四
斯くの如く紬太郎は、何か一つ躓く事があれば、丁寧に並べられたドミノ牌の様に全てが倒れていく性分だった。そんな性格のお陰で損をしているなと思うことも多々あり、早く直したい所の一つでもあったが、直す努力は然程行ってこなかった。過去にもこのような経験をした事は何度かあるが、記憶に新しいのは、前職である印刷会社を辞めて、就職活動をしていた時期である。退社してからの約一ヶ月、紬太郎はとにかく企業の面接を見れば雑多に受けていたものの、採用の通知は一向に来ることはなかった。就職の当ても付かず、貯金を切り崩しながら煙草と酒で転がす日々を送っていた。もはや自棄になっていた紬太郎は、いっそ実家に帰って働かずに過ごそうかとも考えたが、世間どころか身内にさえも儼たる態度を取られ、約三ヶ月経った頃からは岬の懐に頼っての生活を送る事になってしまった。すぐに決まるだろうと舐めきっていた報いか、一向に来ない合格通知に、やる気をもはや完全に失っていた。それから、紬太郎の元に採用通知が届いたのは、三ヶ月目も過ぎようとしていた頃。ポストに投函された合格通知を見るや否や、喜び勇んだ紬太郎は、そのままの勢いで岬の保育園まで自転車を走らせた。退勤後、すぐに送られてきた採用通知を見せると、岬も顔を綻ばせた。その日ばかりは金を出すことを渋る事なく、岬はすき焼きを振舞ってくれた。けれど、慣れていない職種は紬太郎のやる気を大きく損なわせた。加えて、教育係である西浦は、毎日の様に同僚の前で小言を浴びせ、紬太郎の自尊心を辱めた。初めは解らないなりに真剣に仕事を覚えようと、打ち込んでいた紬太郎だったが、毎日の仕事はいつしか、ストレスと時間を引き換えに僅かばかりの金を受け取りに行く場でしかなくなっていた。
下水に洗われた身体は、灰色から泥と苔が混じった溝の色になり、体毛を汚している。背中に滲む血は、下水に洗われたお陰で止まったようだが、鋭い痛みが背中に残った。
下水の中を流されること数分。足がつくぐらいの浅瀬まで流された紬太郎は、ふらつきながらも立ち上がった。暗渠の中は不気味な気配とヘドロの臭いが周囲に満ちている。水の音が絶え間なく聞こえ、不安感を募らせた。呼吸を荒げ、出口を探す。下水の流れに小さく波紋を立てて走った。音だけしかない、吐き気のする匂いと暗闇は、冷静な判断力を著しく狂わせる。光を求めて、紬太郎は走った。背中の傷はまた開き、体毛に血が滲む。痛みを堪えて走った。
やがて、真上から光が漏れている場所を見つける。狂喜の声を胸の内であげ、その場所まで走ったが、そこは紬太郎の体が届くことのない高さに蓋がしてあり、そこまで届いたところで体が出る隙間は一切無かった。
手を伸ばせば届く距離に光があるのに届かない。何度も伸ばした手は空気を掴むだけだった。息を荒げてその場にへたり込む。
(あぁ、くそっ)
毒を吐いた紬太郎は、そのまま寝転がった。ヘドロの臭いに次第に慣れていく嗅覚はもう自分は鼠になったのかもしれないと思わせる。くそったれ、と再び毒吐いていると向こうで白くぼやけている場所が見えた。暫く考え、そこが外に繋がっているのだと気づく。起き上がった紬太郎は、その光が差し込む場所まで走った。水音を立てて、その場所についた紬太郎は、初めて希望を覚えた。その一角のみ溝の平板が無くなっており、容易に外に出ることが出来そうだった。
やっとの思いで飛んで外へ出ると、夕陽が強く紬太郎を抱きしめる。一日中暖められた土瀝青は、体毛が含んだ水分を吸い取り、たちまちそこに居た痕を残した。辺りを見回して、ここがどこなのかを確かめようとしたが、視界はまるで役に立たず、居場所を確認するには至らなかった。頼みの綱である、鼻も下水の臭気に当てられたのか、匂いが上手く嗅ぎ取れない。残った耳で周りの音を聞き分けると、遠くで微かに車の音がした。大きな通りがあるのかもしれない。頭を振って、水分を飛ばした紬太郎はその方向へ真っ直ぐ走り出した。
