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失う


(どうしよう、こんなことになって……リューン様の大切なリンデンバウムを、私が、私が台無しに……どうしよう、)


ぼろぼろと零れ落ちる涙をそのままに、ムイは足元から崩れて座り込んだ。


全身の力が一気に抜け去り、そして魂をも去っていくような感覚。


「ムイ、大丈夫ですか?」


ローウェンが倒れたムイを抱え起す。肩を抱くと、ぶるぶると震え、ローウェンの身体をも揺すった。


二度目のリサイタルと称して、ハイドは二日後、さらに人を掻き集めた。教会の敷地内ではもう狭いこともあり、リンデンバウム城の広い中庭を勝手に解放してしまった。人々が中庭に溢れかえり、アランの自慢のバラ園も人々に手折られては汚され、そしてぐちゃぐちゃに踏み荒らされた。


中庭を望むことのできるリューンの書斎のバルコニー。


そこへ、ハイドとムイ、そして二胡奏者のシバ、ユリアス神父と並ぶと、歓声は大波のように押し寄せて、その空間を覆った。


「ハイドさまああ」


「ムイさまああ」


誰一人として、リューンの名を呼ぶ者がいない。その現実がムイを打ちのめそうと、繰り返し叩きつけてくる。


(このようなことになるなんて……リューン様、申し訳ございません、申し訳ございま、せ、ん、)


何度も。


ハイドの暴走を、真の名を使って止めようと思った。そんな様子を伺っていたハイドが、ムイの側で囁きかける。


「ムイ、この俺がお前の父親だけでなく、リューン殿も握っているのを忘れるなよ」


冷ややかに言い放った。


「……リューン様は今、遠征にお出になっています。もうすぐ帰られるはずです」


強気で出たものを無残にも打ち砕かれた。


「はははっ、知らなかったのか? まあお前は知らないだろうなあ。リューン殿は愚かなことにお前との結婚の許可を取りに、国王陛下へ直訴をしに行ったのだ。そして今は、リアン宰相の元、日々を過ごされているのだ」


「うそ、ど、どうして、」


「リューン殿は、今やリアン宰相の手の中だ。お前は俺の言うことを聞くしかないのだ」


絶望の思いでムイはその場を動けなくなった。ハイドを操ろうとすれば、ハイドの背後にいるリアン宰相が動く。


ハイドは、動けないムイを乱暴に抱き寄せると、耳元に触れるくらいに唇を近づけて言った。


「わかっただろう? 変な気は起こすなよ。もし俺に逆らうのであれば、お前の愛するリューンの首を掻き切ってやるからな」


(……リューン様、)


ムイは何度も弱々しく、心の中でリューンの名前を呟くしかなかった。


そして、今日のこの二度目のリサイタル。


「恐らく、リンデンバウムの領民の半数以上が、ここにいるはずだ」


目の前の人々を見回して、ハイドは言った。


「あと数回、このようなリサイタルをすれば、完璧にリューン殿を追い出すことができる」


ムイの虚ろな目には歓喜する人々の姿は写りはしたが、その地響きのような歓声は耳には入らない。


斜め前に立つハイドは、観衆に向かって右手を上げて振った。


後ろを振り返ると、ローウェン、ユリアス神父、シバが控えており、けれどその目には彼らの意思は宿っていない。


ムイの真の名の力が影響を及ぼさないのは、ただ一人、ムイが人々に忠誠を誓わせたハイドのみなのだ。


ぽつんと、ひとりの空恐ろしさを感じた。ハイドと二人であろうが、ムイの味方は一人もいない。


孤独ということの恐ろしさ。


同じように、このリンデンバウム城で育ったリューンに思いを馳せた。


(リューン様はご両親も早くに亡くし、そして名を握る力を持つがゆえ、孤独であったのだと聞いていたけれど……)


今、ムイが。リューンが享受してきた孤独感に、苛まれている。


(リューン様もきっと、この恐ろしさに耐えていらっしゃったのだ)


涙が、頬を流れた。


(リューン様はご無事なのだろうか。リューン様に会いたい、会いたくて仕方がない)


