丘の上と街
ぬちゃぬちゃとした、粘こくて、冷たい感触を足の裏で感じる。あたりは真っ暗で、後ろから、誰か…多分、男の人が、「走れ!」と叫んでるんだ。その時の僕はまだ今よりもっと小さくて、短い足で、必死に走ってた。その人が、僕のではない、誰かの名前を叫んで、その後に、真っ白い光が僕を包んだんだ。
マドックスの1日は、テディ叔母さんに怒鳴られることから始まる。
「マドックス!あんたいつまで寝てるの!もう9時だよ!」
「はぁい……」
マドックスはそう呟くと、星柄の布団をゆっくりと捲って、目を擦りながらのそのそと1階へ降りる。
1階へ降りると、もう叔母さんはテーブルに朝食を並べ始めていた。叔母さんは金色に限りなく近い茶髪で、真っ直ぐに伸びる長い髪を後ろで緩く1つ括りにしている、綺麗な人だ。目も少し青色かかっている。マドックスは、そんな叔母さんを誰かに褒められるのが自分が褒められるよりも心底好きだった。
「これとこれ、運んでおいてね」
叔母さんは大理石の天板の上に置かれている、ロースト・ポテトと、大学芋が載った2つの大きな皿を指さした。どちらからも、ほくほくと湯気が立っていて美味しそうな匂いがする。
「うん」
マドックスはその匂いを楽しみながら頷くと、その皿を手に持って机に置いた。
朝食に手をつけ始めると、叔母さんが話し始めた。
「今日の予定は?」
「今日も公園で遊ぶよ」
「まぁ分かってたけど。毎日毎日飽きないの?他の所にも遊びに行ったら?」
叔母さんがマドックスを見ながら言う。
「んー。今は公園で遊びたいんだ」
「そう」
叔母さんは頷くと、黙って食べ始めた。
朝食を終え、マドックスは洗面台に向かい、歯磨きをする。叔母さんは熱心な歯磨き愛好家であり、虫歯を親の仇かのように嫌っていた。どうやら、幼い頃に虫歯の治療で痛い目にあったらしい。マドックスが歯磨きするのを忘れそうになったり、あるいは忘れて何かをし始めると、鬼の形相で歯ブラシをもって詰め寄ってくるのだ。
歯磨きを終え、マドックスは自分の部屋に戻った。朝叔母さんに言った通り、今日は(というか、ほぼ毎日なのだが)、自分たちが住んでいる丘の下の街に住んでいる友人達と、遊ぶ予定があるのだ。棚に入っている適当な服を身につけ、いつものリュックを背負い、1階まで降りた。
1階では、叔母さんが洗濯機を回していた。
「行ってきます!」
「行ってらっしゃい」
マドックスは叔母さんの返事を聞くと、意気揚々と玄関の扉を開けた。
マドックスはカーポートに停まっている車の横にある、小さな自転車に近づき、ズボンのポケットから鍵を取り出して解除した。所々錆び付いてはいるものの、毎日のように何処かに遊びに行くマドックスにとっては相棒のような存在だ。マドックスは、丘を下るために自転車を走らせた。
丘の下の街「グリテンブルー」はマドックスにとって、面白いものがたくさんある場所だった。なんせ2人が住んでいる丘は、そもそも2人しか住んでおらず、また牛や馬しかいない、マドックスにとっては退屈な場所だからだ。よくここで会う人には、「夢のような場所」と表現されるが、まだ自然の良さを何一つ理解していないマドックスにとって、また自然に慣れきっているマドックスにとっては、何の変化もない、陳腐な丘でしかないのである。マドックスはここに対して憧れる人たちを、どこか変わった人だと認識していた。なんせマドックスにとって豊かな自然に囲まれている生活というのは、当たり前のことだからだ。自然が嫌いな訳では無い、ただ当たり前すぎるだけなのだ。だからこそ、この街はそんなマドックスにとって憩いの場所であった。
いつも通り景色を見ながらゆったりと走っていると、目の前で腰を屈めた、小さなおじいさんが地図を持ちながらあっちを見たり、こっちを見たりしているのが見えた。マドックスはそのおじいさんに近づいた。
「おじいさん、どうしたの?迷子?」
マドックスが自転車に跨ったままおじいさんに近づくと、おじいさんは驚いたように瞬きした。
「これはこれは……そうだね、迷子だ」
「どこに行きたいの?」
マドックスは尋ねた。
