル王族が処刑されるそうよ。代わりに王弟のクラウス・ブランデル殿下が、新たな王となるらしいの。嫌だわ、すっかり忘れていたわ」
フレアの守りたいと思っていた、親身になってくれていた使用人たちは既にグランマニエに揃っている。
母や祖父母もきちんと身辺整理を済ませた後、使用人たちと共に移住しに来るという。
そして、フレアの邪魔者たちは全てブランデルに置いてきた。彼らの希望を潰してから、仕上げてきたのだ。
フレアを使い潰そうとしていたジョージにヘンリー。
スケープゴートにしようとしていたゾエ。
存在自体が足かせだったエンリケ。
頭のおかしい計画をしていたグラニアやケイネス。
彼らは場所が違うが、仲良く塀の中。
特に最後は念入りに潰した。願望達成に必須なフレアはグランマニエ、ユリアはランファン、そしてエンリケは処刑されることとなった。
「随分前から荒れていたと聞きます。これも仕方のない事かと……」
「そうね……その通りだわ」
ヘンリーがベネシーを裏切った時からもう、今のブランデルは終わり始めていた。
クラウスが新たに王となってもいつまで持つか微妙なところだ。ヘンリーを今更追い立てても、今まで民に寄り添わず、真実を偽り続けたのは変わりない。
所詮、クラウスも古い革袋でしかない。
今の民衆は新しい王を欲しがっている――王弟では近すぎる。今まで民の苦境に見向きもしなかったというのに、蜂起した民衆にぐらついた隙に起こした簒奪。
漁夫の利にも見える。
それは民の望んだ指導者ではない。
フレアの歯切れの悪い様子に、祖国の恐慌に憂いているのかとメイドは慌てて話題を変えた。
「ああ、そうですわ。ところでフレア様は『横顔』という本をご存知ですか? 帝国で凄く人気があって、今度舞台化されるそうですわ」
「ハインリヒ様に頂いて、読んだわ。なかなか陰鬱なところもある内容だけれど、大衆向けするかしら?」
「その辺は脚本家や役者の見せどころですよ!」
曖昧に微笑んだフレアに、侍女ははしゃいだように公演される舞台の人気俳優の名を出す。どうやら一番人気の俳優のファンらしく、ルックスは勿論のことで声や演技も抜群に素晴らしいらしい。
フレアは笑顔でその話を聞きながら、今度はオペラや観劇にハインリヒを誘いたいとこっそり心の中で思うのだった。いつも連れて行ってもらっているばかりなので、こちらからお誘いしたい――でもはしたなくはないだろうか。
そっと押さえた胸の下で、トクトクと鼓動がいつもより大きく鳴っていた。
ヘンリーを玉座から払落し、牢屋に追いやったクラウス。
クラウスが真っ先にやったことは、王としての宣誓や側近となる貴族を選び直す事ではなかった。
真っ先に北の塔へ行き、そこへ閉じ込められているグラニアを救いに行った。
兄に奪われた愛しい恋人を助けにいくクラウスは、長年叶わなかった恋に浮足経っていた。
たどり着いた北の塔にいたのは、老いさらばえた嗄れ声の老婆と体中に赤黒い瘢痕が広がり、顔が崩れかけた奇怪な人型のなにかだった。
たった二人しか収容されていなかったので並ばせたのだが、見覚えのない顔だ。
「な……どこだ!? グラニアはどこにいる!」
「あ……くあ、くらぅす? ここ、ここよぉ」
やせ細った枯れ木のような手が伸ばされ、とっさにクラウスは身を捩って避けた。
ぼさぼさの白髪の間から、落ちくぼんで濁った眼窩が見える。
ニチャァと笑うと、黄ばんだ不揃いの歯とカサカサの唇が不気味だった。より一層深くなるほうれい線が、醜悪に見えて仕方がない。
「目の前にいる老婆がグラニア妃ですよ。グラニア妃はかつて聖女候補であったので、魔力吸引の強い牢に入れられることになったんです。本人も散々抵抗して魔力で牢の破壊を試みて、魔力枯渇に陥ったようで……」
その言葉に、クラウスは狼狽しながらも言い返した。
納得できなかった。ここまでやって王となったのに、妃として求めた女性がこんな醜女と認めたくなかったのだ。
「馬鹿な、この醜い化け物がグラニアだと? 十年ほど前はまだ乙女のように美しかったではないか!」
その頃の時点でグラニアは二十代後半から三十代である。
確かにその頃のグラニアは、玉のような肌と痛み知らずの天使の輪が眩いブロンドが美しかった。天真爛漫な笑みに、紅を引かずとも淡く色づいた唇から少しみえる白い歯。
それが眩しくもあり、兄の妻であるのが苦しくてしばらく距離を取っていた。
だが、この好機に奪い取りに来たのだ――が、それはこんな得体の知れない老婆ではない。
老婆はその間にも、手を伸ばしている。ふがふがと歯の揃わない口では呂律が回らないらしい。