しばらく走り、着いた場所はやはりここが何処なのかを理解するには至らなかった。ただ聞こえてくるのは、走る自動車音のみ。その場に座り込んだ紬太郎は、これからどうするかを考える。思うに、この姿になってから、単調な行動が多くなった気がした。それはもしかしたら姿だけではなく、頭の中まで鼠そのものに近づいているのかもしれない。これまで元に戻ることを常に考えてきた紬太郎だが、戻れない可能性を考えていない訳ではなかった。だが、これまでの行動を振り返って改めて考えると、やはりそう考えるのは恐ろしいと感じた。その時、頭に浮かんだのは、他でもない自分を常に支えてくれていた岬の顔だった。岬はこの姿になった自分を見てどう思うだろうか。心配してくれるだろうか。そもそもどうやって、この姿が紬太郎であることを伝えようか。考えが纏まらない間にも紬太郎は走り出した。それはただ、岬に会いたいと。自分を認めてくれる存在に対しての依存であった。
人通りの少ない、車もあまり通らない車道から、音の聞こえる方へ走る。路側帯の車線に沿って走っていくと大きな建物が密集している場所に辿り着いた。その形と、地面の模様で、ここが西新であることに気づいた。こんな所まで流れ着いていたのかと思う間も無く、すぐに走り出す。夕方に近づき人が増え、交通量も増した歩道は、視覚と嗅覚どころか聴覚さえも奪っていった。
岬の働く保育園は西新から少し離れた百道浜の方にある。住んでいる早良区方面からは少し離れているが、働きやすい環境だと昔言っていたのを思い出していた。角に建つコンビニの前にある信号を、人目に付かないように渡る。時には、紬太郎のそんな姿を見つける人間もいたが、捕まえてくる事は無かった。百道浜へ入ると、走り通しでさすがに疲労が溜まった紬太郎は、速度を緩める。他人の庭の、ガーデニングから伸びる葉っぱの陰で少し涼を取っていると、道路の真ん中で潰れた烏の死骸が目に入った。いつもはそんな事、気にも止めない紬太郎だが、先ほど死の恐怖に直面したばかりであり、それを視界に捉えた瞬間ゾッとした。後続車に轢かれたのか、地面にへばりついている翼はもう空を飛ぶこともない。赤黒いシミを残した肉塊はかつての原型を留めていなかった。『次は、車なんかに轢かれない生き物に生まれろよ』その烏に、同情の念を覚え、心の中で祈る。
見るに耐えられなくなった紬太郎は、僅かな地形を手懸かりに再び岬の勤め先を探し出す。だがやはり、手掛かりが少なすぎた。聴覚と嗅覚を頼りに回るが。目的の保育園は一向に見つからなかった。加えて、一度行った事のある場所とはいえ、体が小さいこの姿では、百道浜中を探すこともままならない。体力を使い果たし、折角満たした筈の飢えはまたうるさく鳴いていた。止まない腹の虫を無視しながら、もしかしたら保育園を見逃している可能性も考えて、来た道を引き返すが、やはり見つけることは出来ず、保育園を探す事はもう諦めて、今日これからどうやって生き伸びるかを考えた方が良いのではないか、と思い始めた時、車の音に紛れて微かに子どもの笑い声が聞こえた。それに気づいた紬太郎は辺りを見渡す。海に近いからか、潮風に乗ってその声は聞こえてきた。慌てて、その声の方へ走る。頭の中で、何度も岬の事を思い出して、微かに聞こえてきた波音が良い思い出だけを洗い出す。
角を曲がり、車の通りに注意しつつ、まっすぐ、その方向を目指していく。灰色に映る空の下、今が何時かも解らない中で、蝙蝠が空で、菫外線に灼けていた。真夏の風に揺られながら、波間に浮かぶボートのように揺蕩う。そして、巨大な建造物の間で、蹲るように建っている小さな建物を見つけた。子どもの声はその中から聞こえてきている。それに混じって大人の声が聞こえてきた。この声は恐らく保育士の声だろうと思った。
(みつけた……)
いずれにせよ、ようやく目的の保育園を見つけた紬太郎は気が抜けたが、安心するのはまだ早い。岬に会うまでが目的なのだから、ともう一度自分を奮い立たせた。
