覆水盆に返らず、時間はただ進むだけ。
他人に同じ苦しみを与えてしまった。同じ過ちを繰り返してしまった。
瞬きもせずにただ透明な雫を流している彼を前に、私はいつまでたっても色あせない苦しい記憶と苦みを噛みしめる。
悔やむという気持ちでいっぱいなのに、私は、彼の気持ちに応えられることはないと確答できる。なら返事は一つしかない。
秋斗と同じで、彼の方が私よりも苦しい。
一方で例え秋斗と同じ色の目をしているとしても、彼は秋斗じゃない。
私がここで二人を混同することは一番の失礼なことで、一番やってはいけないことだ。
秋斗と弥生くんは違う。
それぞれが全く違う理由で同じ状況になっているだけだ。秋斗の気持ちをすぐに受け止められずに逃げ出した私は今度こそ、彼の気持ちをきちんと受け止めなければいけない。
弥生くんの気持ちを弥生くんの気持ちとして受け止めなければ。
「弥生、くん」
私が呼びかけると、彼の視線がわずかに動き、私の口の動きを追うのが分かる。
「……ごめん。私にとってのあなたは、可愛い後輩で大切な弟の友達。私が好きなのはあなたじゃない。恋愛という意味で私はあなたを好きにはならない。ごめんなさい」
しっかりとその目を見て返す。
泣くな、今はまだ泣くときじゃない。
「ありがとう、ございます」
自分で言っていた通り、私の分かっていた弥生くんは、消え入りそうな声で答えた。
彼が答えたちょうどその時、背後からガタリと物が動く音が聞こえ、弥生くんが今度こそ――いや、今度の方がずっと辛そうな顔で振り返る。
「……いるん、ですか?」
カラカラカラと横開きの軽いドアの開く音と共に、入口に立っていたのは、気まずそうな顔の太陽とわずかに眉根を寄せた三枝くんに、固まっている祥子と葉月。それから無表情の冬馬と、彼を止めるように腕を押さえている俊くんがいた。
「……ほとんど全員、ですか……。色々と台無し、ですね」
弥生くんが苦しげに息を吐き、そのまま「すみません、今日は失礼します」と出て行こうとする。
「弥生!」
「待て神無月」
「冬馬くん、怒るのも無理ないけど、乱暴なことは……!」
「いいんです、俊先輩。僕のしたこと、見てましたよね?殴られても文句は言えません」
冬馬がその腕を引き止めた。冬馬に掴まれて皺のよった袖を見て、俊くんが割って入ろうとするのを弥生くんの方が止める。そしてそのまま視線を横にずらし、太陽と三枝くんの方を向いた。
「僕、分かりやすい行動は慎んでいたはずなんだけどな。太陽も知ってたの?」
「……五月が。いつかこうなるって」
「そっか。五月には止められたのにね、ごめん」
「……お前を止められなったのは、俺のせいだ」
乾いた笑顔を向ける弥生くんと対照的に、太陽は視線を逸らし、三枝くんは無力感を噛みしめるように下を向いた。
三枝くんは今の状態が冬馬のご両親の事情と被ることも知っていたのだろうから、こうなることを恐れていたのかもしれない。
彼から向けられる視線がそれほど好意的でなかった理由も痛いほど分かって笑いだしたくなる。
彼が私に好意的じゃない?――そりゃそうだ。私は大事な妹を心酔させ、冬馬との確執を深めさせるかもしれない元凶かもしれなかっただけじゃなく、大事な幼馴染を傷つけることが最初から分かり切っている悪い女なのだから。
「俺は!」
太陽が弥生くんに逸らしていた目を合わせた。
「別に俺は。……お前に文句言うとかねーよ」
「幻滅しないの?尊敬する先輩の彼女に手ぇ出そうとしたんだよ?お前の一番大事なお姉さんに」
「しねーよ。弥生がそこまでするくらいなんだろ?それに……こういう気持ちって抑えられねーだろうことくらいは分かるから」
太陽の即答に弥生くんが驚いたように一歩足を引いた。太陽が恋愛に肯定的になったのはもしかしたらそこにいる本物の主人公のおかげかもしれない。
私は、なにをしているんだろう。転生者らしくゲームから周りの人を助けることも出来ず、かといって、ヒロインらしく前向きにさせることも出来ずに大事な人たちを傷つけていく。私は一番たちが悪い。
「雪、ちょっとそこにいて。まずはこいつと話さなきゃいけないから」
冬馬の声にぼんやりとしていた頭が急速に回って、一番恐ろしいことに気が付く。
私の立場は、彼のお父さんと同じところだ。
冬馬が一番嫌って憎んでいる相手と同じことをした私も彼に嫌われる?