「あと隣のコレは?」
「エンリケ殿下です。性病を患っておいででしたが、処方されていた薬を不味いからといって捨て続け、こうなりました」
「これがエンリケだと?!」
今後のクラウスの施政を考えると、前王ヘンリーと、その嫡男である王子エンリケは処刑したほうがいい。
悪しき王とその王子は淘汰されたと、民の前でパフォーマンスをすることにより、一時的なガス抜きを考えていた。
だが、これではエンリケだと分からないだろう。
皮膚が爛れ、髪は抜け落ちているうえ、顔はおかしく窪んで変形している。
とにかく気持ち悪い。以前あった時は、鼻持ちならない傲慢さがあったが、今は訳の分からない譫言を繰り返すだけだ。生きているのに、既に亡霊のようだった。
性病だと言っていたが、まるで呪われたようである。
「しかし、クラウス殿下……いえ陛下とお呼びすべきでしょうか? エンリケ殿下を始末するとして、後はどうするお積りですか?」
「は? なにがだ?」
甥であるはずの生物が、人間と認めがたくあぐねていると、騎士が問いかけてくる。
彼は確か代々王宮騎士であり、長年王宮に勤めて内情に詳しいはずだ。
「エンリケ殿下に残っている多額の慰謝料です。ようやく最近になって、最終裁判のめどが立ったそうですがその額は莫大ですよ。
その起訴人であるアシュトン公爵令嬢は現在は療養中でして、その代行者として神殿が動いております。ブランデル王族やグラニア妃殿下との遺恨もあり、絶対に妥協せず慰謝料を回収しにかかるでしょう」
「神のしもべと言いながら、金の亡者ではないか。汚らわしい……ええと、確かフレア・アシュトンだったな。呼び寄せられないのか?」
「グランマニエ帝国で賓客相当の扱いを受けて、そのままお輿入れになるのではという噂があります。第四皇子のハインリヒ殿下がアシュトン公爵令嬢を妃にしたいと熱望しているそうです。実際に、多方面に圧力をかけていますから……」
グランマニエ帝国の名に、クラウスは顔を顰めた。
クラウスは長らく王都から離れ、外交にもそれほど詳しくはない。
だが、グランマニエはブランデルを目の敵にして、外交に応じては軽んじているというのは知っていた。
流石に、幼い頃からフレアを矢面に立たせて利用していたところまでは知らないことであるが、両国が不仲なのは有名であった。
不仲といっても、一方的にブランデルが圧力を掛けられているような状態である。
国土も国力もグランマニエの方が圧倒的であり、ブランデルがどうこう言える相手ではない。
「婚約するとなればめでたいだろう。それで帳消しにしてもらえばいい」
その妄言に、これが次の王になるのかと騎士や兵たちは落胆した。
ヘンリーは良い王ではなかったが、能力は身についていた。ただ、その妻子は足を引っ張るだけの汚物だったが。
これ以上王家の愚行を増やして欲しくない騎士は敢えて言う。真っ先に生活が危険に晒されるのは民である。
「いえ、それは難しいでしょう。エンリケ殿下の所業を考えれば仕方がありません。烈火の如くお怒りになって、ますます慰謝料を払うように圧力をかけ、増額する恐れすらもあります」
いつだか、慰謝料回収に来ていた神官が言い放っていた。
クラウスは納得いかず、経緯を調べた。その結果は最悪だった。エンリケは長年にわたり色々な女性の元へいき公務や執務もおざなりに遊び惚けていたそうだ。
そのしわ寄せが、すべて婚約者だったフレアに行っていた。
挙句、プロムで一方的な婚約破棄した。
フレアはかなり昔からエンリケの女にだらしない性格に気付き、最初に問題が起きてからすぐ対策を練った。きっちり不貞に対する慰謝料を貰うという契約を結んでいたのだ。
そして、起訴の内容には婚約者教育というには行き過ぎた虐待に関する慰謝料もあった。
訴えはエンリケ個人だけでなく、王家を相手取っている。
クラウスが王家を名乗るなら、当然飛び火する。
そもそも血筋も近すぎたし、今まで表立った対立をしていなかったので派閥や体質を同一視する民は多いだろう。
しかも今のフレアの後ろには、神殿だけでなくグランマニエもいるのだ。
双方とも、ブランデルを潰す気満々であるという情報しか出てこない。
今度こそ、クラウスは膝から崩れ落ちた。
長年女王として君臨する、人気絶頂のオペラ歌手のチケットを入手したフレアは、ハインリヒを誘うことにした。
グランマニエ皇族は良くしてくれるが、それでもあえて自分の伝手から入手した。
フレアが連れてきた使用人の中には、優秀な文官や商人も多くおり、人脈も広かった。フレアがプライベートに使いたいという理由でオペラチケットを欲しがったのには驚かれたが、それでも笑顔で調達してくれた。
