第10話
自分自身との愚論の末、最終的な結論を導いたガブリエルだが、その答えの何処かに悲観の想いと、悲哀が入り交じっていた。そして、全身に纏わりつく苦痛を撥ね退けるように大声を上げ、勢いよく立ち上がると、ガブリエルの全身を包むように燃え上がっていた黒い炎が一瞬で消え、更に、この空間を漂うように充満していた黒い炎は、蝋の様にただれ落ちる壁面にいつの間にかに現れた、巨大で怪奇な口により、凄まじい勢いで吸い込まれると、あっという間に消えてしまった。
純白の空間が無残にも黒く焼けただれ、その中央辺りに佇むガブリエルは俯いた姿勢からゆっくり顔を上げると、目の前に居るアゼザルを睨み据え、
「よぉ・・・くそったれ。今となっては言い訳に過ぎないが少々油断をしちまったようだ。そこでだ、退屈をさせてしまった詫びとして新たな闘場を設けたいと思う。そこでの俺は更に強いぞ。きっとお前を満足させられるはずだ。しかし、その前に一つ訪ねたい事がある。お前の目的は何だ?万に一つも無いと思うが、俺を倒したらお前の役目はそれで終わりなのか?」
と、まだ片腕だけ修復されていない爛れた皮膚をグチャグチャと毟りながらガブリエルは言う。
すると、いつの間にか首が180度回転し、最初の顔に戻っていたアゼザルが笑い始めたのだ。
「ウッシャシャシャシャッ。気でも狂ったか?何を言い出すのかと思えばそんなくだらない事を・・・。お前を倒したらワシはどうするかじゃと?お前はワシの玩具に過ぎない。ワシの目的は別にあるのだ。出来ればそれが終わってから永遠という時の中でお前と遊びたかったのだが、いかんせん、そうもいかなくなったようだ。なぜならガブリエルという玩具は壊れてしまうからのぉ・・・。出来れば壊したくはなったのだが、もう一人のワシがな・・・・。」
ニタニタ笑いながらアゼザルは言う。
「チッ・・・答えになってないじゃないか。まさか答えられる台詞までプログラムされているんじゃねぇだろうな?キルのヤツ・・・凝ったことしてくれるじゃねぇか。クソッたれが。さっさとこいつをぶっ殺して、このキルが創った広大なクリエイティブ・ワールドから抜け出さないと・・・・。」
どうやらガブリエルは本当にこの世界がキルによって創られたクリエイティブ・ワールドであると信じ込んでいるらしい。そして、アゼザルはその中のキャラクターのうちの一人に過ぎない・・・そう思い込んでいるガブリエルの表情が更に険しくなると、右手を上げ、まるでカーテンを開けるような素振りを見せた。
すると、黒く焼けただれた空間がガブリエルの腕の動きに合わせて横にスライドすると、そこに、新しい空間が現れたのだ。
そこは、まるで古い洋館の中の一室にある、広々とした部屋のような空間だった。床は大理石で出来ていて、壁には、花瓶に何本かの美しい腕や、腐敗した腕を挿している絵など、何枚かの奇妙な絵が飾られており、明かりは暖炉に燈っている、ゆらゆらと揺れ動くオレンジ色の炎だけ。もちろんこの空間全体を照らせるはずがない。
ズズズズズッ・・・・ズズ・・・
炎の灯りが不気味な空間を照らす中、その灯りが行き届かない暗闇の中から、何かを引きずるような音が聞こえ、それが段々と近づいて来た。まだ姿は見えてこない。
そして、アゼザルはというと、何をするわけでもなく、ただじっと音の聞える方を見つめている。
ズズズズッ・・・・・ズズ・・・
もう、すぐそこまで来ているはずなのにまだ姿が見えてこない。一体、この暗闇の中から何が現れるというのか・・・・?