どうやら今はお迎えの時間のようだった。頻繁に入り口の門が開閉して、人が出入りしている事が、紬太郎の視界でも容易に確認することが出来る。
人の出入りが多く、好奇心旺盛な子どもたちが往来している正面の門からは、さすがに入ることは不可能だと判断した紬太郎は、裏口から保育園内へ進入することにした。
ここでは、特に見つからないように細心の注意を払い、中へ入る。保育園で鼠がいるのを仮に保護者にでも見つかってしまったものなら、衛生的な面を保護者に訴えられ、保育園の沽券に関わる。ここの園長とは、以前懇意にしてもらった事もあり、なるべく迷惑は掛けたくない。それに、最大の理由として岬にはなるべく負担を与えたくなかった。
裏口からの進入に成功した紬太郎は、岬を探す。まだ保育室に居るとすれば、さすがに近寄り難い。岬との会話の記憶を頼りに一歳児のクラスを受け持っている事を思い出して、以前来たときの記憶を頼りに一歳児のクラスへ向かった。二階建ての保育園の一階端にある『ももぐみ』。デフォルメされた文字で描かれたプレートが下げられている部屋の窓から室内を覗き見る。薄いガラスを隔てて、中の声がくぐもって聞こえてきた。子ども達はほとんど帰宅したのか、紬太郎の視界からは、点々と少数のぼやけた塊が見えた。それに寄り添うように大きな影が、二、三映りこむ。こちらがたぶん保育士だろうとしばらく中を覗き込むが、外からでは、やはり誰かまでを確認することが出来ない。けれど、室内に入るとさすがに気づかれてしまう可能性がある。室内に鼠が居ようものなら、まず子どもの玩具にされる事は請け合いだろう。紬太郎は先ほどの猫との戯れを思い出し、背筋を凍らせた。
仕方なく一旦その部屋を離れた紬太郎は他の部屋に、岬が居る可能性は無いか、見て回ることにした。壁際を伝い歩いていくと、階段にさし当たる。紬太郎はそのまま二階に上がった。子ども達はもういないのか、人の気配は無く、今日上り下りをしてきた階段と比べると高さのない階段を一段一段攀じ登る。何とか二階へと上がることができた紬太郎はそのまま、室内を軽く見て回るが、やはり子どもも大人も居なかった。全ての部屋を見て回った紬太郎は人がいないことを確認して、一階に下りようとした。その時、階段横の一室から声が聞こえてきた。いきなり聞こえたその声に慌てて身を隠す。それが岬のものだと、紬太郎は数秒遅れで気づいた。今すぐに室内に入りたい気持ちもあったが、生憎ドアは閉まっており、紬太郎はドアの前で岬が出てくるのを待った。
幸い、中からの会話は聞こえてくる。どうやら岬ともう一人居るらしい。洗濯物を一緒に干しているようで岬の声と別にやや掠れた女の声が聞こえてきた。
「波戸先生、これ干したらもう上がって良いからね」
どうやら岬に指示を出しているらしく、「はいっ」と元気な声で返事をしている。
恋人が他人に扱き使われている姿を聞くのは少し抵抗を感じる部分であるが、今は構っていられない。ましてや女同士の会話など、紬太郎にはどうでもよかった。
別の女は岬に話しかける。
「そういえば、波戸先生、彼氏とは順調なの?」
不意に、そんな質問が投げられ、岬は恥ずかしそうな、でもどこか嬉しそうな声で肯定の返事をした。その声を聞いた紬太郎は何となく得意げな気分になる。
「そっかー。いいなー。私も早く結婚したいなー」
「百瀬先生、美人だから相手沢山いますよ」
「だったらいいんだけどね。この仕事出会いがないからねー」
百瀬と呼ばれた女の、声のトーンが落ちる。これはどうやら本人にとって、あまり触れてほしくない話題だったようだ。
続けて、百瀬は「年上だっけ?」と岬に聞いた。それを窓の外で聞いていた紬太郎は苦笑する。紬太郎は今年22歳、岬は24歳なのだからどう考えても年下だろう。
紬太郎はバカにしたようにそう思ったが、岬はその質問に先程と同じように肯定で返した。
(……え?)
