第19話
「俺は今、視力と引き換えに究極のパワーを手に入れた。真の強者とはどういう事か知っているか?それは戦わずとも相手の力が判ってしまう事だ。十秒やる・・・・その間に逃げるか・・・それとも攻撃をするか・・・とにかくその時間を有利に使ってくれ。頼むから俺を楽しませてくれよ?それでは・・・一・・・二・・・・」
キルを背後にアスタロトはそう言い放ち、秒数を数え始めるとそれに続きキルがにやけ半分、眉間にシワを寄せながらこう言った。
「自身満々ってところだね。ちょっとムカつくけどお言葉に甘えさせてもらうよ・・・・。」
背を向けたまま秒数を数え続けるアスタロトを鋭い眼差しで睨み付けるキル。すると、アスタロトの目の前に、浮遊する一枚の銀色のパネルが現れた。その大きさは一ドル札ほどの小さなパネルなのだが、やがてそれが物凄い勢いで増殖を繰り返すと、六秒を数え終わった頃には銀色のパネルが立方体を作り出し、アスタロトを閉じ込めてしまっていた。
キルが創り出した謎の物質に覆われ、漆黒の闇の中でようやく十を数え終えたアスタロト。
「準備はいいか・・・?」
銀色の立方体の中から不気味な声が聞えると、バコンッという大きな衝突音が二回ほど響き渡った。
粘りのある鋼鉄製なのか簡単には破れず、二回鳴った衝突音の後には一部の壁面が変形し小さな拳の跡がくっきりと浮かび上がっていた。が、これで終わるはずがない。ピシッ・・・ピシッという異様な音を奏でながら、銀色の箱は悲鳴を上げるように徐々に凍りつくと、凄まじい衝撃音と共にそれは内側から破裂する様に粉々に砕け散ったのだ。そして、その結果が必然的なように、周りには二十人ものキルが中央に居る標的へと掌を翳し、待ち構えていた。しかも、手を翳す二十人のキルの後ろ側には、それぞれ異なる色の扉が設置されているではないか。
「集中砲火・・・・よーい。」
黄金色の扉の前に立つキルが標的を指差しそう言うと、一斉に衝撃波が放たれた。
それに対し、アスタロトは両手を広げ、六枚の分厚い氷の盾で自らを囲い、あらゆる方向から襲い掛かるそれを防御する。だが、鉄の如く凄まじい強度の特殊な氷の盾をもってしても、それはそう長くは持ちそうにない。キラリと光るガラスの様な破片が無数に飛び散り、えぐられる様に削られる氷の盾。
既に二百発もの衝撃波を放った頃だろうか・・・。正面にある一枚の氷の盾を貫き、五、六発クリーンヒットすると、そこにまた新たな氷の盾が出現した。しかも、砕きかけた残り五枚の盾も更に厚みを増した新たな盾に替わると、なぜかその時点で衝撃波はピタリと止み、先程と同様黄金色の扉の前に立つキルが
「一時撤退。」
と、再び口を開くとそれに合わせて全員が後ろにある扉の中へと姿を消してしまった。
静けさを取り戻したそこに、色とりどりの扉だけが残り、それに囲まれたアスタロトは広げていた両腕をダラリと下げると、六枚の分厚い氷の盾は、地面へと吸い寄せられるように落下したのだ。
「なかなか良かったぞ。ただ・・・・・」
そう言い、何も見えないはずのアスタロトは首を動かし、辺りの様子を窺い始めると、振り向きざまに瞬時に作った右手に伸びる鋭い氷の刃を何も無い空間に突き刺した。
「ぐはっ・・・・ば、ば・・か・・・な・・・。」
一体、何が起きたというのだ?