すると、不規則な炎の動きにより、一瞬だけ、その暗闇の方に微かな灯が射すと、時計を抱きかかえた、見るからに人間ではない何者かが見えたのだ。そして、それは間もなくすると、ようやく姿を現し、灯りが行き届かない闇と、照らされている部分の狭間に腰を下ろしたのだ。
暗闇を背に座り込んでいるそいつの姿は、全身が緑色で、首から上は無く、身長はおよそ一メートル程度の非常に華奢な体だ。
今にも折れてしまいそうな右腕で、歪んだ楕円形の時計を抱え、左手には自分の物と思われる、両目と口を縫い合わされた頭部を、抱えていた。
「ようこそ・・・アブソルート・ワールド(絶対的な世界)へ。」
先程までアゼザルの数メートル前に立っていたはずのガブリエルが、アゼザルが暗闇の方へと目を移している間に、いつの間にかに古びた木製の椅子に腰掛けていた。
「この世界は・・・この空間は出来ることなら使わないでほしいとキルは言っていたが、もう、アイツの言うことは信用できねぇ。宇宙のバランスがどうたらこうたら言っていたが、どうせそんなもの嘘だろう・・・・。さぁ、おっさん・・・・ボサッとしてないで先程の続きを始めようじゃないか。と、言っても、この世界じゃ、おっさんの魔力、行動、言動、全てにおいて、その意味を持たないがな・・・・・。そして、それとは対照的にこの世界では俺の行動、言動が全てのルールになる。例えば・・・・そうだな、人間と、それ以外の生物達と同じように痛みを知れ・・・。」
椅子に腰を掛け、足を組みながらガブリエルがそう言うと、更にもう一言。
「お前はそこから一歩も動けず、五秒後に始めての苦痛を味わい、それを百回味わうことになるだろう・・・・。今回は口だけ利かせてやる。感想がないとつまらないからな。」
ガブリエルがそう言い、口を閉じてからすぐ、アゼザルのすぐ後ろに立っていた鎧の置物がまるで生きているように動き出した。そして、片手に持っていた槍をアゼザルに向かい投げつけると、背中から刺さり、腹部へと貫通し槍は止まった。
「ぬおぉぉぉぉぉぉっ。ぐはっ・・・こ、これが痛みか・・・。」
アゼザルは始めての痛み、激痛に顔を歪め、膝から崩れ落ちた。
ニヤリと笑うガブリエルは、その視線を緑色の化け物の方に移すと、その化け物は、抱えている時計の秒針を細い指先で十秒程戻した。
つい先程まで、地面に片膝をつき、苦痛に顔を歪めていたはずのアゼザルだったが、気が付くと、背中から腹部にかけて貫かれていた槍が消えていて、まさにそれらが起こる前に戻っていたのだ。
「これから起こる出来事と、その時の恐怖や痛み・・・つまり、記憶が残ったまま時が戻る。すばらしいだろ?あと九十九回。」
椅子を前後にギシギシと揺らしながらガブリエルは言う。それに対しアゼザルは、動きは取れなくとも、口だけは利けるはずなのに何かを考えている、いや、何かを待っているかのように目を瞑り、微動だにせず立っている。だが、その後ろでは先程と同じように、鎧の置物が動き出し、持っている槍をアゼザルに向かい投げつけた。
「ぬおぉぉぉっ・・・・・。」
やはり、苦痛に顔を歪め、歯を食いしばり、それに順応すべく膝から崩れ落ちた。最早、アゼザルの体は人間のそれと同様。
時が流れてはまた戻り、そんな事が何十回も繰り返される中、ガブリエルが前後に揺らしている椅子の軋む音がギシリ・・・ギシリと異様にも鳴り響く。
