千夜一夜の寝物語 後編
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一台の馬車が夕暮れの街の中を走って行く。
その中にはマルタがバスケットを抱えて乗っていた。
今日、出掛ける前にマダム・クラレンスには相談していた。
「行ってきな。ちょうど良い機会さね。」
そう言って笑うと彼女を快く送り出してくれたのだった。
先ぶれは出しておいたので、彼は間違いなく待ってくれているはずだった。
マルタは商人が一度売ると決めたものは何があろうと売ると言う信義を信じていた。
宿に着き、彼が泊っていると言う部屋へとポーターに案内される。
街でも有数の宿だけあって、何度か来たことのあるマルタですら圧倒される。
ポーターがドアをノックし、中からジョゼの声が聞こえる。
「マルタさまがいらっしゃいました。」
「入ってくれ。」
恭しくドアを開けるポーターの男には蔑みと欲望の感情が見えたが、マルタは気にしない事にした。
*
「やあ。いらっしゃい。」
出迎えた男の顔には、元の笑顔の仮面が貼りついていた。
マルタは軽く会釈をすると、男のエスコートを受ける。
広い部屋には、上等な家具がしつらえられ、ちょうど良い事にダイニングテーブルまで置かれてあった。
「お食事は? 」
「いや、帰って来てから色々と考えていてね。まだ食べていないんだ。何処かに食べに行くかい? 」
「それなら良かったわ。お昼は簡単なものだったから、ちょっととっておきを作ってみたの。」
そう言ってマルタは微笑むと、バスケットを取り出し、作って来たばかりの料理を並べ始める。
小分けにされた陶器の皿には、カポナータ、ボロネーゼ、そしてリゾット…。ナスや魚介類、トマトソースをたっぷりと使い精製されたオリーブオイルをふんだんに使った料理が所せましと並べられていた。
「これは凄いね…。」
ジョゼはリゾットに舌鼓を打ちながら、マルタに笑いかける。
さすがに昼とは違って、料理を楽しむ余裕も出来たようだった。
そんな彼が美味しそうに食べる姿をマルタは嬉しそうに眺める。
腕によりをかけた甲斐があると思う。
食事がひと段落ついて、マルタは食後のお茶の準備を始める。
そのお茶はジョゼが手に入れたと言う茶葉を使ったが、その素晴らしい香りと味にはマルタも思わず顔がほころんだ。
「さっきから考えていたんだが、どうしても解らないんだ。」
「何のこと? 」
「マルタ。君がなぜこんな事をしようと思ったのか、だよ。僕を憐れだと思ってくれたのかい? 」
マルタはそれには答えずにティーカップを置き、彼の手を取る。
「今日は私を抱いて下さらないの? 昨日みたいに。」
昨晩とは違い、今日はマルタからジョゼをベッドに誘った。
*
髪をほどいたマルタは、ジョゼの腕の中に包まれていた。
この夜のジョゼも、マルタを優しく抱いた。
マルタはただ痛いだけ、苦しいだけでは無い本来の女の悦びを久しぶりに心行くまで味わえた気がしていた。
思わず漏れてしまった声が、周りの部屋にも届いてしまったのでは無いかとマルタは少しだけ不安になる。
「今晩は私の寝物語を聞いてくれる? 」
少しだけ上にあるジョゼの瞳を上目遣いで眺めながら訊く。
ジョゼは頷くと、少しだけ細い身体を抱く腕に力を込めた。
マルタはジョゼに唇を近づける。
それにジョゼはたっぷりと時間を掛けて応えた。
「こういう場での口づけはマナー違反じゃ無かったかな? 」
「あら、今日は私があなたを買っているのよ? 拒ばまない方が悪いわ。」
仕事では絶対に赦さなかった口づけをすると、マルタはいたずらっぽく答えて笑う。
「…私は、貴族の家に生まれたの。」
「ああ。そうじゃないかとは思ってたよ。所作が令嬢のそれだった。」
「そうなのね。気を付けないと。でね、何不自由無い暮らしをして育って、美しい令嬢となったわ。」
「自分で言ってしまうのかい? 」
「茶化さないで? 商品の評価は正確に把握しておかなくてはならないのは商売の基本でしょ? 」
「解った。降参だ。大人しく聞くよ。」
二人が笑い合い、そしてマルタは覚悟を決めたように話しだした。
まるでどこか遠い誰かの話をするように。
*
「その令嬢は、色々と習い事をさせられていたの。
ある声楽家を招いて教えを乞ううちに、彼女はその歌の才能を認められた。
両親は、嫁入り前に大きな舞台での経験もさせておこうかと思ったのね。とある劇団にその令嬢は参加する事になったわ。
そこでね。一人の男と出会った。
その男は、平民の出でありながら宮廷歌手として類まれな人気を誇っていた。
劇団の主役なんだから、今考えればそれは当たり前よね。
そして、まだ幼かった彼女はその男に夢中になった。
周りが熱狂的に迎える男を独り占め出来る。それはとても気持ちが良かったわ。
その彼の出身がタヘルミナだった。
彼の好みを覚えようと、同じタヘルミナから出て来ていた厨房のジュリアに色々教えて貰った。今日のお料理はその時に覚えたものなの。
歌劇の中で、彼は英雄であり、王であり、王子であり、そして騎士だった。
だから彼女は彼が何でも出来る人だと思ってしまったのね。
もちろんそんな関係はすぐに両親の知る所となったの。
すぐに縁談が組まれて、私は結婚させられそうになった。
すごく焦ったわ。
そして、若さゆえの情熱で渋る彼を口説き落として駆け落ちをする事にしたの。
ちょうど騒ぎも起きていたし。」
「それから?