何も無いはずのそこから掠れたキルの声が聞えたと同時に、青い空の下に聳えるパルテオン神殿の風景が徐々に薄れ、やがては元の褐色の大地へと戻ってしまったのだ。
「え・・・う・・うそ・・・キルちゃん・・・?」
悪魔の瞳に閉じ込められたサラの弱々しい声が聞えた。そして、その視線の先にはアスタロトの右腕から伸びる鋭い氷の刃が胸に突き刺さり、背中へと貫通しているキルの無残な姿があった。
「眼は見えなくなったが、その分鼻が利くようになってしまったようだ。特にお前の匂いは殊更きつい。洒落たつもりかは知らんが、香水が祟ったな。」
突き刺したそれを抜き取り、地面に崩れ落ちたキルの頭を踏みつけながらアスタロトはそう言うと、右腕の氷の刃を振り上げ、とどめといわんばかりに今度はそれを首に突き刺したのだ。
何も出来ず、ただその無残な光景を呆然と見ていたサラの瞳の中で、キルの体は真っ赤に燃え上がる炭の様な深紅の灯りを放ち、蒸発する様に跡形も無く消えてしまった。
これはキルのおふざけではなく、火で創られた者が無に還る瞬間で、
もちろんそんな事を知るはずも無いサラは辺りをキョロキョロと見回しながら、「キルちゃん・・・・何処に隠れているの?」と必死に探していた。だが、そんなサラの瞳からは溢れ出した涙が頬を伝い、大粒の涙が零れていた。何となく気付いていたのだろう・・・。
キルは死んでしまったという事実に・・・。
そして、それを受け止めるしかない彼女に、絶望という波が押し寄せ、ガブリエルの名を叫ぼうとしたその時、何処からともなく何者かの声が響き渡った。
「大分楽しそうじゃのぉ・・・・ワシも入れてくれんか・・・?」
その声の方に目をやると、そこには白いスーツを身に纏い、綺麗な白髪に白い髭を蓄えた初老の男が立っているではないか。
アゼザルだ・・・・。
「小僧は何処行ったんじゃ・・・?」
悪魔の瞳の中に閉じ込められたサラの顔を見つめながらアゼザルが訊ねた。だが、サラは・・・・いや、ガブリエル以外アゼザルの存在を知る者はここには誰も居ない。
目的であるサラ・ラズバクトを目の前に不敵な笑みを浮かべるアゼザル。果たして彼は味方になるのか・・・それとも敵となるのか?
そして、ガブリエルとルシファーはというと・・・・
コーヒーを啜りながら悠々とソファーに腰掛けるルシファー。目の前にあるブラウン管の中には鎖に繋がれたガブリエルの姿。そんなガブリエルが創造した絶対的な世界を逆に支配してしまったルシファーの後ろからなぜかガブリエルの声が聞えてきた。
「耳が聞えねぇのか?その汚ぇケツを退けろよ・・・・・。」
一体、どういう事なのだ?確かにここはルシファーに支配され、全ての権限は彼の手中にあるはず・・・・。
手に持つ小さなカップを静かにテーブルの上に置くと、ルシファーはそんな状況に驚くことなく、そのまま前を向いた状態で静かに口を開いた。
「やるな・・・・。いや、私だけが遅れているだけかもしれんな。
時は流れ、私の知らぬ間に文明や文化は変わり果ててしまった。それ相応にキルやお前達が進化するのも驚く事ではない。私だけがあの時のままで止まっている・・・・ただそれだけの事だ。私が察するにお前は完璧な善ではない。今一度訊くが、私と手を組まないか?