そして、ちょうど三十回目の槍が突き刺さる頃だろうか。
毎回のようにアゼザルが激痛に耐え切れず膝から崩れ落ち、大体の決まったタイミングで緑色の化け物が抱きかかえている時計の秒針を細い指先で、いつものように十秒程戻す、その時だった。
アゼザルが片膝をつきながら、俯いた状態でボソリと呟いた。
「そろそろじゃな・・・・・・。」
とても小さく、聞き逃してしまいそうな声でボソリと呟くと、いつものようにまた、何事も起こる前に戻っていたのだ。
ガブリエルはそれを耳に入れたのか、それとも聞き逃したのかは分からないが、いつものように、椅子に座ったままギシギシと前後に揺らしていた。
その後、何等変わらない時が流れ、それが何回か繰り返されると、その、時の流れに微妙な狂いが生じ始めたのだ。
アゼザルの背後に立つ鎧の置物がまる生きているいるかのように動き出し、ピクリとも動けないアゼザルに向かい、右手に持っている槍を背後から投げつける。そして、決まってその槍は地面と平行に飛び、背中から刺さり、ちょうど鳩尾の部分を貫き、止まる。そして、その後のアゼザルの表情、動作はその時によって違うのだが、その前の一連の流れには一寸の狂いも無く、まるで同じ映像を再生しては巻き戻し、という具合に繰り返されていたのだが、段々と槍の刺さる位置がズレ始めてきたのだ。
アゼザルの放った意味深な言葉が思い出される・・・しかし、ガブリエルにその言葉が届いたのかは不明だが、今起きている事実にも気付いている様子はまったく見受けられない。
もう、見飽きたのか、果ては、本当に眠ってしまったのか、今では目を瞑り、いつの間にか前後に揺らしていた椅子の動きも止まっていた。
それでも一部の空間では、微妙な狂いが生じながらも一連の動作が繰り返されている。
果たして、この狂いはガブリエルの意図的な考えによって生じさせた事なのだろうか?それともアゼザルの放った言葉の意味が解き明かされようとしているのか?
しかし、前者はともかく、後者は考え難い。なぜなら今ここに居る世界はクリエイティブ・ワールド(創造の世界)ではなく、アブソルート・ワールド(絶対的な世界)だからである。ガブリエルの行動、思想、言動、その全てに絶対的な意味、力を持ち、それを覆すことは出来ない。まさに神のみぞ知る世界。
だが、どうにも気になる・・・・無情にも繰り返される時の中での微妙な狂いが・・・。
今では、鳩尾の辺りに貫けていた槍が左側にズレ続け、脇腹の辺りに貫けている。恐らくこのままズレ続ければいずれ、脇腹を掠め、槍は空を切ることになるだろう。
ガブリエルの考えによるものならば一体、何のために・・・・?そして、未だに目を瞑り、何の行動を見せないガブリエルを横目に、アゼザルは何を考え、何を企んでいるのだろう?
すると、ここでようやくガブリエルが閉じていた目を開け、しばらくぶりに口を開いた。
「ん・・・・?眠っていたのか?俺は?いや、そんなハズは・・・。そもそも俺達には眠るという行為は必要無いはず。ん・・・?な、何だ・・・あれは・・・。」
まるで、深い眠りから覚めたように、拍子抜けの表情でガブリエルが不思議そうに言った。そして、何気なくアゼザルの方に目を移すと、槍が脇腹を貫く瞬間だった。