誘われたハインリヒは嬉しそうに破顔をする。
「嬉しいな。フレアからのデートの誘いなんて、今日は記念日だ」
「大袈裟なこと仰らないで。そんなこと言っていたら、毎日が記念日だらけになってしまいます」
ちょっと呆れたように言うが、フレアは僅かに頬が赤い。その感情は照れだと気づいているハインリヒはますます上機嫌だ。
約束の日まで待ち遠しくてパーティでもないのに帽子から靴まで一式新しい衣装を誂てしまう程だった。
そんなハインリヒの様子を皇太后が揶揄ってきた。
「全くそんなにはしゃいで」
「浮かれもするさ。フレアが公務や接待以外の観劇の類は初めてだって言っていたんだ」
その言葉に、茶席に同席していたベネシーは目を丸くする。その後、そっと苦々しく目を眇めた。
婚約者に蔑ろにされていたことは知っていたが、そこまでぞんざいな扱いを受けていたとは。ますますブランデルに返したくなくなった。
「そういえば、ブランデル王室が随分たくさんの治癒師や薬師をかき集めて、エンリケ殿下を治療しているそうよ。内密に神殿に申し出ているのよ」
「見せしめに処刑するんじゃなかったのか?」
「それが、病気が原因で見るも無残らしいの。顔の判別が難しいほど酷いそうよ」
ああ、なるほどとハインリヒは納得する。
新たな王として基盤を固めたいクラウスは、前王ヘンリーやエンリケといった前王制の布陣をスケープゴートにしたい。
偽物を処刑したなんて噂が立ったら、クラウスは無辜の民を殺したと槍玉にあげられ、身内贔屓の激しい前の王と同じだとますます民は紛糾する。
だから、判別できる程度に治療を施してから、処刑したいのだろう。
前体制の代表を追放、処分、処刑するというのは一種の禊や儀式で、区切りだ。
悪しきものを罰したという大義名分で、新たな王に君臨する。
「果たしてそう巧くはいくかね?」
クラウスは重篤な病気を理由に、グラニアの処罰は見送ろうとしている。
二十年前の恋愛劇に、クラウスも名を連ねていた。つまり、彼もグラニアと関係がある可能性は高い。
何せ、王妃になりながらも神殿の神官と姦通していた女だ。頭と同じくらい股の緩さは有名であったし、兄弟を手玉に取っていてもおかしくない。
神殿の恋人は、グラニアにねだられるまま横領に手を染めた。神殿秘蔵である倉庫から、こっそりと秘薬や霊薬といった高級な薬を譲渡していた。
そして、グラニアはそれを良く効く美容品扱いして湯水のごとく使っていたという。
神官は最後までグラニアとの関係性を否定していたし、使ったのは侍女だということにさせられた。だが、その真偽は怪しくずっと疑問視する声があった。誰かが、情報を改竄したという噂が後を絶たなかった。何せ、調査員や関係者の不審死が相次いだからだ。
中には家屋が焼き払われ一家がその炎に消えることもあった。
結局は情報不足で、うやむやにせざるを終えなかった。あと一歩、追い詰める証拠が足りず、犯人をあぶりだすに及ばなかったのだ。
だが、グラニアを庇い続けていた最も厄介なヘンリーは投獄、同じく小賢しいケイネスも行方不明になっている。グラニアも牢に入れられて、助けを呼ぶことができなかったのだろう。
ふと、ハインリヒは見覚えのある本を見つける。
女性の横顔のシルエットの表紙だ。
これは、美しいと察せられる横顔。すっと通った鼻筋にふっくらとした唇、美しい首筋や、綺麗に結い上げられた髪。シルエットなので表情は分からないが、きっと若い女性だと思うだろう。
この本はグラニアを題材にしていると言われている。
ブランデルでは学園生活と華々しい結婚式のパレードで終わっている物語が大半だ。
だが『横顔』にはその後のことも書いてあった。そのシンデレラガールとなった少女と、結ばれた王子に裏で、彼女に選ばれなかった男たちの存在。
学生の時の関係は、結婚後は不倫という形となって続いていた。
表では王妃として運命の人、運命的な恋を謳いながらも複数の男と関係を持ち続ける。
生まれた子供には夫との恋を素晴らしいものだと吹き込んだその唇で、別の男に結ばれないことを嘆いて愛を囁く。
彼女の寵愛欲しさに不倫相手は狂っていく。実家から追放され、犯罪に手を染め、どんどん落ちぶれていく。
彼女は憐れみを口にしながら、口先だけの愛と慰めで、実際は何も手助けしないのだ。
うすら寒いのは彼女がその矛盾した行動に全く疑問も、罪悪感も持っていないこと。