下に居る私を復活させれば最早神など敵ではない。魔力も数段増し、究極の技も完成させたと聞いている。仮にお前が・・・・・・・」
自分の置かれている立場とは裏腹に、意外にも冷静な口調でそう続けていると、ガブリエルのわざとらしい咳払いと共に突然風景が一変した。
そこは全てが純白の世界で、上下左右とも何処が果てなのかも分からない空間にポツリと浮かぶガブリエルとルシファー。
「ゴチャゴチゃうるせぇんだよテメェは・・・。それにしてもシンプルでいいだろ?勘違いをしているようだが、ここはアブソルート・ワールド(絶対的な世界)ではない。以前、それを習得するにあたって偶然創り出した世界。まだ名前は付けていないが・・・・そうだな、アナザー・ワールド(もう一つの世界)とでも呼んでおこうか。キルは天才だがさすがのあいつもこれだけは真似出来なかった。だが、こいつを使うには一つ難点がある・・・・。俺がこれを使っている間、他の者はアブソルート・ワールドが使えねぇんだよな・・・・なぜか。偶然から発見されたこれを解明しようとキルは頑張っていたがまだ時間がかかるらしい。だからキルは今、クリエイティブ・ワールドしか使えない。まぁ、でも心配はいらねぇよ・・・・。今頃あの何とかって野郎はキルにブチ回されてんだろうよ・・・。まぁ、そんなところで話は終わりだ。さっさとかかってきな・・・。」
右手を前に出し、指をクイクイと動かすガブリエル。
「いいのか・・・・?」
そんなガブリエルの前で無表情のまま、訊ねるようにルシファーがそう言うと、またガブリエルは指を手前に数回動かしてそれに無言で答えた。
バコォォォォン・・・・
突然ルシファーの姿が消えると同時に、雷鳴の様な轟音が鳴り響いた。
腕を組み、静かに佇むガブリエルの顔面にルシファーが拳を叩き込んだのだ。その衝撃音から察するに、ガブリエルやキルの打撃のそれとは比べものにならない程の凄まじい破壊力だった。
だが、その打撃はガブリエルの皮膚を傷つける事はおろか、そこからガブリエルを動かす事すら出来ていなかったのだ。
「どうだ?屈辱を伴う痛みの味は・・・。」
腕を組み、ニタリと笑うガブリエルの視線の先には、ありえない方向に腕が捻じ曲がり、血まみれの潰れた拳を見つめるルシファーが居た。
「やはり、人間の体は脆いな・・・。しかもこの臭いを嗅いでいるだけでヘドが出る。己の闘争心を高めるために人間という糞の様な入れ物に入ったはいいが、最早限界だ。」
力の抜けた口調でそう言うルシファーの眼は虚ろで、いわゆるイッてしまった様な表情。
何もせず、両腕をダラリと下げ、ただ呆然と何処か一点を見つめている状況がしばらく続くと、そんなルシファーに変化が見られた。
突然ガクンッ・・・と首が手前に倒れると、背中から何かが物凄い勢いで飛び出してきた。・・・・・翼だ。しかも左右に六枚ずつの計十二枚の灰色の翼。
折りたたまれた状態からゆっくりと広がると、十二枚のそれがルシファーの体全体を包み込んでしまったのだ。
目の前で繰り広げられるそんな光景をただじっと見つめているガブリエルは何を考えているのであろうか・・・。
ガブリエルにしか使いこなせないこの世界ならば、その謎の行動を止められる事は容易なはずなのに・・・。
「アナザー・ワールド・・・・・だったよな?」
十二枚の翼に包み込まれたその中から不気味な声が聞えてきた。しかし、この声は何処かで聞いたことのある声なのだが・・・?そしてそれは更に続いた。
「偶然の産物と言っていたが、それもセンスのうちだと私は思っている。だが、私もそれに負けないセンスを持っていてね・・・・。
さてと、続きを始めようか。」
そう言い終えると、体を包み込む翼が徐々に開き始めた。
花の様にゆっくりと開くその中から現れたのはなんと・・・・・ミカエルそっくりのルシファーではないか・・・。しかも、外見だけではなく、声までそれそのものだった。だが、そんなルシファーとミカエルには唯一異なる点が一つだけある。ミカエルは純白の真っ白い翼に対し、ルシファーのそれは灰色に染まっていた。
「お前は大天使長ミカエルと会ったことがあるか?ちなみにそいつは私の双子の弟なんだが・・・。」
「はぁぁっ?兄弟話しか?んなの知ったこっちゃねぇんだよ。ったく待ちくたびれたぜ。さぁ・・・さっさとおっぱじめようや。」