どこかが違う。いや、どこかではなく、それは明確だった。しかし、それを認識しながらも椅子から立ち上がり、行動を起こそうとはしない。寝起きでボーッとしているのか?いや、違う・・・。ガブリエルの体をよく見てみると、元々の青白い体のあちこちに黒いシミの様な斑点が浮かび上がっているではないか。そして、ガブリエルの口から一匹の黒い蟲が現れると、薄い透明な羽を広げ、ガブリエルの頬の辺りから飛び去り、灯りの燈る暖炉の前の床に着地した。一方、アゼザルの方は未だに微妙な狂いが生じながらも、同じ事が繰り返されている。そして、先程、ガブリエルの口の中から現れた黒い小さな蟲は暖炉の前の床をしばらく這いずり回っていると、自ら、オレンジ色に揺らめく炎の中へと消えて行ってしまったのだ。
もしや、これはアゼザルの仕業・・・?しかし、ここはアブソルート・ワールド(絶対的な世界)。いくらアゼザルの魔力が凄まじくとも、この世界では何の意味も持たない。ここではガブリエルが神だからである。だが、そんなガブリエルに異変が・・・。椅子に座ったまま立ち上がれないその体は、次第に窶れ、皮膚は乾燥し、体中に広がる黒いシミの様な斑点の部分はジュクジュクになり、まるで化膿しているかのようだった。そして更に、ガブリエルが座る椅子の下の床には、長い銀髪が大量に抜け落ちていたのだ。
最早、立ち上る事さえ出来ないガブリエル。最後の力を振り絞ったのか、小刻みに震える右手を翳すと、目の前に大きな鏡が現れた。すると、まるで白内障の様に、眼球の水晶体が白く濁り始めたその眼を細め、鏡に映る己の姿を見たガブリエルは驚愕し、自分の体を掻き毟り始めたのだ。
鏡に映っていたガブリエルの体中には見たことが無い様な何百種類という蟲が纏わりつき、肉を喰いちぎり、食んでいるではないか。だが、それは鏡の中だけであって、冷静に自分の体を見てみれば蟲なんて一匹も見当たらない。
狂ったように体を掻き毟るガブリエル。そして、段々と広がる黒いシミの様な腐食した部分を掻き毟る度に、黒い肉がグチャグチャと飛び散る。しかし、いつもならば損傷した部位は自動的に修復されるはずなのだが・・・・?一体、どういうことだ?まさかガブリエルのパフォーマンスなのか?だが次第に、激しく掻き毟っていた両腕にも黒いシミが広がり、腐敗が始まると、引っ掻く度に爪が剥がれ、指が?ぎれ、それでも掻き毟り続けるその腕はやがて朽ち果て、それは腕とは呼べないものになってしまった。
その様を少し離れた所で、アゼザルは何度も何度も苦痛を味わいながら苦悶の表情の中に、微かな笑みを浮かべ見届けている。
そんなアゼザルの脇腹周辺に、少なくとも六十回目の槍が刺さったであろうかというその時、暖炉の中で静かに揺らめく、オレンジ色の炎が一瞬、爆発的に燃え上がると、その炎は瞬く間に消えてしまい、暗闇に包まれてしまったのだ。
何も見えない漆黒の闇の中、アゼザルの苦痛に悶える声と、緑色の化け物が抱える時計の、時を刻む秒針の音が異様にも大きく聞える。それは暗闇であろうと、今までと変わらない時が繰り返されている証拠だ。そして、その暗闇が十五秒ほど続くと、再び暖炉に炎が蘇り、また明るさを取り戻したのだ。
「ようやくワシの出番が廻って来たようじゃのぉ・・・。」
暖炉の中から低い声が聞える。この声はアゼザル?しかし、アゼザルの様子を伺う限り口を開いた様子は見受けられない。と、言うより、暖炉の方向にアゼザルは居ないのだが?