「グリテンブルー銀行に」
「それだったら、この筋をずーっと真っ直ぐに行ったら、右手に大きな教会が見える。その交差点で左に暫く行ったら良いよ」
おじいさんは感嘆したようにこくりと頷いた。
「なるほどお、ありがとねえ。君は聡明な子だ」
「別に。ここには毎日のように来るから、説明できるだけだよ」
おじいさんはマドックスの言葉を聞いて笑うと、ポケットから何かを取り出した。
「手を出して」
マドックスは不思議に思いながらも、手を差し出した。おじいさんは上からマドックスの手を包み込むようにした。その途端、差し出した手のひらに、何か、硬い感触があった。おじいさんが手をどけるとそこには銀のロケットペンダントがあった。
「それは、君が本当に命の危機に陥った時に、開けるべきものだよ」
「命の危機?」
「良いから、持っていきなさい」
おじいさんはそういうと、マドックスの指を、そのロケットペンダントを包み込むようにした。その力は見た目とは裏腹に、案外強かった。
「じゃあ、わしは行かねばならんから、失礼するよ。本当にありがとう」
おじいさんはそう言うと、マドックスが言った通りに歩き始めた。マドックスはおじいさんから視線を戻し、手の中にあるロケットペンダントをまじまじと見た。命の危機に瀕するとか、変なことを言う人だなとマドックスは思った。マドックスは腕につけていた腕時計を見ると、約束の時間に迫っていることに気が付き、そのロケットペンダントを適当にズボンのポケットに入れ、自転車を走らせた。
目的地に着くと、もう遊ぶ約束をしている友人のうち何名かが着いていた。
「おー!マドックス!来た来た!」
「おはよ」
マドックスが答えた。
「そういえばさ、聞いた?なんか昨日?二丁目で爆発事故があったらしいぞ」
友人グループの中でも随一の情報通(何故なら母親が記者をしているから)のお調子者、パーシーが言った。
「爆発事故?」
「うん。しかも、まだ原因がわかってないらしい」
「ガスとかじゃなくて?」
パーシーが首を振った。
「俺、お前みたいには賢くないからわかんねーけど、とにかく、そういう普通のやつじゃないらしい」
「へー、怖いね」
「お前、俺のお父さんと同じ反応してるよ……」
マドックスはカバンから、昨日遊んだ時に余っていたお菓子を取り出した。
「あ、昨日のやつじゃん!」
ちょっと太った、カレー屋の息子のビルが一目散にそれに反応した。
「うん。どうせ今日も遊ぶから、家に帰っても食べなかった」
「やるじゃん」
パーシーが言う。
「でもそれじゃあ、なんで爆発したんだろう」
マドックスがお菓子の袋を開けながら言う。
「まだその話?」
「その話をし始めたのは、パーシーじゃないか」
マドックスはお菓子の袋を差し出した。
「確かにそうだけどさあ」
パーシーがぶつぶつ言った。
「来る時に二丁目を通っておけば良かった」
マドックスはポテトチップスを口に放り込んだ。
「なんか、通れなくなってるらしいよ」
「そんなに大きな爆発だったの?じゃあパーシーは聞こえたの?その音。四丁目だよね?住んでるの。割と近くない?」
パーシーがパチン、と手を叩いた。
「それだよそれそれ、問題は。事故が起きたのは、夜の8時なんだ!俺はまだ全然起きてるよ。でも全くもって聞こえなかった!」
「えー?」
ビルが顔を顰めた。
「パーシーが寝てたとかではなく?」
後ろから、声が聞こえた。
「ウィルソン!」
振り返ると、そこには上質そうな上着を羽織り、自信たっぷり気に立つウィルソンがいた。
「いつの間に来てたんだよ!」
「なんか、面白い話してたからさ」
ウィルソンはマドックスの横に立った。
「ここってさ、なぜか知らないけど三丁目が無くて四丁目だよね?いきなり」
ビルが言った。
「戦争の影響でね」
ウィルソンが答えた。
「戦争?」
「うん。この街にも爆弾が落ちたから、結構更地になっちゃったんだ。復興するとなった時に、名称で争ったみたいだよ。なんせ三丁目に住んでた人々が全員死んでしまったから。三丁目に爆弾が落ちたからね」
「つまり、その人たちの為に名前は空けてあるってこと?」
パーシーが尋ねた。
