他とは違うただ一人、だから特別。
生徒会室に冬馬と二人だけで残されてしまった。太陽も俊くんも、冬馬と話し合う機会をくれたんだろうけど、今ばかりはそれが余計なおせっかいにすら感じられてしまう。
冬馬が裏切りじゃないと言ってくれていても、彼が私に愛想を尽くしていないことの証明にはならない。何より、私は弥生くんを傷つけた。それも同じ失敗で、だ。過去の反省をまるで生かせなかった自分が嫌になる。冬馬と弥生くんの二人への罪悪感で押しつぶされそうだ。
「雪」
呼びかけられても顔を上げずに俯いたままの私のソファの隣が一人分の体重で凹む。そして、肩に手がかかり、軽く引っ張られるようにして引き寄せられた。頬に触れた温もりで胸が痛い。
「雪は今、俺が怒ってるって思ってない?あとは神無月への罪悪感?」
「……読心術はこういう時に便利だね」
こんなにやるせない気持ちなのに、隣にいる彼のいつもの爽やかな香りに癒されるのは、私が彼を好きだからだ。
弥生くんのような漫画から抜け出たような男の子にただの尊敬以上強い想いを寄せてもらっても、嬉しさではなくて申し訳なさや自己嫌悪しか感じないのは、彼以外を恋愛対象として見られないから。それだけ、この人だけだという感情は強い。
私の言葉にならない内心を知ってか知らずか、冬馬はこちらを覗きこむことなくドアの方を見たまま、静かで柔らかな声音で続けてくる。
「俺、怒ってないよ」
「……さっき腹立つって言ってたよ」
「俺、言ったよね?雪たちはあいつらと違うって。腹が立つのはキスのところだけ。それに……それも裏切られた怒りというより単なる嫉妬だな」
「単なる」
「うん。嫉妬って意味なら狂いそうなほどしてるけど」
「全然そんな顔してないよ?」
そっと、彼の方に少しだけ目線を上げて確認すると、言った途端に形のいい唇を寄せられて軽く唇に触れられる。
「すぐに上書きしたくなるくらいには嫉妬してる」
少し笑って言う彼を呆気にとられて見ると「やっとこっち見た」と微笑まれた。
嫉妬という物騒な言葉のわりに落ち着いた声音と、暗い気持ちも何もかも全てを浄化していくような柔らかくて綺麗な笑顔に見惚れていたはずなのに、その笑顔がぼやけていく。
「あ……れ。なんで私、泣いてるんだろう……」
嗚咽すら出せずに水が湧き出すように涙が溢れていく。
「雪は色々無自覚だからな。俺以上に、自分が傷ついていることに鈍感だろ」
「私、泣く資格なんか、ないのに……」
だって同じ失敗を二度繰り返してしまった。またゲームの犠牲者を作ってしまう。彼が退学してしまったら私の生だ。去年を思い出せばそんなバカなで笑い飛ばせない。
「泣くのに資格なんて必要?」
今度こそこちらに身体を向け、優しく包み込むように抱き寄せてくれる冬馬の腕も肩も、やっぱり弥生くんとは違う。
なんでこんなにも、安心するの。
私を焦がそうとするような弥生くんの苦くて熱い想いが、冬馬の腕の中にいるだけで薄っすらと陽炎のように消えていく。安らぎに身を任せて甘い世界に浸っていたくなる。
あぁ神様。私は悪い女です。ゲームの主人公のように、誰にでも思いやりがあって優しくて常に他人のことを考えられる聖女のような女の子には到底なれそうもありません。
もう十分でしょう?もう十分、働いたでしょう?