「今回ばかりは楽しいを通り越え、些か苛立ちを覚えたぞ・・・・。まぁしかし、それも良しとしようじゃないか。」
再び暖炉の方から不気味な声が聞えた。
椅子に腰掛けたまま、ピクリとも動けなくなったガブリエルはまるで、腐った木の枝の様に、肘の辺りからボロボロに朽ち果てたその両腕をダラリと下げ、顔を上げたまま白く濁った眼で天井を見上げていた。
そして、なぜか修復されないその体の六割近くは、黒いシミに侵食され、異臭を漂わせながら腐敗が徐々に進行し、それ以外の部分はパサパサに干からびている。既に、ほとんどの銀髪が抜け落ちてしまった頭に黒いシミが広がると、すぐに腐敗が始まり、頭皮がヌルリと頭蓋骨を滑る様にビチャッと、音を立て地面に落ちた。
最早、ここまでくるとガブリエルのパフォーマンスとは考え難い。
すると、先程地面に落ちたガブリエルの腐った頭皮が床上でモゾモゾと動き出し、その頭皮の下からまたもや一匹の黒い蟲が現れると、小さな体を変異させ、その変異が凄まじい速さで変異に変異を重ね、それを繰り返すと、あっという間にアゼザルが創りだされたのだ。そして、伸びをするような素振りを見せ、指や、腕を動かし、正常に動くことを確認すると、暖炉の方に歩み寄り、しばらくの間、燃え盛る炎をじっと見つめていた。
それからどれくらい経った頃だろう・・・・
一体目のアゼザルが三回ほど時の流れを繰り返し、四回目の槍が刺さろうとした頃、暖炉の前で佇む、もう一体のアゼザルが何かを待ち侘びていて、それがようやく来た、または、完了したかの如く、不適な笑みを浮かべながら、ゆっくりとしゃがみ込んだ。
「随分と遅かったのぉ・・・・。」
そう言いながら、長い爪で床をコツコツと叩くと、数分前に炎の中へと消えた一匹の黒い蟲が何倍にも肥えた姿で暖炉の中の炎の中から現れたのだ。
「おぉぉぉっ・・・。なんともまた膨大な量の情報を詰め込んで来たのぉ。こいつは楽しみじゃ。どれどれ・・・・。」
ぶくぶくと太って戻ってきた蟲をまじまじと見つめながら、アゼザルは大きな口を開けると、その蟲を鷲掴みにし、口の中へと放り込み、むしゃむしゃと食べ始めたのだ。
パンパンに膨れ上がったそれを一噛みする度にドス黒い汚れたオイルの様な液体が口から滴り落ちる。そして、汚れた口を右手で拭うと、ようやく食い終わったのか、五秒程度目を閉じ、再び目を開けたアゼザルはこう言ったのだ。
「なるほど・・・・。そういう事か。どうやらここは今までとは違い、特殊な空間らしいな。しかし、それほど完璧なものではない。小僧、お前が一つ一つ創り上げたこの空間に存在する物の中から情報を得させてもらった。今回は出来損ないの炎からだったがな。ウッシャッシャッシャッ。それと、もう一つ・・・お前はもう終わりじゃ。聞こえているか分からんが、お前は感染したんじゃよ。ワシが新たに創り上げたウィルスによってな。そしてそれはワシに触れた瞬間から始まり、この空間の前の空間からお前の体を蝕み続け、今に至る訳じゃ。まぁ、悪く思わんでくれ。ワシとて大切な玩具を失ってしまうんだからのぅ・・・。」
そう言い終えると、アゼザルはゆっくりと歩き出し、緑色の化け物の前まで歩み寄ると、時計を抱えている体ではなく、その隣に置いてある、そいつのものだと思われる、両目と口が縫い合わされている顔を大きな足でグシャリと踏み潰したのだ。
だが、まだ時計の秒針は時を刻み続けている。が、しかしそれ以降、時が戻ることは無くなり、一体目のアゼザルは永遠に続く苦痛から解き放たれ、その体を自ら何万という無数の小さな蟲に変化させると、二体目のアゼザルの口の中へと吸い込まれるように消えていったのだ。
「さてと・・・・ワシの永遠という時の中ではほんの一瞬に過ぎない時間ではあったが、楽しませてもらったぞ。それにしてもいや、恐れ入ったわい。まだまだ未熟とは言え、この様な不思議な世界を瞬時にして創り出せるこの能力・・・・今更ながら言葉を撤回させてもらうが、お前は玩具ではなく・・・ワシの友達じゃ。いや、友達じゃったの方が正確じゃな。それではこれにて失礼するぞ。」
まるで熟れたトマトを踏み潰したかのように、緑色の化け物の、切り離された頭部を踏み付けながらアゼザルはそう言うと、ガブリエルの後ろ側にある何枚かの奇妙な絵が飾られている壁の方へと歩き出した。そして、コンクリート製又は、木製で出来ているかと思われるその壁に右手を当てると、ポスターを剥がす様に一気にその手を振り落とした。
すると、その動作に合わせ、壁面がまるで紙で出来ているかのようにビリビリと捲れ、そこから眩いばかりの光が薄暗い空間の中に射し込んで来た。
「ウッシャッシャッシャッ・・・・。」
不気味な笑い声を放ちながら光が射し込む一部の破れた空間に手を伸ばし、アゼザルはスゥーッと光の中に消えて行ってしまったのだ。
しかし、アゼザルが消えていった破れた空間のその向こう側は一体、どの世界に通じているのだろうか?そしてそんな時、ガブリエルはアゼザルの魔力によって創られた、特殊なウィルスに体を蝕まれ続け、およそ、体中の9割はあろうかという部分が黒いシミに覆われて更に腐敗が進行していた。
「カッ・・・・・・ク・・ク・・クァカッ・・・・。」
椅子に座ったまま天井を見上げ、何か言葉を発している様子だが何を言っているのか分からない。そして、この空間の向こう側、つまり、アゼザルが消えていった世界は何処か?