「そういうことだよ」
ウィルソンが頷いた。
「よく分かんないけど、優しいってことだよね?」
ビルが首を傾げた。
「どうしてわからないんだ」
ウィルソンがため息をついた。
「僕らまだ7歳だよ!こんな会話、親ともしないさ」
ウィルソンはまるで関係が無いとでも言うように、首を振った。
「教養は早めに身につけて置いた方が良い。そうだろう、マドックス」
ウィルソンがマドックスの肩に腕を回した。
「ごめん、全然話聞いてなかった」
マドックスは呑気にポテトチップスを口に放り込んでいた。ウィルソンは拳でマドックスの頭を殴った。
「痛い!何するのさ!」
マドックスは殴られたところを手で覆った。
「すまない。つい手が」
「流石に今のはマドックスが悪い」
パーシーが言った。
「え?」
「悪い」
パーシーとビルが頷いた。
「そうなんだ」
「そうに決まっているだろう」
ウィルソンがため息をついた。
数分もすれば他の友人たちもやってきて、公園でカードゲームをしたり、各自持ち寄ったお菓子を皆でわけたりしていた。そして気づけばもう夕方の5時になっていた。
「僕、そろそろ帰らなきゃ」
「ああ、もうそんな時間か」
「うん」
マドックスは立ち上がると、みんなに別れを告げて、公園の入口の方に止めておいた自転車に近づいた。マドックスが自転車に跨ると、後ろから誰かが駆けてくる音が聞こえた。振り返ると、そこにはウィルソンがいた。
「どうしたの?」
「あのさ、一緒に帰らないか」
マドックスが笑った。
「勿論」
ウィルソンは自転車を持っていなかった。そのためマドックスは自転車を押しながら、歩道を歩いていた。ウィルソンは所謂「地主」の家系で、ここら一帯で一番のお金持ちだ。それこそ、ウィルソンの格好から滲み出ているし、自信がたっぷりで、ちょっぴり傲慢。でも人の様子をきちんと見ているところからもよくそれが分かる。
「それで、お父様が旧友と同窓会で遭遇したんだ。だから、今お父様は実は、ティリー島に居るんだ」
「ティリー島?」
「太平洋の真ん中に浮かぶ、小さな島だよ」
「ふぅん」
「お土産を買ってくれるって言ってたから、帰ってきたらマドックスにもあげるよ」
「ありがとう」
マドックスが礼を告げると、ウィルソンは嬉しそうに頷いた。
2人は丘の下まで来ると、足を止めた、
「じゃあ、この辺で」
「明日も会える?」
ウィルソンが言った。
「勿論」
マドックスは今度も即座に答えた。
ウィルソンは少々寂しがり屋な節があった。1人を嫌がり、常に誰かしらの近くに居ようとする。さっきだって、ウィルソンとマドックスだけ丘側だから、後を追って一緒に帰る提案をしてきたのだ。マドックスは、それを分かっていながらも先に帰ろうとする自分が、何故か幼いながらも少し嫌だった。
2人は手を振り合うと、左右それぞれに別れた。
自転車を走らせ、丘を登る。殆ど毎日している作業だが、何だかんだと言ってマドックスは一番この瞬間が好きだった。楽しかった一日を、一人で、気持ちの良い風に当たりながら振り返ることが出来るからだ。マドックスがもっと小さい頃は、よく小石に気づかず上を通ってしまい、バランス能力も無いために転倒していたものだ。そして毎日のように膝から血を流して帰ってきて、叔母さんに心配されつつも、呆れられるのだ。
2、30分自転車を走らせると、ようやく家が見えてきた。今日は珍しく叔母さんが外で水やりをしていなかった。いつもこの時間は庭の花に水を上げているのになと訝しぶりつつ、そんなこともあるかとマドックスは納得した。もしかしたら今日は街では降っていなかっただけで、丘だけ雨が降っていたのかもしれない。街からは少し離れているため、その可能性だってあるのだ。ただ、その割には道が濡れておらず走りやすいし、雨の独特な匂いもしないなとマドックスは思った。
自転車をカーポートに停め、鍵をかけて家に入ると、ソファに叔母さんが座っていた。
「ねえ、お花にお水をやらないの?それとも雨降ったの?」
叔母さんが振り返った。
「ああ、もうそんな時間?あげてくるわね」
「疲れてるの?もし疲れてるなら」