爛れた日々を過ごしているうちに、不倫相手の子供を身籠ってしまう。それが夫に似てないのは当然であり、浮気相手の要素が出ていると不倫相手に押し付けた。
彼女は自分が主役でないと気が済まなかった。
だから娘――王女は欲しくなかった。息子の婚約者も嫌いだった。姑である王の母も大嫌いだった。
自分は常に一番輝いている存在であり、そしてその自分はたくさんの男性から求められ、愛を乞われていたいという狂った怪物性を持っていた。
その願望で周囲が傷つき、巻き込まれて狂っても、落ちぶれても人の尊厳や命が無くなっても、構わない。
幼い少女から同年代までにたくさんの羨望を長年浴びた、『愛』を免罪符に数多の人生を壊す悪女という言葉で片づけるのも烏滸がましいナニカ。
そして、『横顔』は幼いながらに賢い少女がそれに気づいてしまったことにより、王妃という人気者の側面を知ってしまう。
視点は侍女だったが、この本を書いた人物はかなりの教養を持っていることを、見る者は気づいていた。
侍女というレベルではない。王宮の侍女に貴族の子女が登用されるのはよくあることだ。国有数の貴人に仕えるに値する機転や聡明さや気品が求められる。
だが、それを超える知識があった。使用される単語や、使い回しの端々にそれは滲んでいた。ブランデルだけでなく、他国の言葉や文化にも造詣深い。
最初は女性の読み物だった。最初は夢見る少女向けのラブストーリーだった。ただのありふれた恋愛小説だったはず。しかし、そこから華々しさと毒々しさが激しく混ざり合う怒涛のストーリーが始まる。
中には難しい単語や言い回しもあり、だが引き込まれる物語をより深く味わいたくて少女たちは辞書を引き、ある時は周囲に聞きまくった。
そこからその兄弟・姉妹や親、友人らの手に渡った。
よくある恋愛小説と最初は思いきや流行りのドレススタイルや作法、マナーやお茶会や夜会の豆知識まであれこれ網羅していたので、幅広い層が目を丸くしてみていた。
侍女である少女は無感動で淡々としていたが、その分周りを見ていた。
承認欲求がいかれた王妃と、取り繕うのに必死な王、どこまでも滑稽で愚かな色ボケ王子、問題のあり過ぎる彼らに頭を抱える王太后—―そして、その歪な王室のツケを払わされ、消耗されていく婚約者。
一見は優雅で豪奢、その実情は滑稽なメッキとハリボテの王家。
今まで何とかバランスを取っていたが、王子が最も損な役回りをしていた婚約者を追放してしまう。
帳尻合わせに無理を強いられていた彼女にとっては、それは悲劇ではなく喜劇だっただろう。だが、疲れ果てていただろう彼女はあっさりと退場した。
婚約者だった令嬢は、長年秘めていた鬱屈を胸に燻らせていたのだ。
彼女が長年仕込んでいた罠が発動する――と言う所で、終わっていた。
そして皆が待つ次巻は、発売されていない。
現在ブランデルは騒乱の真っただ中だ。作者も巻き込まれたのではと、読者はヤキモキしている。
最近、蜂起した民が王宮や貴族街を強襲する事件が頻発している。
襲われた一つに、アシュトン公爵家の名もあった。王家の名に目が眩み、妻が止めるにも関わらず娘を差し出した悪魔の父と顰蹙を浴びている。
フレアが公爵邸にいつかず、不在なのをいいことに好き勝手したことが露見したのが、更に悪感情に拍車をかけた。公爵家に支払われている慰謝料では飽き足らず、フレアに払われる慰謝料にまで手を付けていた。屋敷を悪趣味なほど豪奢にして、村一つはいる程のワインセラーを作り、趣味の剣や骨董品の蒐集に明け暮れていたという。
公爵邸には妻も子もいなく、すべては当主のジョージが行ったというのは明白だった。
その浪費を見咎めた神殿は、今は回収できた慰謝料の支払いを保留すると宣言している。フレアへ直接支払われるよう手続きを新たにすると明言したのだ。理由が理由なので、みなは当然だと頷いている。
フレアへの慰謝料は、フレアの個人資産となるのだ。そのあたりは、フレアがきっちり契約書に記していた。
正しく被害者に渡らねば、神殿の威信にも関わる――そして、フレアに渡さねば、後で寄付金となって返ってこないのだ。
神殿側としても、ジョージしかいないアシュトン公爵家にフレアの慰謝料を預けては、骨折り損のくたびれ儲けという奴だ。
仕事をしたのにお布施がいまいちだと思っていたら、狸爺がくすねていたということである。
臨月のお腹をさすりながら、ユリアは大きなソファでゆったりと座っていた。
傍のテーブルにはマーガレットの花束が、美しい硝子の花瓶に活けられている。
可愛らしいピンクのマーガレットはユリアの大好きな花であり、夫が温室まで作って育ててくれた愛の証でもある。