もちろんそれからは何処にでもあるようなお話し。
行く先は決めていた。だからこの街に居るの。
歌と歌劇しかやった事の無い二人が、人目に付かず、出自も明らかにせずにお金を稼ぐ方法なんて、数えるほどしか無かった。
あっという間に持ち出したお金は底を突いて、食べるのにも困るありさまだった。
でも、彼は脚光を浴びていた頃が忘れられなかったのね。汚い事やキツい事は嫌だって言うの。
そんな時、私はマダム・クラレンスと知り合った。
そして…。」
淡々と話していた彼女の目じりに涙が浮かぶ。
ジョゼはマルタの頭を抱えると、しっかりと抱きしめた。
「……もう、大丈夫。私の事は良いわ。もう済んだこと…。
ただね。彼は私が派手なドレスを着て、派手なお化粧をして出て行く姿を見て、何か気が付いていたんでしょうね。
それ以来、触れてくれることは無くなったわ。
それでも私は耐えていた。だって生きて行くにはお金が掛かるんだもの。
そしてある日、何も言わずに彼は居なくなってしまったの。
ずっと入り浸っていた酒場の娘とね…。良い仲になってたみたいでね…。」
とうとう嗚咽が混じってしまう。
ジョゼは彼女の頭を泣き止むまで撫でた。
どうしてもそうせずには居られなかったからだった。
その手は、辛かったろう。苦しかったろう。そんな事を言っているように見えた。
「それからずっとこんな暮らし。
もう何をして良いか解らなくなって、ずっとこうやって生きて来た。
そして、毎日悪夢を見るようになった。
家族たちがずっと私の事を見てる。だけど何も言ってくれない。
そして、その視線に耐えられなくなって目が覚める。
昨日はね、久しぶりに悪夢を見なかった。だからあんな時間まで寝てしまったの。」
それだけ言うと、彼女はしゃくりあげ続ける。
その間もずっと撫で続けられていた頭を上げると、泣きはらした真っ赤な目で答えを問うようにジョゼを見つめる。
「その、結婚をさせられそうになった男の名前は覚えているかい? マルタ。いや、マルグリッド・オルレアーニ。」
「もちろん覚えてるわ。ジョゼ。ジョルジュ・カスティリオ。そうよ。あなたが話してくれた時に気が付いたの。なんて偶然なのって思ったわ。」
「…そうだったのか…。」
「知ってる? ジョルジュ。私たちの婚約を以て、貴族の派閥同士の争いを一時休戦にする事になっていたって。だから私もあの日にタヘルミナに居たの。公演が終わった後のパーティで引き合わされて、そのまま婚約って流れになってたのよ? 」
「そうか…。」
ジョゼことジョルジュは、考え込むように黙り込む。
そして、彼もまた覚悟を決めたように話し出した。
「実は、まだ話して無かった事があったんだ。許して欲しいマルグリッド。」
「どんな…? 」
「僕はね、商会に拾われたところまでは話したよね。そして、二か月ほど前にある夜会に出る事になったんだ。本来なら商会長が出る必要があるような、やんごとなき立場の人ばかりが集まる会でね。
たまたま商会長が身体の調子を悪くして、僕が代わりに出る事になったんだ。
そこで、一人の護衛に出会った。
その人はね、死んだと聞かされていた僕の幼馴染だったんだよ。」
「なん…で…。」
「僕はそのまま彼女に連れられて、屋敷の中庭に出た。
彼女はね。僕が貴族に引き取られてから、ある人に拾われて色々と勉強をさせられていたらしい。
人を先導したり、焚きつけたり、そして暗殺したりする方法をね。
僕に再会したのだって、予ねてから動きのあった貴族同士の派閥が連合して、王に対抗できる勢力になるのを防ぐ為だった。
そして言われたよ。