「え?いや、大丈夫よ」
マドックスの言葉を遮って叔母さんはそう言うと、外に出て行った。マドックスはその叔母さんの様子に、首を傾げつつも、自分の部屋に戻った。
その夜、マドックスは凄まじい音により、目が覚めた。
「何!?」
慌てて布団を蹴り上げて窓に走り寄り、外を確認するが、何か炎らしいものだったりとか、そういった異変は見受けられなかった。マドックスは窓を閉めると、扉を開けて、叔母さんの部屋に飛び込んだ。
「叔母さん!」
叔母さんはベッドのうえで、丸まりながら寝ていた。
「叔母さん、起きて!なんか凄い音がしたんだ!」
マドックスは叔母さんを両手で、体も使いながら精一杯揺らした。それでも叔母さんは呻く程度で、起きる気配が無い。非常に目覚めが良い叔母さんにしては、珍しい反応だった。夕方も様子が変だったし、体調でも悪いのであろうかとマドックスは思案する。だがマドックスは頭が良いとはよく言われるものの、所詮は7歳。あらゆる可能性を模索したとて、考えられる可能性は体調が悪いの1点だけであった。そうなると叔母さんを叩き起こすのは些か気が引け、マドックスは手を止めた。そもそも、凄まじい音を夢で聞いただけで、本当は鳴っていないのかもしれない。そもそも、外では何も起きていないのだ。本当に、自分の勘違いかもしれない。マドックスはそう思うと、乱れてしまった叔母さんの布団を整え、静かに自分の部屋に戻った。
自分の部屋に戻ったマドックスは布団に入ろうとしたが、その前に念の為もう一度窓を開けた。外は静かで、時々動物の鳴き声がするだけだった。丘の下の方に目を凝らしても、所々街の光が見えるだけで、炎らしきもの等は見えなかった。マドックスは首を傾げながら窓を閉めると、そのまま布団に戻り、目をつぶった。
小鳥の囀りで目が覚めた。昨夜の件があったからか、いつもよりも早めに目が覚めてしまった。2度寝しようと布団を頭まで被り、目を閉じるも何故か頭が冴え渡っていて眠れない。マドックスは仕方なく枕元に置いてあった本を読み始めた。
暫くすると、叔母さんが部屋から出てくる音が聞こえた。マドックスはその瞬間に本を閉じ、本棚にしまうと自分も部屋を出て、叔母さんを手伝いに行った。
朝ごはんを食べ終わると、マドックスは今日もまた遊びに行く準備をし始めた。そして準備を整え、玄関に向かいマドックスはドアノブに手をかけた。
「いってきまーす」
「はーい」
マドックスが春の爽やかで、優しい風を楽しみながら自転車で丘を降りていると、下の方に見覚えのある、銀髪の子が立っているのが見えた。
「ウィルソン!」
マドックスが声を上げると、ウィルソンがばっと上を見上げた。ウィルソンはマドックスを見つけると、まるで花が咲いたかのように笑った。
「マドックス!」
マドックスはスピードを上げてウィルソンの元に辿り着くと、急ブレーキを掛けた。甲高い音を鳴らしながら、後輪が少し上がって止まる。
「危ないじゃないか!」
「これくらい平気さ」
マドックスがそう答えるとウィルソンは顔を顰めた。
「それより、なんでこんな所に居るんだい」
マドックスがそう言うと、ウィルソンは顔を背けた。
「ウィルソン?」
「な、なんでも良いだろ!そんなことより、早く行かないと、遅刻するぞ!」
ウィルソンはそう言うとマドックスの手首を持ってグイグイと引っ張りながら歩き始めた。
「え?うん」
マドックスは左腕につけている腕時計をチラッと見たが、まだ約束の時間まで30分以上あった。
2人は、いつものように色んな話をしながら歩いていた。話があっちへこっちへ、時には光速でも追いつけないような速さで話が行き来することだってあった。各々が好きな話をして、各々が好きなことをする。それが2人の日常だ。
「それで、お母様は怒って家から出ちゃったんだ!」
「ええ?」
「その時に出会ったのが、お父様なのさ」
「まぁでも、僕がお母さんの立場だったら、同じことするかも」
マドックスがそう言うと、ウィルソンが頷く。
「僕もだね。毎日貴族がうんたらこうたら言われてたら、頭が狂うと思うよ」