聞き間違いだと思った。
「優しいだろうねー。染野さんだっけ? 会社員?」
百瀬の声は、理解の追いつかない紬太郎の頭を置き去りに、今度は紬太郎の知らない人物の名前を上げた。
岬の困っているような声が聞こえて、百瀬はそれに構わずまたぞろ言葉を続けている。
その会話についていけていない紬太郎はその場に立ち尽くす。
(今のは、どういうことだ? 岬が付き合っているのは俺だろう。灰町 紬太郎だろう。染野って誰なんだ? まさか、中に居るのは岬じゃあ無いのか? だけど、さっき百瀬という奴が名前を言ったときは波戸先生と呼んでいるし、そもそも中から聞こえる声はどう考えても岬の声だ)
何わ言っているのか解らなかった。だが、窓の向こうの声は、慈悲無く紬太郎の耳に届く。
「近々、結婚するんです。その……染野くんと」
声が聞こえた。それはやはり甘く響く岬の声だった。間違うはずはない。そして、岬は染野なる謎の人物と結婚するらしい事も理解でした。
岬の言葉に、紬太郎の中で唯一拠り所としていたモノが、壊れたような気がした。
その言葉を皮切りに、盛り上がる二人から離れた紬太郎は、真白な廃疾となった頭を抱えて、保育園を去る。
もはや笑いしか出てこない。完全に行き場は失ってしまった。その胸中は、想い続けた女の気持ちがどこにあるのか解らず、日が落ちた街の中へ、ただ一人、静かに消えていくのであった。
五
どうやって、彼処から出たのかは解らない。気が付くと、紬太郎は街中を歩いていた。帰ろうにも、ここが果たしてどこなのか見当も付かなければ、帰る気力すらも湧かなかった。途方に暮れて、暗くなった歩道を歩く。ひたひたと体毛の生えていない手足を地面に付けて、視線を道路にやると味気ない街の色が見えた。その色と同じように紬太郎の人生はとうに彩りを失っているように思えた。社会に見放され、恋人にも捨てられた。紬太郎にとって、それは世界に拒絶されたことと同義だった。
すべてが終わった……夢のようだった岬との時間は、まさに夢から醒めたように色褪せていた。まるで最初からそんな時間、無かったかのように。岬は紬太郎以外の顔も知らない誰かに奪われたという事。それが、浮気なのか、二股なのか、もうどうでも良くなってしまった。岬とのことを思い出す度、あらゆる気力を奪われていく。こんな時に寄り添えるたった一人の人物は、知らない誰かと寄り添い、紬太郎の手が届かない場所へ行ってしまうのだろう。
思い返してみれば、岬との関係は本人達でさえ良く解っていなかった。ただ、いつの間にか側に居て、一緒にご飯を食べて、宛もなく出掛けて、身体を重ねた。気づいたら、そんな関係が出来上がってしまっていた。告白さえした記憶が無かった。もしかしたら、初めから、恋人ではなかったのかもしれない。すべては、紬太郎の勝手な思い込みだったのか。どれだけ考えても、あの時間はもう戻ってこない。
紬太郎は歩くのを止め、路側帯の側に腰を下ろす。軽い体がずしりと重く感じた。車が勢いよく目の前を通り過ぎていく。薄汚い、地面に坐ったまま、車道を眺める。一切の色が失われた視界のように、情動は何も湧かなかった。腹の虫が鳴っても、蟻が体を這っても体は石のように動けず、車が通り過ぎた際に起こる風だけが、時折体を揺らした。今日一日の残酷な夢の数を数えて、目を閉じる。このままだったら、死ぬかもしれないな、と思った。そして、やがて世の中に忘れ去られ、儚い命を謳いながら、心ない存在へ還っていく。なんと美しいことだろうか。命は循環の上で成り立ち、淘汰されていくのか。