どれほど好きだと思ってくれていても、いや想ってくれているからこそ、裏切られた時の反動は大きいはず。
そう考えたらさっきとは比べものにならないくらい恐ろしくなった。戦慄する。震えが止まらない。
「雪さん、落ち着いて。顔色が悪い」
「し、俊くん」
「そこに座って落ち着こう。冬馬くんは我を忘れてないから大丈夫だと思う」
比喩でもなんでもなく目の前が真っ暗になってふらついた体を俊くんが支えてくれて、お水まで持ってきてくれる。
「上林先輩。僕は――」
「知ってたよ」
「……は?」
「お前が雪のことを好きなことぐらい、知ってた」
「……なんで!いつ……」
入口の方からは声が聞こえるのに、顔なんかあげられない。
お水が毒が入っているんじゃないかと思ってしまうくらい、苦くて酸っぱい。
「花園の時に言っただろ。自分の彼女を好きなやつくらい分かるって。前から俺に対して変な遠慮したり、申し訳なさそうな顔してたりしてただろ。はっきり分かったのは新聞部取り潰しの演技の時だよ。お前の雪に対する目が本気だった」
「お見通し、なんですね。先輩には敵わないな。ほんと」
乾いた笑い声の後、弥生くんは冬馬に訊いた。
「じゃあ、どういうつもりで僕を見てたんですか?」
「最初に気づいた時は、ショックだったよ。こんな風になるのは、因果なのか、それとも何かに仕組まれているのかってね。」
冬馬はゲームが元って知っている。私から話を聞いた時、その後。冬馬はどういう思いで自分を慕う後輩と私のことを見ていたんだろう。あの新聞部の時もどういう思いでいたんだろう。
胸が締め付けられそうになり、思わず重い頭を上げて冬馬の方を向く。
「でも見守った」
「何故です!?僕を笑うためですか?!敵わないだろってあざ笑うためですか?!」
「お前も雪もあいつらとは違うから」
悔しそうに、苦しそうに声を裏返らせ、弥生くんが叫んだが、冬馬は静かに答えるだけだった。
「お前も自分の感情を持て余しているように俺には見えた。ずっと逡巡して、自分を責めてた。言わないで済ませられるなら言わないように、悟られないようにしようと思ってただろ?雪だってお前に言われてもはっきりと断った。あえて煽ってその関係に持ち込んだあの男とは違う」
「でもっ!」
「太陽くんの言う通り、そんな気持ちは抑えられない。きっかけすら分からずその渦に否応無しに巻き込まれて翻弄される。俺もそうだったからお前の気持ちも分かる。だから、俺はお前に雪に惚れるなとは言えなかったし、雪がお前を後輩として大事に思ってるのに引き離そうとは思わなかったよ。そしてそれは俺にとっても同じだ」
冬馬の静かな声の後、誰も声を発しない教室で、しばらくしてからぽつりと、小さく呟かれた弥生くんの声は大きく聞こえた。
「……でも僕、雪先輩に……」
「その点は腹立たしい。だからお前にはそれ相応の償いをしてもらいたい」
「はい。だから僕はここから」
「逃げるな」
「…は?」
「お前の生徒会での次期会長という立場から、弓道部から、日常生活から、逃げるな。太陽くんの友達で雪の後輩で、それから俺の一番の後輩でい続けろよ」
弥生くんは驚いたように目を大きくした後に、くしゃりと美しい顔を歪めた。
「……それは一番きついです」
「あぁそうだよ。お前に残酷なことを要求する。一番きついことを乗り越えてみろよ。それと俺がお前のことをどれだけきちんと認めてるか噛み締めろ」
冬馬はそれだけ言って弥生くんの腕を離した。
弥生くんは押し黙って唇を強く噛むと何も言わずに外に出て行き、その後を三枝くんが追いかけていく。三枝くんが葉月を一人で置いていくのなんて初めてだ。
「太陽くんはいいのか?」
「あんまり大人数で行ってもあいつが嫌がるだけでしょう。幼馴染には勝てませんから俺はいいです。それより……わんこ、三枝」
「な、何?!」
「なんですの?」
「お前らあっち行くぞ。今はここにいない方がいいだろ。先輩たちの邪魔だ」
太陽が二人の背中を押し生徒会室の外に出してから、自分も外に出ると、そこで初めて私に声をかけた。
「ねーちゃん。これに懲りて色々自覚しろよ。弥生が可哀想だ。……秋斗にぃも」
「……ごめん」
「別にねーちゃんのこと責めてるわけじゃねーから誤解すんなよ?ねーちゃんが色んな人を惹きつけるのは分かっているし、それはねーちゃんのいいとこだろ。けど、そのことに無自覚なのはいいことばかりじゃねぇから。……でも、あいつのこと、ちゃんと解放してくれてありがとう」
太陽の言葉が耳に痛い。心に刺さる。
「それから上林先輩」
「何?」
「あなたのこと、ほんの少しだけ認めてもいいです。昨日のことを知った後だからこそ言っておきます」
私から見ればこの子は突っ張って一刻も早く大人になろうとする子供にしか見えなかったけど、今は本当に精神年齢の高い男の子に見える。ただ冬馬に噛み付くだけの小ちゃい弟ではなくて、一人の男になっていく。
私だけ、いつも置いていかれる――と、前は思っていた。
でも今は違う。
私は成長する努力をしてないだけだ。
太陽は、冬馬に言い捨てるようにした後、一年女子二人に「行くぞ」と言ってそこを離れ、一年生が退出した。
「し、師匠」
――と思ったが、祥子だけがひょっこりとドアから頭を出す。
「あとで、ご相談しなきゃいけないことがあります。今はいいので、ご連絡していい時にご連絡ください。できれば横田先輩も一緒に」
「……うん。わかった」
今度こそ一年生を見送った後、私をソファに座らせていた俊くんも立ち上がった。
「僕も一旦出るよ。二人で話したいこともあるでしょう?」
「出るなら私たちの方が出るよ」
「みんな行っちゃったから変わらないよ。こめちゃんのところ、手伝いに行ってくるね。雪さんはくれぐれも無理しないようにね?」
俊くんも私の制止を気に留めずに苦笑するとそのまま生徒会室を出て行った。
気づけば、とうの昔に二年生編だけで100話超えていました。ここまでお読みいただき、ありがとうございます。