そこは、ガブリエルとアゼザルが遭遇した場所。インドに位置する首都デリーから少し離れた遥か上空だった。雲ひとつ無い延々と続く青色の空の一部にポツリと不可思議な黒い空間が口を開けていたのだ。
紛れもない。そこからアゼザルは飛び去っていったのだ。だが、そのアゼザルが破る様に切り裂いた捲れた空間が徐々に修復されてゆき、やがては元通りの青空に戻った。
それにしても、ガブリエルの絶対的な世界をアゼザルはどのような力で捻じ伏せたのだろうか?
そもそも、絶対的な世界とは何なんだろうか?そして、その世界が本当に完璧な世界ならば、絶対という理論は覆す事が出来るのだろうか?
絶対・・・・・それはどんな条件や制限をつけられないこと。つまり、その世界を、そのルールを創るにあたって絶対的な力、又は、絶対的な能力をもつ者が必要となる。
絶対者・・・・・何者にも支配を受けない力を持つ者。
ガブリエルだ。
従って、絶対的な世界に問題があったのではなく、それを創りあげた絶対者に問題があったのではないのか?絶対者が完璧なはずならば、それが創った世界も完璧なはずなのだが・・・・?
薄暗い空間に揺らめく暖炉の中のオレンジ色の炎。その炎に照らされて不気味に揺れる影。物音といえば、化け物が抱える時計の時を刻む秒針の音。それ以外は何も動かない・・・何も聞えない。
冷たく広がる大理石の床。まるで誰も住んでいない古い洋館の中の一室。唯一、この空間を照らす暖炉の中の炎。しかし、それもこの空間全体を照らせるものではないのだが、それが徐々に小さくなり始め、最初の頃に比べると半分ぐらいの炎に。最早、離れた場所に座っている化け物の所にはその灯りは行き届かなく、暗闇に包まれてしまった。暖炉周辺と、辛うじてガブリエルが見える程度。そして、小さくなったその灯し火も長くは持たず完全に消えてしまい闇に包まれてしまったのだ。
それでもこの暗闇の何処かで化け物が抱える時計は時を刻み続けている。
自らが創り上げたこの空間の中で死臭を漂わせ、最早、骸と化したガブリエルは永遠という時の中を彷徨い続けるのだろうか?