両者とも不敵な笑みを浮かべる中、ガブリエルは先程と同様、右手の掌を前に出し、指をクイクイと数回手前に動かした。
それにしても、ガブリエルはなぜ待っていたのだろうか。
己の人生を狂わせたルシファーという根源を簡単に殺したくはないという現われなのだろうか・・・。だが、もしそうだとしたらガブリエルは後悔するに違いないだろう。
「本当にいいのか?」
首を傾げ、不思議そうにルシファーがそう言うと、ガブリエルはそれに無言で答えた。
バコォォォォォォン・・・・・
やはり、先程と同じだ。
ルシファーの姿が消えると同時に凄まじい轟音が辺り一面にこだました。・・・が、結果は同じものではなかった。
歪む顔面を追うようにガブリエルの体は、果ての見えない白い世界へと吸い込まれる様に吹っ飛んでいってしまったのだ。
「なるほど・・・やはりそうだったか。何となく解ってきたぞ。」
ガブリエルの顔面を捉えた拳を見つめながらルシファーが言った。「お前の腕力を人間のそれと同じく設定したつもりだったんだが、どうやら何となくは掴んだらしいな。だが、それじゃ俺には勝てないぜ。」
遥か彼方へと吹っ飛んだはずのガブリエル。だが何処からともなく彼の声が響き渡ると、
「そういうお前もこの世界を把握しきれてないんじゃないのか?」
と、辺りを窺いながら姿の見えないガブリエルへと語りかけるルシファー。一体彼の眼にはこの白い世界以外に何が映っているのだろうか。
すると、ルシファーの瞳の中に一瞬、紅い物がチラリと映り込んだ。
花びらだ・・・。小さな深紅の花びらが一枚ひらひらと舞い落ちてくると、それを追う様にもう一枚同じ様な花びらが舞い落ちてきた。
そして、その二枚の花びらを何気なく手に取ったルシファーはそれを見比べて、
「これは確か・・・天界に咲く香華草の花びら。そして、若干薄い色のこれは地獄に咲く紅狂乱の花びら。まさかここにヤツが・・・・・?」
両手の掌にそれぞれ置いた花びらを見つめながら意味深な言葉を呟いていると、そんなルシファーの前に突然ガブリエルが現れた。
「よそ見してんじゃねぇよ。」
その言葉と共に放たれたのは超至近距離からの衝撃波だ。しかも、翳したその掌には真っ赤に燃え上がる炎。
最早逃げるすべも無く、燃え盛る業火と共に放たれた衝撃波でその体は激しく渦巻く炎に身を包まれ、凄まじい爆風と共に吹っ飛んでいってしまった。
だが、これで終わりではない。遥か彼方にはガブリエルが待ち構えていた。白い空間に一際目立つ、炎を纏ったオレンジ色の塊が凄まじい勢いでぶっ飛んで来るのをじっと待っていたのだ。
ドォォォォン・・・・・
遥か彼方に小さな灯りが見えたかと思うと、凄まじい衝撃音と共にそれは既にガブリエルの伸ばした左腕で受け止められていた。
音速を超えるスピードで吹っ飛んで来たにも拘らず、ガブリエルの左手で止まったそれは未だに激しく燃え続けている。
「熱いか・・・?冷やしてやるよ。」
ガブリエルのその厭らしい声がルシファーに届いたかどうか分からないが、真っ赤に燃え続けるそれを見つめながらそう言うと、炎は瞬く間に消え、凍り付いてしまったのだ。
この空間にも重力というものがあるのだろうか、凍りついたそれは果ての見えない白い空間へと吸い込まれるように落下していったのだが、鼻で笑いながら落ちてゆくそれをそこで観賞していたのは、なんと、ルシファーだったのだ。
そして、そんなルシファーは上を見上げながら左腕を横に広げ、何も無いそこを指を差すと、銀色の大きな杭の様な物が出現した。
上を見上げながらニヤリと笑うルシファーの眼に映ったのは、遥か上空から凍りついたガブリエルが落下してくる映像だった。
先端が鋭く尖った銀色の物体目掛けて落ちるガブリエル。
当然その結果は惨い結末だった。
芯まで凍りついたガブリエルの体は粉々に砕け散り、大小様々な破片は白い空間の何処かへと消えてしまった。
「些か早まってしまったか?この世界が解けないという事は、やはりヤツがここを仕切っているのだろうか・・・・。あの花びらの持ち主が。」
辺りを見渡しながらそう呟くルシファー。しかし、本当にガブリエルは死んでしまったのだろうか?そして、この短時間でこのアナザー・ワールドを支配してしまったルシファーが言う、花びらの持ち主とは一体誰のことなのだろうか?