目に映るたびに、ユリアはとても幸せな気持ちになり、ますますこの花が好きになった。
夫はそんな妻の腹に耳を付けて「動いた! 動いたぞ!」とそわそわしている。第一子が楽しみで仕方がないらしい。
結婚式の予定だったが、ハネムーンベイビーにより延期になってしまった。結婚式は後回しで書類だけの婚姻が申し訳なかったのか、夫のリスト辺境伯はユリアに言葉や行動を惜しまなかった。プチ新婚旅行として小旅行をちょっとした休みのたびに企画してくれて、ユリアも喜んで一緒に行った。
結果、おめでたである。
旅行のたびにそりゃあ盛り上がった。昼のデートも夜のほにゃららも。
法律上も問題ないことだ。結婚後の懐妊なので、この子供は私生児ではない。
ユリアの母は、通いで屋敷に来ている。ランファンに来てしばらく経つと、新しい恋人ができたのだ。相手はリスト辺境伯に仕える準男爵。将来を考える程良い関係になっていたので、同居しているのだ。
元は娼婦で若くしてユリアを生んだ――実際は当時の入れあげていた客から預かったことをユリアは知らない――母は三十代だが美しい。良い恋をしているのが、目で見て分かる。見るからに溌溂とした、内側から輝くはっとしたものを感じるのだ。
公爵邸にいた時は、裕福な暮らしでもどこか鬱々としていた。ずっと寂しく苦しそうだった。その母が楽しそうなのはユリアも嬉しかった。
もしかしたら、我が子には年下の叔父か叔母ができるかもしれない。
(お母様も、漸く再婚するのね。アシュトン公爵家はなくなってしまったけれど……)
アシュトン公爵家は崩壊した。ジョージは悪魔公爵と、王族と一緒くたに憎悪の槍玉にあげられて、武装した平民に屋敷に押し入られ惨殺されたと報告を受けてびっくりしたものだ。
少し前に起こった事件だったのだが、ブランデルの情勢悪化と妊娠初期のユリアを慮って夫たちも言えなかったのだとあとで謝罪された。
リスト辺境伯家で、ユリアはとても可愛がられていた。
莫大な持参金をはじめとする心付けは、かなり急な婚姻に配慮したものでもあったが、それだけフレアがユリアを気にかけていると印象付けた。
ユリアは都会育ちだと最初は心配されたが、楽しんでリスト辺境伯家に馴染んでいったのが好感触だったのだろう。馬、豚、鳥、牛等とたくさんいる家畜を嫌がらず、農作業があっても元気よく参加していた。
正直、ユリアとしては公爵令嬢は窮屈だったので、のびのびした牧歌的なリスト辺境伯領は肌に合った。
あと旦那を始め、この辺りの男たちは筋肉がいい。剣術、馬術、農業労働の合間に滴る汗が最&高であった。ブランデルより薄着の傾向があり、『ウホッいい男!!』とウォッチングしていた。
一切の虚偽なく馴染んだユリアを、リスト辺境伯一家は手放したくなかった。
そのころのブランデルは酷く治安が悪く、身重のユリアが行くと言い出すのを恐れたのだ。ジョージを弔うために帰郷する危険性を考えると言えなかったのは理解できた。
青ざめていたユリアは、父の死より異母姉の頭の良さと恐ろしさに震えていた。
もしフレアに勧められた縁談に逆らい、ブランデルに居座り続けたらと思うとぞっとする。
(フレアお姉様のお陰で困らないわ~。公爵家より皇族の方が凄いもん。今では捨てられ令嬢から、グランマニエのお妃様に大出世ですもの)
グランマニエの皇室は少々特殊だ。
実力方式なので、必ずしも子が受け継ぐとは限らない。
ある一定年齢層で玉座を競い合い、一度皇位継承争いを辞退したり、参加して負けると、次の争いには当事者としての参加は出来ない。
皇位継承権を持つ皇帝の弟妹が次の玉座を望む場合、皇帝の養子となり、実子同様に厳しく審査される。
だから皇帝の次が皇帝の弟妹や甥姪、はたまた孫が継ぐことが珍しくない。
かなり争いが激しいが、よりクリーンにそつなくこなした皇子が皇帝になる傾向が多く、逆に血生臭い皇子はいつの間にか不慮の事故で亡くなっていることが多いという。
後継者を選別する皇帝は、自分の評価に関わるので実子だろうが容赦しない。暴君を選んでしまえば、選んだ皇帝は人を見る目がない暗愚扱いされるのだ。
歴代皇帝の中では、後継者の選別に失敗して暗君扱いされた皇帝は少なからずいる。一生どころか、後世の恥として残るのだ。
トルハーン皇帝の次は、皇弟で義息子のハインリヒが有力視されている。
そして、そのたった一人の皇子妃がフレアである。
大国グランマニエの次期皇后と目されているフレア。そして、そのたった一人の妹のユリアは当然ランファンでも特別な待遇だ。
義息子が皇帝になることに、皇后ベネシーは微妙なのかと思いつつ、そうでもなかった。
