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その夜、業務を終えた片山は一人デスクに向かい、シュミレーションの反省を踏まえながらマニュアルを読み込んでいた。広域空域での管制は、彼が経験してきた羽田や地方空港での業務とはまた違った難しさがあり、片山はそれを克服しようと真剣だった。デスクランプの下で、彼は赤いペンで細かく書き込みを入れながら、注意深く各ページをめくっていく。
「まだ残ってたんですね。」
不意に声をかけられ、片山は顔を上げた。そこには北村が立っていた。彼女はカップを手に持ちながら、笑顔を浮かべていた。
「北村さんか、どうしたんだ?もう帰ったと思ったよ。」
北村は微笑みながら言った。
「忘れ物しちゃって、戻ってきたんです。それに、拓海君が帰り際に『片山さんがまだ残ってる』ってラインが来たので…。ちょっと気になって様子を見に来たんです。」
片山は少し驚いたように眉を上げたあと、柔らかい表情で答えた。
「そうだったのか。悪いな。でも、そんなに気を遣わなくても大丈夫だ。遅くまで仕事をしているのはいつものことだから。」
北村は片山のデスクの横に立ちながら続けた。
「今日のシュミレーション、すごかったです。それに、私たちにもいろいろアドバイスをくださって、本当に勉強になりました。」
片山は苦笑しながら答えた。
「まだまだ自分が慣れるのに精一杯で、アドバイスなんておこがましいさ。でも、ありがとう。」
北村は少し考えるように視線を下げた後、再び片山に目を向けた。
「片山さんって、この仕事が好きなんですね。指示を出している姿を見て、そう感じました。」
「この仕事が好きか…」
片山は一瞬考え込んだ。
「そうかもしれないな。こうやって直接航空機や空域を管理するのが、自分には合っているのかもしれない。」
「あの、改めまして、これからよろしくお願いします。」
北村は微笑みながら静かに言った。
片山はその言葉に軽く頷き、
「こちらこそ、よろしく。」
と応じた。
「それにしても…」
北村は片山の机の上に広がるマニュアルを見て驚いたように言った。
「こんなに細かく書き込んでいるんですね。まるで学生みたい。」
片山は恥ずかしそうに笑いながら、冗談めかして返した。
「こうでもしないと覚えられなくてさ。歳のせいかな、昔よりも頭に入るのが遅くなってる気がするよ。」
北村はその言葉に微笑みながら、
「そんなことないですよ。片山さん、全然若いですから。」
と励ました。
二人の間にしばしの静寂が流れた後、北村がふと時計を見て言った。
「もう遅いですし、そろそろ帰りませんか?終電も近いし、片山さんも休まないと。」
「もうそんな時間か。じゃあ、今日はこれくらいにしておくか。」
片山はマニュアルを鞄に入れ、デスクの上を片付け始めた。
二人は一緒にオフィスを後にした。夜風が静かに吹く中、北村と片山は並んで駅へと向かった。 夜の空気は冷たく、日中の喧騒が嘘のように静まり返っていた。道中、街路樹の間から見える月が明るく輝いていた。
「忘れ物をしたって言ってたけど、帰りも遅くなったな。悪いな、付き合わせて。」
「いえ、そんなことないです。むしろ片山さんと話せてよかったです。」
北村は穏やかな笑顔を浮かべながら答えた。 二人はしばらく並んで歩いた。
駅が近づくにつれ、少しずつ人通りも増えてきた。
「片山さん、今日は本当にお疲れ様でした。」
北村が立ち止まりながら言った。
「私は川越方面ですね。片山さんはどっちですか?」
片山も足を止めて北村を見た。
「俺は東村山だから逆方面だな。じゃあ、気をつけて。」
「はい、ありがとうございます。また明日!」
北村は軽く手を振り、改札へと向かった。 片山は北村を見送った後、自分の電車に乗るため、所沢方面行きのホームへ向かった。夜のホームは冷たい風が吹き抜け、片山はコートの襟を少し立てながらベンチに腰掛けた。 呟きながら片山は遠くの空を見上げた。星がぽつりぽつりと輝いている。彼の中で新たな一歩を踏み出したという実感と、羽田で過ごした日々への郷愁が入り混じっていた。
電車がホームに滑り込む音が響いた。片山はバッグを持ち直し、乗り込んだ。車内は意外と混んでおらず、窓際の席に腰を下ろす。窓越しに見える街並みが徐々に後ろへと流れていく中、片山は明日からの業務に向けて心を引き締めた。 片山は静かに目を閉じ、明日のシュミレーションと業務の段取りを頭の中で整理し始めた。
東京コントロールでの挑戦が、いよいよ本格的に始まろうとしていた。