『恨みに思うなら、私を殺すといい。』ってね。
短剣を僕に渡して目を瞑る彼女に僕は何も出来なかった。
それから僕は少しおかしかったらしい。取り憑かれたように仕事をして、狂ったように女を騙して抱いた。
だけど、それでも全く気は晴れなかったんだ。
いい加減休めと商会長からも言われてしまってね。それでここに来たんだ。
あまりにも風景がタヘルミナに似ててさ、色々なものが恋しくなって、謝りたくって。
…そんな時に君に出会ったんだ。マルグリッド。」
「そう…だったのね…。私はね、感情が色として見えるの。だから貴方の深い絶望の色が見えた時、何とかしたいって思ってしまったのかもね。」
「今はどんな色が見えてる? 」
「安心とか、共感とか…好意…?そんな感じ。」
ジョルジュには他にも、微かだけどしっかりとした怒りの色が見えている事は言えなかった。
それからは二人とも何も言い出せず、しばらくは黙ったまま抱き合っていた。
二人の呼吸が落ち着いて来たころ、どちらからともなく手を絡ませ合って、身体も重なっていった。
まるで凍っていた心と十年に渡る時間が溶けて行くようだとマルタ、いやマルグリッドは思うのだった。
*
「へえ。あんたとうとう見つけたのかい? 」
翌朝、マダム・クラレンスに店を辞める事を伝えに行く。
前から教養のある秘書を探していたんだと言うジョルジュに付いて行く事にしたのだった。
今思えば、両親は本当に私の事を考えて縁談を勧めていてくれたんだなと思う。
そんな両親と重なるように、目の前のマダムの姿が滲んで行く。
「長い事お世話になりました。マダムが居なかったら…わたし…。」
「何しんみりしてんだい。生きてりゃまた会える事もあるさね。」
「ありがとう…ございました…。」
「ほら。餞別だ。胸元の開いた服しか無いんだろ? そろそろこんな事も起きそうだなと思ってさ。用意しておいたんだよ。」
やっと一言感謝の言葉を言えたマルグリッドは、大きな旅行鞄を渡される。
中にはマルグリッドくらいの年齢の女性が着るような、おとなしめのドレスが詰まっていた。
「こんな…。」
「餞別だって言ったろ? あんたみたいなのに何時までも居座られちゃ、若い娘が育たないんだよ。ほら。行った行った。」
思わずマルグリッドはマダムを抱きしめる。抱き締め返される手は暖かく、そして柔らかかった。
「二度と戻って来るんじゃないよ…。」
そう言うマダムの目にも涙が光っていた。
*
いつしか彼女は秘書からカスティリオ夫人と呼ばれるようになった。
お互いに虚像を愛し、虚像に裏切られた二人が歩み寄るには時間が掛かった。
だが、ジョルジュが見せる愛情の色は心地がよかった。
一夜の夢を見させる事が出来るなら、生きている間続く夢を見させる事だって出来るだろうとマルグリッドは思う。
彼が夢を見させてくれている間は、マルグリッドも同じように夢を見続けさせるのだ。
ただ、普段の仕草が演技なのかそうでは無いのか、自分では垣根が解らなくなって来ていた。
マルグリッドは今日は彼にとっておきの寝物語をしようと思っていた。
今までも彼と数々の物語を紡いで来たが、共に過ごした千夜目のお話としては、中々に良いものだ。
貴族令嬢だった娼婦が幸せをつかむ。そしてその中に新たな命が宿ったという話だ。
ジョルジュはこの陳腐なおとぎ話を喜んでくれるだろうかと思いながら、彼女は彼の部屋のドアをノックするのだった。
いかがでしたでしょうか。
R15で耽美な感じを出して見たかったのですが、中々思うようには行かないものです。
何とか完成する事が出来たので、供養の為に公開してみます。