ランファンは特別強い国ではない。そこから嫁いだベネシーは大国の皇后という重責からやっと解放されると喜んでいるらしい。今からトルハーンとの楽しい隠居生活や旅行先を見繕っており、長い里帰りもできそうだと周囲に漏らしているそうだ。
(そーよねー。あたしも平民から公爵家に行ったとき、最初はご飯やお菓子がお腹いっぱい食べれて、服も綺麗でお布団もふわふわで~って思ってたけど……お勉強や礼儀作法は地獄だったわ)
立ち方、歩き方、笑い方、喋り方――すべてにおいて制限が掛けられた。
なまじ、近くに完璧な淑女の姉がいたので余計に。
だからこそ今の暮らしは居心地がいい。
はっきり言って、フレアが選んだ嫁ぎ先はそこそこ田舎で緩さもある。多少のはしたなさも、愛嬌になった。
ユリアにしてみれば、なんでこんな素敵な場所で、素敵な筋肉の旦那様がいるのに、縁談が纏まらなかったか不思議であった。
リスト辺境伯家は代々国境防衛に尽力し、堅実な地位にいるので軽んじられることはない。王家からの信頼も厚いのだ。
しかし、その『ちょっと田舎』で『マッチョな旦那様』というのが、プライドの高い貴族令嬢としては論外だったらしい。何処でも、若者は都会を羨む傾向が強く、特にここ最近の辺境出身者は伴侶探しに苦境を強いられていた。
――つまり
ちょっとごつい夫は、都会のレディの好むようなシュッとした美形ではないため、田舎領地ということもありなかなか縁談に恵まれなかった――それもあり、若く健康な公爵令嬢のユリアが嫁いできた時は奇跡だと沸いた。
ブランデル貴族には良い印象はなかったものの、フレアの才女ぶりはランファン中枢にも轟いていた。そして、その才女を振ったエンリケの愚行も。
今まで不遇を強いられていたフレアを最後の最後まで愚弄していたエンリケは、ベネシー王女への侮辱を思い出させるものであり、一層同情が集まった。
そんな不遇の才女の異母妹は、肝いりと言えるほど丁重に輿入れとなった。
急転直下のスピード婚だったが、フレアの手腕は素晴らしく、見事に問題なく済んだ。妹にはどうか良縁をと姉が尽力したという噂もあり、涙を誘われた人たちもいた。
(良かったわ。お姉ちゃんも幸せそう)
異母姉も良い旦那と巡り会えたようだし良かったとユリアは一人頷いていた。
エンリケと婚約させられていた時のフレアは、常に神経を張り詰めさせていて、優雅な所作と傾国の笑みで完全武装していた。
美しく、恐ろしく、それでいてどこまでも輝いていた。細く鋭い一振りの剣のように。
あの鋼より硬そうな氷の武装を解いた人間がでたことに、ユリアは驚いたが、安堵もした。
そのとき、ユリアは「ん?」と首を傾げた。
「え? なんかちょっとヌルっと? お腹痛い? え? ええ? 破水!?」
己の身に起きた違和感の正体に気付き、騒がしくなったユリア。
丁度、夫のリスト辺境伯は少し席を外していた。妻の膝に暖かい飲み物とひざ掛けを用意していた夫は大パニックだ。
「医者! 医者あああ! ユリアー! 死ぬなー!」
「死なないわよ!! 絶対一姫二太郎を目指すんだから! いったー! キタキタキター! やっばいのきたわー!」
妻の陣痛と破水に驚いたリスト辺境伯が、ガラス戸を突き破ってバルコニーから飛び降りたという騒動は起きたものの、ユリアは無事に珠のような男の子を出産した。
逃げて逃げて、隠れて、まるでドブネズミのように。
きっかけはクラウスだった。玉座に座っていたのを、謁見の使者のふりをした暴徒に刺されて死んだ。
それを皮切りに、城門から反乱軍が押し寄せた。
中途半端に回復していたエンリケは、騒動に紛れてこっそり抜け出した。
北の塔から出られたものの、王宮暮らしの母と違いエンリケは貴賓牢にいた。
山姥じみた老婆になっていたグラニアを戻そうとしていたクラウスだが、どれほど金をかけても年相応より老けた若作り婆が出来上がっただけであった。
四十代近いのに、デビュタントの少女が選ぶようなドレスを着る母親を、初めてエンリケは異様だと思った。
あの老婆姿でも、その趣味は変わらなかった。ミニスが着る予定だったドレスをどこからか持ってきて、自慢気に纏う姿はもはや恐怖である。
可哀想にと言いながら、エンリケを北の塔から出そうとはしない。
結局、グラニアは一番自分を愛しているのだ。
自分は王妃だと王宮に居続けるグラニアを見捨て、エンリケは金になりそうなものを奪って外に出た。
もともと、自分を助けてくれなかったグラニアを助ける気はなかった。