「仕方がない。面倒だが・・・探すか。」
静まり返ったこの空間に最早ルシファーの声しか聞えない。
翼を広げる音が何時にも無く大きく聞え、花びらの持ち主を探すべくルシファーが飛び立とうとしたその時、その者からと思われる声が聞えてきた。
「・・・・その必要はない。」
一体、誰だ?確かにガブリエルの声ではないその者は、この世界の何処かでルシファーの声を聞き、その行動を監視し続けていたのか?それとも、ガブリエルはまだ生きていて、そんな彼のパフォーマンスの一つなのだろうか・・・?
広げた十二枚の翼を折りたたみ、辺りを窺うルシファーの前に突如赤い扉が現れると、歯切れの悪い軋む音と共にゆっくりと扉が開いた。
果たして、その中から現れるのはガブリエルなのだろうか。それともルシファーと面識のある花びらの持ち主なのだろうか・・・・。
一方その頃、この世界と隣接する表の世界はというと・・・・
「いい暇つぶしがあると聞いて来たんじゃが、大した事ないのぅ。
まだ小僧と遊んでいたほうが楽しかったわい・・・。」
それは目を疑う光景だった。
地面にだらしなく横たわるアスタロトの頭を踏みつけながらそう豪語するのはアゼザルだった。
身に纏う白いスーツには微かな汚れも見当たらず、圧倒的な強さを見せ付けたアゼザルは懐から葉巻を取り出しそれをくわえると、指先に小さな炎を灯し、プカプカと大量の煙を吐きながら悪魔の瞳の中のサラを見つめ、
「やっと出会えたな・・・ラズバクト。まぁ、そう怯えることはない。お前さんは小僧の承諾を得てから殺す事になっているんじゃからなぁ。で・・・・小僧は?」
と、なんともマイペースな口調で言った。
そして、そんなサラは内側からバンバンと叩きながら何かを訴えている様子だが、その声は遮断され何も聞えない。
そんな中、アゼザルの足元から掠れた声が聞えてきた。
「こ・・殺す・・・殺して・・・やる・・・。」
アスタロトだ。アスタロトがまだ生きていたのだ。
「おぉぉっ・・・まだ生きとったか。どれ、もう一遊びするかのぅ。」
艶のある白い革靴を頭から退かすと、だらしなく地面に這い蹲るそれを見下しながらアゼザルが言った。
それが自分の間合いなのか、立ち上がったアスタロトはアゼザルから四メートル程離れた所で立ち止まると、両者の間になんとも言えぬ異様な沈黙が流れた。
張り詰める緊張の中、アゼザルの右腕が動いたかと思うとジャケットの右ポケットからウイスキーを取り出し、
「飲むか?」
と、凄まじい殺気を漂わせるアスタロトに勧めつつ、それをグビグビと飲み始めた。
そんな行為が自分への冒涜と受け取ったのか、アスタロトが立つ地面周辺に分厚い氷が張り巡らされると、爆発的に魔力が上がったのだ。
眼の見えぬアスタロトは一瞬の隙を見出すべく、全神経を集中させているのか、まだ攻撃に出ようとはしない。
風の音しか聞えない今、微かに頬を撫でるそれが一瞬止み、真の静寂が訪れたその時、その幕は切って落とされた。
その凄まじい勢いを物語るかのように、足元の氷が砕け散ると同時にアスタロトの姿が消えた。
そして、それと同時に、吹かしていた葉巻をピンッと弾いたアゼザルは、それに向けて口から妙な液体を勢いよく吐き出すと、巨大な炎が辺り一面を包み込んだのだ。
だがそれをものともせず、その巨大な炎を貫き現れたのは全身を氷で覆ったアスタロトの姿だ。しかも、その両手の掌にはモヤモヤとしたガス状の青い気体が渦巻いていた。
ピシピシッ・・・・・
凄まじいスピードで過ぎ去ったアスタロトは五メートル程の距離を置いて、アゼザルに背を向ける形で止まった。
