1 アイリーン・アドラーの憂鬱
桜広場イレギュラーズー麻子と真司のその後ーに続く中編です。
夕方のファミレスは、部活帰りの学生や、仕事終わりの大人たちでほどよく埋まっていた。
ガラス越しの空はまだ明るいのに、店内にはもう夜の気配が混ざり始めている。
そのとき、不意に店内の有線放送の曲が切り替わった。
――透明で、どこか遠くまで届くような歌声。
「あ……」
俺――真司は、反射的に顔を上げた。
聞き間違えるはずがない。この声は。
「綺堂さくら……」
小さく呟いたつもりだったのに、思ったよりはっきりと口から出ていた。
テーブルの向かいで、麻子がストローをくわえたまま、少しだけ目を丸くする。
「今の曲、わかるの?」
「わかるに決まってるだろ」
思わず前のめりになる。
「これ、新曲だぞ。まだCDも出てないやつ。有線で先行流れてるんだよ、たぶん」
耳を澄ませる。サビの入り方、息の抜き方、バックのストリングス。
間違いない。
「この人、最近すごいんだよ。歌い方が変わってきててさ。前より感情の乗せ方が――」
「うんうん」
麻子は軽く頷きながら、俺の話を受け止める。
否定もしないし、適当に流す感じでもない。ちゃんと聞いている顔をしている。
それがわかるから、俺はつい話し続けてしまう。
「この曲もさ、たぶんライブだともっとすごいはずなんだよ。音源より絶対いい」
俺はテーブルの端に置いてあった雑誌を引き寄せた。
さっきまで何気なくめくっていた、情報誌――ぴあだ。
「ほら、これ」
ページを開いて指で叩く。
「来月、大阪でライブあるんだよ。追加公演」
小さな記事。でも、そこに載っている名前だけで十分だった。
綺堂さくら。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
「行きたいなあ……」
思わず本音がこぼれる。
「真司、ほんと好きだよね」
麻子が少しだけ笑った。
「いいじゃん、好きで」
「うん、いいと思うよ」
その言い方は優しくて、でもほんの少しだけ距離があった。
俺はそれに気づかないふりをして、もう一度雑誌に目を落とす。
「ねえ真司」
「ん?」
「アイリーン・アドラーって、結局どういう人だと思う?」
唐突な話題に、俺は顔を上げた。
「なんだよ急に」
「さっき図書室で読んでてさ」
麻子はグラスの氷をストローで静かに回す。カラン、と小さな音が鳴る。
「どう思う?」
「どうって……」
俺は少し考えてから答える。
「シャーロック・ホームズを唯一出し抜いた女性だろ。それで十分すごいじゃん」
「うん、すごいよね」
麻子は頷く。
「でもさ」
そのまま、少しだけ視線を落とした。
「彼女って、本当に勝ったのかな」
「え?」
「なんていうか……勝とうとしてたのかなって」
俺は眉をひそめる。
「いや、勝っただろ。ホームズも認めてるし。“あの人”って」
「うん」
麻子は小さく笑った。
「でも最後、全部捨てていくでしょ?」
「まあ……」
「名前も、立場も、過去も」
ストローが、グラスの中でゆっくり止まる。
「それって、勝ち負けより大事なものがあったってことじゃないのかなって思うの」
俺は言葉に詰まる。
そんなふうに考えたことはなかった。
アイリーン・アドラーは、ホームズを出し抜いた女性。それ以上でもそれ以下でもなかった。
「ねえ真司」
「ん?」
「もしさ」
麻子は顔を上げて、まっすぐ俺を見る。
「すごく大事なものが二つあったら、どっちか選べる?」
「は?」
唐突すぎる質問に、思わず笑ってしまう。
「なんだよそれ」
「いいから」
その目は冗談じゃなかった。
俺は少しだけ考えて――でも、すぐに答えた。
「ライブは行く」
「え?」
「だってこの公演、一回きりかもしれないし」
ぴあを指で叩く。
「こういうの逃したら、もう同じのは見れないんだよ」
「……そっか」
麻子はそう言って、少しだけ目を伏せた。
「でもね」
静かに続ける。
「それが“一番大事なもの”ってこと?」
「いや、それは――」
言いかけて、言葉が止まる。
本当にそうなのか?
自分でも、よくわからない。
ただ、今この瞬間、頭にあるのはライブのことばかりだった。
有線から流れる歌声が、ちょうどサビに入る。
胸が締めつけられるような、あのフレーズ。
俺は無意識に、それを口ずさんでいた。
麻子はそんな僕を見て、小さく微笑む。
「ほんと、好きなんだね」
「……ああ」
その言葉に嘘はなかった。
好きだ。
この歌も、この声も。
でも――
その“好き”が、どんな種類のものなのか。
そのときの俺は、まだちゃんとわかっていなかった。
そしてきっと、麻子はそれに、気づき始めていた。
アイデアを出してAIが書いたものを加筆修正しました。
真司ー俺の視点です。
中学生にはネットも携帯もまだ普及していない時代2001年頃です。
中学生はライブやコンサートに行くのもラジオやぴあという情報誌でライブ情報を得ていたような時代です。