ただ、間違いなくグラニアは分かりやすいところに宝飾品を置いていると思ったから行っただけである。
返せと騒ぐグラニアを蹴り飛ばし、エンリケは外に向かった。
何人かに顔を見られたが、不思議とすぐに顔をそむけた――その顔が強張っていたことに、エンリケは気づかなかった。
(なんだ? まあいい。今は牢獄生活でやつれているからな。服も貧相だし、王子とは思えなかったのだろう)
王宮は広く、塔に入れられる前に良く使っていた回廊には革命軍が押し寄せていた。
それを避け、庭の木々に身をひそめながら出口を探す。既にすっかり息切れをしていた。ふと、休んでいると噴水が見えた。
これは、グラニアが作らせた噴水だ。これは魔道具の一種で、魔石に込められた魔力で水が出ている。水を躍らせて形をいくつも作りながら落とすという、値の張るものだ。
今ではだれも見向きもせず、魔石を掲げている女神も苔が生えていた。
(走っていたから、喉が渇いたな。仕方ない。これを飲むか)
魔法で作られた不純物のない水なので、噴水に溜まった水は綺麗だった。
そして、長らく雑な衛生環境にいたエンリケは、噴水の水を飲むことにためらいがなかった。
ヘンリーが在位していた頃はまだマシだったが、クラウスに変わってから悪化の一途をたどった。料理の質も、見張りの兵の質も大幅に落ちた。
顔を水面に近づけるエンリケ。
ふと、水に映ったものに絶叫する。
世にも悍ましいとしか言いようのない醜悪な顔があった。ブツブツと吹き出物だらけなうえ、変色して歪な隆起がある爛れた肌に、どこを向いているか良く分からない不揃いな眼、不自然に落ちくぼみこけた頬に、干からびた芋虫のような唇、頭皮に張り付くようにして残るまだらな髪。
全てが異様。怪異の方が納得する不気味さと気色悪さ。ゾンビのような不気味な姿が水鏡に浮かんでいた。
ぞっとしたエンリケは、恐怖のあまりに自制心を失った。
「ぎゃあああああああ! 化け物! 化け物ーー! 誰か、この化け物を退治しろ!」
その大声に、やる気なく争っていた騎士も革命軍も足を止めた。
騎士の中には革命軍と内通していたのか、気軽に談笑していたものもいた。それだけ、王家は見限られていたのだ。
騎士の一人が言う――「エンリケ殿下の声だ」と。
皆の顔が悪鬼もかくやと言わんばかりに歪み、憎悪と憤怒に塗り替わる。
一斉に皆は噴水にいたエンリケを取り囲んだ。そこで、武器を向けられているのは自分だと気づいたエンリケは青褪めた。
顔を顰めたうちのいくらかは、エンリケの醜い風貌に顔を歪めた兵もいた。
軽蔑と憎悪の入り混じる視線が四方八方からエンリケをねめつける。味方は誰一人いないと、逃げ場を完全に失ってから気付く。
混乱する中で、彼が残した言葉は最後まで滑稽だった。
「フレア! 助けろ! 俺を助けろ、フレアああ!」
後に化け物王子と呼ばれ、後世に残る悪評を残すエンリケ・ブランデルはたくさんの剣や槍に刺されて殺された。
病気でかつての美貌が見る影もなく歪み崩れた顔は、恐怖と混乱が張り付いた表情で死んだ。その首は、民衆に晒されて石や汚物を投げられ続けた。
そしてその二日後、すべての悪の根源としてグラニア・ブランデル――かつて民衆に夢と希望の象徴と言われた王妃は、王都の中央広場で断頭台に上る。
グラニアはどんな状況だろうと変わらなかった。
既に炉端の石より価値のない存在に成り下がったことに、未だに気付いていない。
引きずられるようにして断頭台に連れていかれた。
「私は王妃よ! 王子を産んだ国母に向かって何をするの! 無礼者! お前たちが死ね!」
そう喚き散らす老婆は、悪鬼の方がまだ可愛らしいほどだった。
かつて称賛されていた愛らしい美貌は見る影もなく、ただ権力に酔い狂った老女がいた。
乱れた白髪を振り乱し、皺だらけの顔と、口を開くたびに見える疎らな歯。目だけが異常なほど爛々としており、箍が外れたように醜い言葉ばかりを吐き連ねる。
その姿は、誰もが悪魔だ、鬼だ、悪女だ、化け物だというに相応しい。
王族としての誇りもなく、憎悪と怒りを吐き散らす姿は皆に嫌悪された。
「殺してやる! 不敬罪だわ! お前ら全員死刑よー!」
悪の象徴としては実に見事だっただろう。
堕ちたギロチンの刃が、憤怒の形相と喚き散らして開いた大口をとどめたまま首を飛ばした。断頭台の周囲に血だまりができて、ゴロゴロと人の頭部が転がって落ちていく。
誰もがその死を喜び、歓声を上げた。
ブランデルの夜が明けると誰しもが思っていた。
しかし、ブランデルはその後さらに混迷を極める。
新体制が決まらないのだ。王族の蛮行に辟易し、新たな王が決まらなかったのだ。