「どうする?僕がいきなり『この世に貴族以外は要らない!』とか言い始めたら」
「とりあえず、頭をぶん殴っておくよ」
ウィルソンがそう言いながら頷いた。
「僕の頭殴るの好きだね?」
「良い頭を持ってるのに使わないのが悪い」
「これでも使ってる方だと思うんだけどな……」
ウィルソンは顔を顰めると、横に勢いよく振る。
「もっとマドックスなら使える」
「ウィルソンは僕に一体何を求めてるの???」
マドックスがそう言うと、ウィルソンは笑った。
「全部だよ」
「全部?」
マドックスが首を傾げた。
「うん。そう。全部」
ウィルソンがマドックスを見ながら頷く。
「何を言ってるんだ本当に」
マドックスが思わずそう言うと、ウィルソンが笑った。そしてそれに釣られてマドックスも笑った。
昨日と同じ場所に到着した二人は、まだ友人達が誰も着いていなかったので、公園の真ん中にある大きな木の下に座り、二人はウィルソンが持ってきた本を読んでいた。
『 昔、スウィル湾沿いの小さな都市に、ハゼルとウィスターという二人の男の子が居ました。ハゼルはスウィル港の近くに住んでいる、至って普通の漁師の家系でウィスターは、市長の息子でした。一見繋がりが無さそうな二人ではありますが、二人は毎日公園で遊ぶくらい、仲の良い親友同士でした。ウィスターは自分の自慢話をするのが好きで、よくハゼルに色々な自分の武勇伝を語っていました。ウィスターのその話をハゼルは、天使のような笑みを浮かべながら聞いていました。ハゼルがその顔をするのはウィスターの自慢話をしている時でした。ウィスターはその笑みが心の底から好きでした。ですから、ウィスターは沢山自慢話をしました。ハゼルは、ウィスターにとって最愛の人だったのです』
「ウィルソンは、ハゼルみたいだよな」
マドックスが何気無しに呟くと、ウィルソンは「へ?」と素っ頓狂な声を上げて固まった。
「ウィルソン?」
マドックスがウィルソンの顔を覗き込んだ。
「そ、それを言うなら、マドックスだって、ハゼルみたいじゃないか」
「僕はそんな天使みたいな笑みとか、浮かべられないよ」
マドックスが本を読みながらそう言った。
「そ、それどういう意味」
「え?そのまんま」
マドックスが首を傾げながら顔を上げると、ウィルソンが白い陶器のような肌を真っ赤に染め上げていた。マドックスはそれを見るとクスリと笑った。
「どうしたの?」
「ほ、ほら…!天使みたいな笑みしてる!」
ウィルソンが手を震わせながらマドックスを指差す。
「はあ?」
マドックスが顔を顰めた。
「お、お前はいつもそんな笑い方して僕を見てくるんだ!良い加減にわかれよぉ」
ウィルソンはへなへなと本に顔を埋めた。
「いきなり何なんだ…つか、ちょ、字が見えない」
「うるさぃ」
「ウィルソン?」
マドックスは困ったように首を傾げた。ウィルソンの長い、純白のまつ毛が赤みを帯びた肌に少しの影をもたらしている。まるで彫刻のようだとマドックスは思った。
「何さ」
ウィルソンはマドックスを鋭く睨みつけた。が、頬を染めているせいで、何の害もない小動物の威嚇のようにしかマドックスは感じなかった。
「続きが読みたい」
マドックスがそう言うとウィルソンは更にムッと眉をひそめた。
「僕と本、どっちが大切なのさ」
「そりゃウィルソンだよ」
マドックスが即座にそう返すと、ウィルソンの眉間のシワが薄くなった。
「人たらしめ」
「何それ」
「知らなくて良いよ!」
ウィルソンはふんっと鼻を鳴らすと、いそいそと本をリュックにしまってしまった。
「あーあ、僕読みたかったのに」
「マドックスは僕を見とけば良いのさ」
「見てるけど?」
マドックスがそう言うと、ウィルソンは一瞬目を見開き、そして眉を顰め、最後には花畑の中に佇んでいるような笑顔を見せた。
「やっぱりウィルソンはハゼルだよ」
「ちょっと!」
ウィルソンがぷくりと頬を膨らませた。マドックスはそれを見て、ちょっと笑ってしまった。
あれから少しも経たないうちに友人が集まり、昨日と同じように遊んだ。そして、昨日と同じようにマドックスは皆に別れを告げた。そして、昨日と同じようにウィルソンがマドックスの後を追ってきた。