自然と歌が口をついて出た。


けれど、その歌は恋人との別れを悲しむ、苦しみの旋律だ。


その惜別の歌を大いに歌い上げると、ムイの目から涙が溢れた。


「リリー=ラングレーの名の下に、」


指先で涙を拭う。


「リンデンバウムの栄誉、領主ハイド様に、皆さんの忠誠と祝福を‼︎」


おおおっと地を揺らすように歓声が鳴った。ムイの歌と相まって、観衆の興奮と感激に、リンデンバウムの空気がビリビリと震える。


ムイが横を見る。


ハイドがこちらを見ている。


口角を上げ、にやと笑うと、ムイに近づいてきた。


「ムイ、お前は最高の女だ」


そして、無気力なムイを抱き締めると、「愛している、ムイ」囁きながら、何度も頬にキスをした。そして、そのハイドの唇がムイの唇へと重なった時。


どんっと衝撃があった。


身体が大きく揺れて、ムイは正気を取り戻した。


「ハイド、さま?」


ハイドの身体もぐらりと傾き、ムイが咄嗟に両腕で抱えるが、その重みは支えきれない。二人はもつれてその場に崩れ落ちると、ムイはハイドの顔を覗き込んだ。


「は、ハイド様っ」


「……な、なに、が、起き、た」


ハイドの口から鮮血が噴き出して溢れる。その血は、ムイの白いドレスを真っ赤に染めた。


「あ、」


ムイが顔を上げた先には、ユリアス神父がぞっとするような冷たい表情を浮かべて立っていた。


「ゆ、ユリアスさ、ま」


ハイドの身体がどっとムイへと倒れ込んできた。


ムイがその身体を抱えると、その背中に剣の鍔のようなものが刺さっているのが目に飛び込んできた。


もちろん、ハイドの背中もその剣の鍔を中心に、真っ赤に染まっている。


「あ、あ、ああ」


ムイが恐怖の声を上げた。


「……ムイ様、大丈夫でしょうか? このように下劣な者に、その唇を許してはいけませんよ」


ユリアスが近づいてきて、ムイに覆いかぶさっているハイドの腕を引き上げる。ハイドの重みがすっと無くなったかと思うと、ユリアスはハイドを引きずっていき、バルコニーの手すりの前へと放った。ハイドの身体がどさっと横たえられる。


「これでもう、大丈夫ですよ」


そして、ユリアスはそのままムイに近づいてくる。一歩一歩がスローモーションのように、ムイには見えた。


ムイは血だらけになった手で床を押し上げて、後ろへと退がろうとした。


「ユリアス様、どうしてこのようなことを……」


その一言を発するのにも、ガチガチと震える唇と歯に阻まれて、うまく言えなかった。


「ムイ様、もう邪魔者はおりません」


徐々に近づいてくるユリアスから逃れようと、なんとかして立ち上がる。けれど、足は震えて言うことをきかず、ぐらと倒れそうになるのをバルコニーの手すりに掴まり、なんとか耐える。


「大丈夫ですか、立てますか?」


優しい声が、逆にムイの背中に戦慄を走らせる。


「は、離して、」


ユリアスにぐいっと腕を掴まれ、ムイはその拘束から逃れようと、必死にもがいた。


「離してください、」


「ムイ様、どうかこの私の妻に。リューン様の代わりに、私がリンデンバウムの領主となりますっ」


「ユリアスさ、ま、」


くるっと身体をひねり回され、バルコニーの手すりに押し付けられる。観衆の姿が見える体勢に、ムイは顔を歪めて言った。


「やめてください、ユリアス様っ」


「さあ、真の名の力を。このユリアスが、リンデンバウムの新しい領主であると。さあ、命令してください。私が領主だと。そして、」


声を落として、言った。


「教会を軽視し、ないがしろにしているこの国の国政を……愚かな国王の過ちを断罪してくださいっっ‼︎」


がっと、背中を手すりに押しつけられ、溜まっていたムイの涙がその拍子に散った。


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