民主制を説いたが、そんな基盤はなく、ただの夢物語でしかなかった。
指導者が決まらず、規律や風紀は乱れる一方。経済も停滞し、田畑は荒れるばかり。彷徨う民たちは、弱者から職を失っていき浮浪者が溢れた。
救済する為政者は居らず、賊が跋扈するようになる。王家が定期討伐していた魔物や獣も放置され、いくつもの町や村が襲われるようになった。
人の集落が寸断され、街道が荒れ、流通が途絶える。
台頭してきたのは、武装集団だった。彼らはその武力で物資をかき集め、勢力を拡大していった。
経済が破綻しているブランデルはますます荒廃し、武装集団はそこで国家を名乗るようになった――が、所詮は烏合の衆だった。
ブランデルが自滅し、職にあぶれた民や、それに紛れた賊が横行するに従い、隣国ランファンにもその影響が出た。
荒れ果てたブランデルより、経済がきちんと循環しているランファンの方がずっと豊かであった。少ない物資をブランデルで奪い合うより、ランファンを荒らした方が実入りも良かったのだ。
領土侵害と盗賊行為――それはランファンという国に兵を立ち上げさせるきっかけとなってしまう。
ランファンの治安を脅かしたのだ。国境沿いの集落や行商を狙って賊が出るようになり、それは民衆や王侯貴族の不興を買う結果になる。そして、ついにはランファンに戦争の口実を与えた。
ランファンの正規軍は圧倒的だった。統率された動きで、あっと言う間に国家を名乗る蛮族たちは淘汰された。
こうして、ブランデルという国は地図から消えた。ランファンに併呑されたのである。
ブランデルという国家が完全なる亡国と化した頃、グランマニエでは新たなる皇帝と皇后が誕生していた。
皇帝の名は、ハインリヒ・グランマニエ。
皇后の名は、フレア・グランマニエ。
美しい二人の統治者に、グランマニエ帝国は誰しもが喝采を上げた。皆に愛され、尊敬され、祝福された。
その皇帝夫妻は、即位から二十二年にわたりグランマニエに未曾有の大繁栄を齎すこととなる。
彼らの子孫は、彼らの優秀さを引き継いだ。実力主義の皇位継承争いを勝ち抜いた彼らは、ハインリヒとフレアが作り上げた黄金時代の基盤を一層に整備し、その後三百年もの間に並ぶものなしと言われる絶対王者としてグランマニエ帝国は君臨する。
彼らの偉業は、後世に渡り伝記、演劇、童謡とあらゆるものとして名を遺した。
脚本として、戒めとして亡国ブランデルを題材にした『横顔』、そしてグランマニエ皇帝夫妻の黄金期を伝え称えた『比翼』は二大巨塔である。
『比翼』は皇帝夫妻の忠臣であり、大ファンであった大臣が筆を執ったとされるが、『横顔』はいまだにその作者は不明である。
皇帝夫妻は逸話も謎も多く、ロマンを擽ると様々な層から人気が高かった。
のちに、皇帝の私室の隠し扉からとある日記が見つかる。それは、ハインリヒの日記だった。
どうやら、何かの拍子で隠し扉が壊れて放置されていたのだろう。非常に良好な状態で残っていたのだ。
隠し扉は、王宮の老朽化による解体中に見つかった。もし雑な壊し方をしていたら、一緒に貴重な資料が埋もれてしまう所である。その後の解体は、非常に慎重に行われた。
完全無欠と誉れ高く、偉大なる皇帝ハインリヒ。公私ともに素晴らしく、夫や父としても良き存在と言われていた。また、皇后フレアとは仲睦まじいことでも有名であった。
歴史学的にも貴重だという意見と、あの皇帝のプライベートを覗けると子孫や学者たちは沸き立った。
そこには只管、愛する妻への止まらない恋慕が書き綴ってあった。
否、書きなぐってあった。
不惑という年齢を超えても、還暦になっても、米寿になってもその愛は変わらなかった。
常に思春期のように、重篤な恋を患っていらっしゃるハインリヒという男の思慕がつづられていた。やや暴走しがちな妄想もあって、見ている方が恥ずかしいくらいだった。
その数年後、同じようにフレアの日記まで見つかった。
皆はぞっとした。黄金期を齎らした片翼といえる聖母であり賢母の像が崩れるのではと誰もが恐れた。
八割方がハインリヒの日記のせいだった。
そこには自分の感情を出すのが苦手な、不器用な乙女の心情がつづられていた。
政に関してはズバ抜けた手腕や冴えた感性を披露する一方、いじらしい初恋にあぐねる乙女のプライベートを暴いたという罪悪感があった。
皇帝が病に倒れた時は、伴侶として見事に国を取り仕切っていた女傑が、ハインリヒの前では一人の愛らしい女性であった。
この二人が相思相愛だったのはなるべくしてなったのだろう。
彼らが幸せだったのかは、言うまでもない。