「一緒に帰ろ?」
「勿論」
マドックスがそう言うとウィルソンはまた、同じような笑みを浮かべた。
マドックスが暗くなりかけの空を何の考えも無しに眺めながら歩いていると、ウィルソンはマドックスの腕を掴んだ。
「どうしたの?」
「明日も会えるよね?」
「勿論」
マドックスが迷わず答えると、ウィルソンはんふ、と幸せそうに笑った。
「あ、そういえば」
マドックスが前に向き直りながら言った
「昨日、なんだか凄い音が夜にしなかった?まるで爆発音みたいな」
マドックスがそう言うと、辺りが何の虫の音も、車の音も、人の声もしなくなっていた。
「ウィルソン?」
マドックスがウィルソンの方を向いた。
「へ?…そんな音聞いてないけどな」
ウィルソンが困ったように笑った。
「ふぅん。やっぱりあれは夢だったのか」
「そうなんじゃない?」
ウィルソンが頷いた。
いつもの交差点で別れを告げ、丘を登っていく。所々に林業組合の人が植えた桜の木が植わっており、何気ない丘に華やかな桜色を提供していた。丘の麓に住むソフィアという老婆が育てているチューリップやネモフィラも、何の変哲もない緑色の丘に可憐な色を加えていた。
家に近づくと、今日も叔母さんはは外に居なかった。本当に体調が悪いのかもしれないと思い、自転車を漕ぐスピードを上げる。カーポートに自転車を置き、辛うじて鍵を閉めると家の中に飛び込んだ。しかしそこには、叔母さんの靴と、もう1人の誰かの靴があった。
「叔母さん?」
マドックスは小声で呼びかけた。応答はない。マドックスは恐る恐る、リビングの扉を開けた。そこには、見知らぬ男がソファに座っていた。
「あの…?」
マドックスがそう呼びかけると男は振り向いた。
「やあ、君がマドックス君かな?」
男は短く整えられた白髪で、顔にシワはあるものの、目鼻立ちがくっきりとしたダンディな初老だった。黄金のチェーンがついた深紅の長いケープマントを羽織っている。
「そうですが…?」
「君にお話があって来たんだ」
「話?」
マドックスが眉をひそめた。
「君を、アルカナ魔法学校に推薦したい」
「はい?」
マドックスの眉間に出来た皺が深まる。
「君は、魔法を知っているかな?」
「魔法?」
マドックスが顎を引く。
「あぁそうだ」
男が頷いた。
「物語の中の話をしているんですか?」
「いいや?魔法は現実にある」
マドックスはゆっくりとリビングの扉のドアノブに手をかけた。
「私はアルカナ魔法学校の校長、ヴァルロンだ」
「何故こんな所に居るんですか。不法侵入ですよ」
「君の叔母さんとちょっとした知り合いでね」
ヴァルロンが微笑みを浮かべた。
「叔母さんと?」
「君の叔母さん、昨日から様子が可笑しかっただろう」
ヴァルロンは脚を組んだ。なんでこいつがそれを知っているんだとマドックスは思った。
「単刀直入に言うと、君の叔母さんは呪われている」
「は?」
ヴァルロンはそう言うとムクリと立ち上がり、懐から枝…のようなものを取り出すとそれを振った。すると、杖の先端から綺麗な色とりどりの花が出てきた。
「これで、魔法の存在は信じて貰えたかな?」
マドックスは目を見開いて固まっていた。
「まぁ驚くのも無理はないね。だが、これを夢だと信じ込むのは君にとって宜しくないことは断言しておこう。昨夜の爆音のようにね」
「なんでそれを知って…」
マドックスがヴァルロンを呆然と見つめた。ヴァルロンはニヤリと笑った。
「さて、君の叔母さんは魔法使い用の病院に送り込んでおく。そしてこれが入学書類、必要な物一覧だ。入学式は明後日だ。明日グリテンブルー駅の中央口まで来てくれたら、私の部下がそこに居るよ。後は彼と共に行動を共にすれば、無事に学校に着けるはずだ」
「は?」
ヴァルロンはマドックスの横を通り抜け、杖を上に掲げた。すると、階段をゆっくりと仰向けの叔母さんが浮いて降りてくる。マドックスは驚きで声も上げられずに固まっていた。そしてそのまま、ヴァルロンと叔母さんは家を出た。マドックスが我に返って慌てて家の外に靴も履かずに出た時には、もう二人は何処にも居なかった。