紬太郎は、空を見上げた。星の色も空の色も、わからなかった。ぼんやりとした素鼠色が、視界を埋め尽くした。
紬太郎には、夢があった。それは、聞く人が聞けば、「そんな事」かと鼻で笑うようなモノだったが。紬太郎は、ただ家族が欲しかった。自分を、常に支えてくれる存在が欲しかった。家に帰るといつも側に寄り添ってくれる子どもと笑顔を向けてくれる嫁が欲しかった。
それは、常に他人に依存してしまう紬太郎にとって、心から欲して止まない存在だった。自分のような心の弱い人間には、どうしても必要なモノだと、思っていた。幼少の頃から、それなりに両親から愛を受けて育ってきた。裕福とは言えないながらも何不自由なく生きてきた。自分もそんな家庭を築くことはいつしか人生のささやかな目標になっていた。だがそれはもう、跡形も無い泡となって溝の底へ沈んでしまった。掬い上げる手は、希望だ。紬太郎は持っていない。
(一体、どこに帰ればいいのだろう?)
頭から循環するように癈疾が支配する。唯一人を思いながら黙する。胸が締め付けられた。他者と関われない事がこれほど辛いとは思ってもいなかった。
紬太郎は、車道を見る。目の前を通り過ぎる車を見つめる。
これまで精一杯生きてきた。もういいのかもしれない。これから元に戻るようにやり直すことも、もう疲れていた。永久の様に続く沈黙に思いを募らせる。その両手はもはや空っぽだ。何もかも無駄だった。温もりも安らぎも欲した物は全て失われた。
もしかしたら、自分は、最初から鼠だったのかもしれない。その思いは、次第に膨らんでいき、紬太郎の記憶さえも支配していく。
(そうだ。自分は最初から鼠だった。泥臭い下水の中で生まれ、光の無い世界で生きてきた。物心付いた時に母と言う存在は既におらず、手探りで渡り歩いた新しい家が、染野という男の家だった。彼は、意思の弱い男だったが、そんな彼でも伴侶を見つけて、毎日上司に扱き使われながら、何とか新しい会社で頑張って暮らしていた。自分は、そんな彼の唯一の同居人だったんだ。そんな彼が今度とうとう結婚するんだ。これほどめでたいことはない。同居人として、心から祝福しなければならないじゃないか)
紬太郎は立ち上がる。だが、一日走り回った足は、立ち上がる事さえも能わず、そのままふらふらと倒れて車道の方まで転がった。強烈な風切音と共に、黒い塊が、紬太郎の体のすぐ隣を通り過ぎる。それは、車のタイヤだった。何度もその場から離れようとしたが、立ち上がろうとしても、足に力が入らない。
(あぁ、なんて今日は素晴らしい日なんだ。まさかあいつが結婚するとは。こんな事、どうしてもっと早く言ってくれなかったんだろう? 自分もはやく伴侶を探さなければならないな。相手はもちろん白い毛皮の鼠がいいな。都会育ちの。子どももたくさん出来るだろうから、エサの獲り方を教えてやらないと。そうだ、俺はまだこんなところで死ぬわけにはいかないんだ。まだまだやりたい事は山ほどあるんだ。最愛の人とその子どもに見送られて、一生を終えたいんだ)
再び車の音が近づく。
(おねがいだ、動いてくれ。俺はまだ死にたくない。生きたいんだ。動いてくれ、動け!!)
紬太郎は、身体をむりやり起こした。だが、やはり足には完全に力が入らない。車の音は無常にも近づいてくる。ゆっくりと歩を進めながら、紬太郎は迫る黒い影から逃げる。目の前の幸せに手を伸ばすように。
最後に飛び込んできた景色は、やはり味気の無い、素鼠色の街だった。
了