「やるのぉ・・・。」
ボソリとそう呟くアゼザルの頬は鋭利な刃物で斬りつけられた様な傷があり、髭の一部や衣服の所々が凍り付いていた。
だが、アスタロトはというと何の変化も見られず、背を向けたまま静かに佇んでいるではないか。
再び訪れた異様な沈黙・・・・。
互いに次の手を思案しているのだろうか?・・・と、その時だった。
「き・・・貴様・・一体何者・・・だ・・・?」
掠れた声でそう言うアスタロトの口の中から一匹の蟲が現れると、それに次いで大量の蟲が溢れ出し、その身を包み込んでしまったのだ。
「名を名乗るほどでもないわい。ウッシャッシャッシャッ・・・。」
背を向けたまま独特の笑い声を高々と上げ、ウイスキーを片手に何事も無かったかの様にその場を後にするアゼザル。
所々に凍りついたそれを払い落とし、懐からまた葉巻を取り出すとプカプカと大量の煙を吐きだしながら、宙に浮く悪魔の瞳の真下でその歩みを止めた。
「ワシの獲物だぞ・・・・。」
ゆっくりと上を向き、頭上に浮く黒い球体をキリリと睨め付け、少しドスの利いた渋みのある声でアゼザルがそう言い放つと、両手の掌をサラに向けて翳し続けていた六人の魔術師達はドンッ・・・という音と共に全員が弾き飛ばされた。
するとその瞬間、まるでシャボン玉が割れる様に黒い球体はパンッと弾けて消えると、中に閉じ込められていたサラはそのまま落下し、
下で待ち構えていた初老の紳士が抱きかかえる様に受け止めた。
「あ、ありがとう・・・おじさん・・・。」
「そんな事より、ウォーミングアップでもしておいたほうがいいんじゃないか?」
サラを放り投げる様に降ろすアゼザルの目は、先程彼の力によって弾き飛ばされた六人の魔術師達を指していた。
鈍感なのか、それともそれを知っての事か、自分を狙うアゼザルへ何の不信感も抱かず背を向けると、長い黒髪を輪ゴムで束ね始めた。
「あんた達・・・・・もう許さないわよ。」
俯いたまま小さな声でそう呟くサラの左側の瞳は朱色に染まり、宙を浮いていた魔術師達がサラの目の前の地に足を下ろすと、今までに見せた事の無い表情で彼等を睨め付けた。
だが、見せた事の無いのはその表情だけではない。ゆっくりと顔を上げたサラの右側の瞳も朱色に染まっていたのだ。
魔力が絶頂に達した証・・・・・油断したとはいえ、左側だけであの力。そして、初めて見せる最大の力・・・・。
それは、アゼザルが想像していたそれを遥かに凌ぐものだった。
一人の魔術師が歩み寄る間、小さな声で呪文を唱えながら数種類の印を素早く結ぶと、右手の掌を地面に叩きつけた。そして、それと同時にサラを中心とした大きな魔方陣が地面に赤く浮かび上がると、せっかく出現したそれが足元から吸い込まれるように消えてしまったのだ。
「魔法陣は術者の力を増幅させる働きや、身を守る働きなど様々な活用法があるけど・・・・・そんな物をその度描くより・・・って言うか、吸収したらどうなるんだろうね?」
もう、すぐそこまで歩み寄る魔術師を気にする事無く、不敵な笑みを浮かべながらそう言うサラ。
過去、魔術師が誕生して以来史上初の試みをやってのけたサラの体からは赤いオーラの様な物が放出され、サラが移動してもそこに人型の赤い残像が残るほどの凄まじいパワー。
だが、目の前に迫るそれは腐ってもエリート魔術師。しかも、ペンタクル教団の中でも三本の指に入る実力の持ち主らしい・・・。
そう容易く突破出来ないはず・・・・。