そんな中、アゼザルが飛び去ってちょうど丸一日が過ぎようとした頃、あのアゼザルの姿は何処にも見受けられない。なぜなら、人間に取り憑いて移動しているからだ。理由は分からないが恐らく、ただ楽しんでいるだけだろう。その体を操り、人々の前で空を飛んで見せたり、時には、こんなことも・・・。
それは若い女が赤子を抱えながら広い道路を横断しようと歩いていると、男が運転している大きなトラックが猛スピードで突っ込んでくる。しかし、よく見てみると、その男は雑誌を読みながら運転しているではないか。このままではぶつかってしまう。赤子を抱える女は迫り来るトラックに気付いたがもう遅い。その距離、わずか十メートル。我が子をギュッと抱き締め、目を瞑る。
トラックを運転していた男もようやく気付いたのか、読んでいた雑誌を放り投げ慌ててブレーキを踏み込む。が、もう遅い。
ドォォォォォォン・・・・・・
物凄い衝撃音が辺りにこだました。
時は正午を少し回った頃。人通りも多く、車の交通量も少なくはない。
ドォォンッという衝撃音のすぐ後に同じような音が三回ほど鳴った。
玉突きだ。トラックの後ろを走っていた車が次々に突っ込む。
近くにあるレストランからは、その音を聞きつけたのか従業員から客まで総出で出てくると、目の前に広がる悲惨な光景を目の当たりにし、呆然と立ち尽くしていた。
近くにいた歩行者も、反対車線から来たドライバーも車から降りて皆、ただ呆然と立ち尽くしている。だが、跳ねられたはずの女性とその赤子を助けようとする者は誰一人いない。それは、見るからに死んでいる、もしくは助かりそうもない・・・という理由ではないようだ。呆然と立ち尽くす人々の視線の先を見てみると、アスファルトに飛散している粉々に砕け散ったガラスの破片。そして、そこから少し離れた所にフロントガラスを突き破ったのか、顔面裂傷のトラック運転手が横たわっている。だが、若い女とその赤子の姿はない。
すると、レストランの従業員の中の一人がトラックのほうを指しながらこう言ったのだ。
「な、なんなんだ・・・あれは・・・?ば、化け物だ・・・。」
一人が放ったその言葉を皮切りに人々はざわめき始めた。
それもそのはず。白いスーツを身に纏った初老の男が女と赤子を守るように立ちはだかり、右手一本でトラックを止めていたのだ。
だがその衝撃は凄まじく、初老の男の体の半分は車体にめり込んでいる。そして赤子を抱える女はあまりの恐怖で腰砕け、その場に座り込んでいた。
「生は素晴らしい。自由という名の娯楽じゃ。そして今、生きていることに感謝し、それに後悔することになるだろう・・・・。神に生かされし者は神の手によって殺される。運命というヤツじゃ。だが、お前たちはその運命に逆らってしまった。ウッシャシャシャシャッ。これから数日のうちに死が訪れるだろう。神が創り上げたルールからは逃れられん。まぁ、せいぜい迫り来る死の恐怖を実感しながら余生を楽しんでおくんだな。」
車体にめり込んだ身体をいとも簡単に外すと、ボロボロに破れた白いスーツを整え、同色系の曲がったネクタイを直しながら初老の男はそう言うと、軽く地面を蹴り、体を宙に浮かせ遥か上空へと飛び去って行ってしまったのだ。
恐らく・・・・いや、間違いなくこの白いスーツを身に纏った初老の男はアゼザルだろう。
それにしてもこのアゼザルという悪魔、他の悪魔に比べると、どこか違うような気がするのだが、一体、何を考えているのだろうか・・・?そして、徐々に目的のサラ・ラズバクトに近づいているアゼザルに対し、ガブリエルはというと、漆黒の闇の中、自らが創り上げた空間の中にいた。朽ち果てた姿で、それは、アゼザルが飛び去って行った時と何も変わらない状態だった。
暗闇のどこかで化け物が抱える時計の音も変わらず聞える。
そして、何も変わらないまま更に数日が経ったその夜、何者かがこの空間に足を踏み入れようとしていたのだった。
正確な位置は分からないが、それはガブリエルから離れた場所。時を刻む秒針の音に交じり、何か突き刺さるような音が聞えると、暗闇の空間に微かな月明かりが射し込んできた。
カツッ・・カツッ・・カツッ・・・
冷たい大理石の床に何か硬いものが当たる音が聞え、それがガブリエルの方へと近づいてくる。紛れもない・・・・。これは足音だ。だが、まだその姿は見えない。