どうか、私を主人公から降板させて。
祈るように目を閉じた。
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しばらくして、目から流れ落ちる分はともかく、鼻から流れる水分を冬馬の服につけるわけにはいかないと思いだし、身を起こすと、なぜかくすっと笑われた。
「な、なにかおかしいの?」
「ごめん。今回は静かに泣いたなって。前、新田の時は顔ぐしゃぐしゃにして泣き叫んでたから。雪が綺麗に泣くなぁと」
「今も鼻水が垂れているような顔に向かってよく綺麗って言葉が出てくるね」
「はは。それくらい言えるようになれば大丈夫かな。本当に発散できてるか若干不安だったんだけど、少し回復した?」
「……前は、秋斗の気持ちを知ってたのに応えられなかったのもあったし、やっぱり長いこと一緒にいた彼がずっと遠くに行っちゃうことが辛かったの。今回は弥生くんは、まだ遠くに行くって決まったわけじゃない。……彼の心が帰ってくるかは、わからないけど――」
「帰ってくる」
私の尻すぼみな弱音は、しっかりした言葉で遮られた。
「あいつは俺が一番認めてる後輩だよ。あいつ次第だけど、でも俺はちゃんと向き合ってくると思ってる」
「信頼、してるんだね」
「あぁそうだよ。雪にももっと信用してほしい」
「弥生くんが帰ってくるってこと?」
「それもそうだけど、俺のことをもっと信用して。俺はああいうことがあったからって雪のことをすぐにあいつらと被せて嫌ったりすることはない。例え嫉妬で焼き尽くされそうになってもきっと雪のことは嫌いにはなれない。そしてあいつのことも」
冬馬が一瞬黙ってから、「いや、ちょっと前までは違ったかもな。でも今はそう思う」と訂正する。
「昔はさ。なんで母さんがあの女のことを憎まないのか疑問だった」
「沙織さんは人を憎めるような人じゃないでしょ?」
「確かに普通よりはそういうのに疎い。でも母さんだって人の子だよ。人なら憎む気持ちも恨む気持ちも持ってる。それなのに母さんは自分を裏切った三枝たちの母親にきちんと生きていくように言った。それはきっと母さんもあいつらの母親のことを心底は嫌えないからなのかもなって今回思ったよ」
冬馬の胸を少しだけ押し、彼の目を見て話す。
「冬馬は成長が早いね。二日前はあんなに取り乱してたのに」
「彼女が、前向きがいき過ぎてるっていうかなんていうか――自分よりずっと人生経験ある人どころか、不条理な世界にすら喧嘩売っていくような大胆な鉄砲玉だからね。彼氏の俺がいつまでも同じところで足踏みしてたら呆れられて置いていかれるだろ?」
「呆れないよ!……私は一年間足踏みしてた。だからそろそろ踏み出さなきゃいけないの。それも教えてもらったから、生かさなきゃいけないって思っただけ」
冗談めかした冬馬の言葉に、自然と泣き疲れた頬が緩んだ。
「やっと笑った。良かった。あいつも雪にあんな顔させたかったわけじゃないはずだから、雪には笑っていて欲しいんだ」
「あいつ?弥生くん?」
「も、そうだし。もう一人も」
冬馬が甘く微笑んで頭を撫でてくれてから、少しだけ頰を膨らませる。
「新田の存在や教えられたことが雪の生き方にとってものすごく大きな位置を占めてるっていうのが、気に入らない。いつだって幼馴染の絆に俺は負け通しなんだよな。俺だけが色々教えてあげたいのに」
可愛い。可愛すぎるぞ、冬馬。こんな顔、絶対誰も見たことない。
「そんなことないのに。冬馬と秋斗は全然違う存在で、少なくとも、秋斗じゃ冬馬に絶対敵わないところがある」
「そう?どのあたり?」
「こんなにあっさり私を笑顔にさせる人は他にいない。秋斗が傍にいれば安心するけど、冬馬にはそれ以上に甘えたくて仕方ないし、自分の弱いところもいっぱい晒して、丸ごと包み込んで欲しいの。そんなの冬馬だけなんだよ」
……なんだろうこのショートケーキにチョコをトッピングして生クリームをドバドバ追加して雪山にしたデラックスケーキみたいなセリフは。
言っていて恥ずかしくなってきた。冷静になるにつれて頬が熱くなっていく。
「……ごめん。言ってて糖尿病になりそう」
「せっかくいい感じに少女漫画っぽかったのに、そのあたりのツッコミが雪らしい」
「すみません。今後の黒歴史となるのを防ぐためにもちょっと時間と言葉を取り戻したいんですが」
「――俺の記憶は俺のものだから返さない」
強く抱き締められて、少しだけ苦しい。
こうして恥ずかしくなって茶化しても甘い雰囲気に戻せるスキルが、冬馬が私と付き合えている一番の理由かもしれない。
そんなとりとめもないことを考え、くすっと笑い、私もその背に腕を回す。
ごめんね弥生くん。私はどうしてもこの人が好きだ。
この気持ちは捨てられそうもない。