見た目は青白く、やせ気味でとても強そうには見えないそいつは己の間合いでその歩みを止めると、指先の皮を噛み千切り、そこから流れ出る赤い鮮血を褐色の大地へと数滴垂らした。
すると、サラが出現させた魔法陣までとは言えないが、それより少し小さい魔法陣が赤く地面に浮かび出ると、その中心で素早く印を組み合わせ、サラに向けて掌を翳した。
「レベルが低いわね・・・。そんな術、十歳の時には使えてたわ。」
目の前で起こる出来事を前に、冷静な口調でサラがそう言い終えた頃、そいつが放った術は目前にまで迫ってきていた。
翳した掌から見た事も無い様な二匹の巨大な大蛇が体をくねらせサラ目掛けて勢いよく飛び出してきた・・・・・が、二匹の大蛇は大きな口を開けたままサラの目の前で止まってしまっているではないか。いや・・・止まっているのではない。サラが止めたのだ。
よく見てみると、十メートルは優にあろうかというその体を、途中赤く光るピアノ線の様な糸がきつく締め上げていて、絡み合う二匹の体に食い込むそれは、数秒も経たないうちにその巨体を切断してしまい、ドスンッと地響きを轟かせて地面に落ちた大蛇は灰になって消えてしまったのだ。
「まあまあね・・・。ところで、眠れる闇っていう術は御存知かしら・・・?」
エリート中のエリート魔術師を相手に鼻で笑いながらサラはそう言うと、印を結んだまま口笛を吹き始めた。
すると、その口笛の音に誘われるかのようにあらゆる影が地面を伝いサラの足元まで細く長く伸びてくると、それは吸収される様に消えてしまい、それまで存在していた辺り一面の影は無くなってしまった。
見える範囲の地面に映る全ての影を吸収してしまったサラは、右手で筒を作りそれを口元に当て、更に左手を腹部に当てると、頬を膨らませながら息を吹き始めた。
朱色に染まる両目の瞳が更に深みを増したその時、右手で作った筒の中から現れたそれは、暴れる稲妻の如く辺りを走り廻り、その黒い何かが魔術師の衣服を一瞬掠めると、黒い炎に身を包まれ瞬く間に炭になってしまったのだ。
尚も走り廻る黒いそれを見つめながら、呆れた表情で再び口笛を吹き始めたサラ。
するとどうだろう・・・。解き放たれた野獣の様に暴れ廻っていたそれの動きがピタリと止まり、ようやくその全貌が窺えた。
大地を見据えながら静かに佇むそれは、全身が真っ黒で、その先端には赤い瞳が二つ。巨大な体を小さくまとめ、複雑に絡む紐の様に見えるそいつの正体は漆黒の龍だった。
「面倒だからまとめていくわよ。」
残り五人の魔術師達を睨め付けサラがそう言うと、尖らせた口先から放たれた、先程よりも甲高い口笛の音と共に黒龍が動き始めた。
結界を張る者やその場から散り、術の準備に入る者、その行動は様々だが、儚くもそれは無に等しく、平和を象徴するかのような青空の下で惨劇という名の幕はものの数秒で下りてしまった。
大きな口を開け、凄まじいスピードで走り抜ける黒龍に呑まれた者は灰も残らず消滅し、少しでも触れた者は黒い炭になって死んでしまった。そして、唯一反応が早く、結界を張った者はそれ諸共呑み込まれてしまい、黒龍が去った後にはボロボロになった結界の中で、全身の皮膚が焼け爛れ、数秒間苦しんだ後に死んでしまったのだ。
全ての獲物を焼き尽くし、それでも尚、暴れ廻るそれはサラの翳した掌の前に出現した赤く浮かび上がる円の中へと吸い込まれるように消えていってしまった。
それまでの出来事がまるで無かったかのような静寂が訪れた中、サラの足元から地面を伝い、黒い影があるべき処へと戻って行った。
パチパチパチパチ・・・・・
すると、突然拍手が鳴り響いた。