囚われの王子様に、解放のキスを。(冬馬動乱編その15)
駅に向かうまでの道も電車の中も、お互いに黙り込んだままだった。冬馬とは喧嘩らしい喧嘩をしたことがないから分からないけど、喧嘩したらこうなるのかもしれない。でも今回のは喧嘩ですらない。それよりずっと根が深い。
私の横に立つ彼は、駅に着くまで私を見ることもなくぼんやりとした瞳のまま窓の外を眺めていた。
駅に着いて冬馬が「それじゃ」と言いかけたのを無視して冬馬の家の方向に向かって歩くと、後ろから咎めるような声が追ってきた。
「雪はそっちじゃないだろ」
「今の冬馬を一人にしておくことなんて出来ないよ」
夜道を歩きながら話す。こちらの方角は高級住宅街だ。駅前の喧騒から離れていて、かつ塀が高いお家が多いせいか室内の音も聞こえない。
ただ暗く静寂な中でたまに街頭の光があるだけだ。
それは皮肉にも、沙織さんを守るという支えを頼りに暗い中で生きてきた冬馬のようにも思えた。
「なんで?義務感?」
「違うよ。義務なんてそんな強制的なものじゃない。単に一緒にいたいだけ」
言ったと同時に強く腕を引かれてドン!と近くの塀に押し付けられた。私と彼のバッグが道路に転がるのも彼の目には入っていないんだろう。いつもとはまるで違う、強制的で抵抗を許さない乱暴な動きだった。
「雪。俺が怖くないの?」
黒い瞳が至近距離で私を見つめる。いつもなら安心できる彼の眼差しの奥に、暗く、底知れない感情が渦巻いている気がして身震いする。
「……怖いよ」
「ならなんでついてきた?今の俺は人として危ないって太陽くんだって言ってたはずだ。今日あの女が俺をあの男の名で呼んだ時、雪が出てこなかったら、俺はあの女を殴ってた。正直に言って1年に1度あの男に顔を合わせるたびに俺は、あいつをどう苦しめて殺してやろうと考えてるくらい憎んでる。母さんを一番に慕って、母さんが一番信頼してたのに、それを裏切ったあの女も憎い……!」
いつも冷静で声を荒げることない冬馬が、叫ぶように吠えた。
冬馬は以前、沙織さんと冬馬のお父さんは政略結婚のようなもので、愛はなかったと言った。
でもよくよく聞けば、冬馬の話は矛盾している。
もし沙織さんと冬馬のお父さんとの間に一度も愛がなかったのであれば、沙織さんは自分の身の上を嘆くことはあっても、苦しむことはなかった。
もし彼が、後継ぎという義務によって生まれただけなのであれば、空虚な彼がいることの説明はつくけれど、それほどまでに父親という存在を恨むことはない気がする。
後継ぎを求め、沙織さんに結婚を求めた祖父ではなく、父親を強く憎む理由――それは、沙織さんと冬馬のお父さんとの間に恋情があって、その結果としても冬馬が生まれて、幸せを一度味わった後に裏切り、という名の地獄に落とされたからだ。
信頼が強ければ強いほど、愛しいという気持ちが強ければ強いほど、その憎しみも増すのかもしれない。
そして、人の感情の機微に敏い冬馬は、たった一人でこの複雑な心情の絡まり合いの中にとどまっているように見える。
もし、にこやかで爽やかな優等生という自分を作り、その人格をも防御壁として自分を守っているのならば、暗く澱んだ沈みの中に一人でいる彼もまた冬馬だ。
そして、私が好きなのは、「何でもできる優等生で大人の冬馬」ではない。「上林冬馬」というその人なのだ。
「怖い、けど、優しい冬馬も今の冬馬も、冬馬だと思ってる」
「俺が優しい?はは、そんなの仮面に過ぎないよ。逃げたいだろ?逃げていいんだよ。今なら逃げられる」
「私はどんな冬馬も好きだって言ったはず。その感情も、受け入れたい」
「受け入れる、ね。雪、気づいてる?震えてるよ」
小刻みに震える肩を見て、冬馬がふっと蔑みを籠めた笑みを浮かべた。
「前に一度俺が無理矢理迫った時、俺が俺じゃないみたいで怖いって言って抵抗しなかったっけ?」
「うん。怖い。それは変わってない。けど、今は、怖いからって拒絶するつもりはない」
「へぇ。本当に?」
そう言った彼は無理矢理私の唇を奪った。宣言通り、前に彼が無力感で我を忘れた時と同じ、思いやりなんて欠片もないような蹂躙するようなキスだ。歯が唇に当たって切れたのか、わずかに血の味がする。
それでも私は押さえつけられた手を振りほどこうとは思わない。傷が残りそうなくらい壁に強く手を押し付けられていても、その痛みは彼よりはまし。きっとこれをして一番傷ついているのは冬馬だ。そして肉体の傷よりも、心の傷の方が深く、治るのに時間がかかる。
少しして、彼は口を離した。息ができずにいたところから急激に入ってきた空気に咳き込む私を見て、彼は辛そうに顔を歪めた。
「なんで……なんであの時みたいに抵抗しないの?」
「けほっ、抵抗する必要がないから」
「……こんな風に傷つけたのに?」
私を押さえつけていた手を下ろし、その指が私の唇に触れる。彼の長い人差し指に赤い跡がついた。
白い指につく赤い血液が街頭に照らされて夜闇に鮮やかに浮かび上がる。
「冬馬の心の方がよほど傷ついてる。私の怪我なんて大したことない」
去年の夏の生徒会合宿で桜井先輩がほとんど初対面の冬馬に「君は繊細そうだ」と言っていた。
桜井先輩は慧眼だ。特に人を見る目に関しては誰よりも正確で素早い。
その時、不思議だなとは思っていた。だって体格は俊くんの方がよっぽどもやしだったし、彼は私のあしらいをモノともしないくらい強靭な精神力があったから。
けれど今なら分かる。
冬馬にはいつも綱渡りをしているような危うさがある。彼の優等生の側面とこういう我を忘れて自他共に傷つける側面は表裏で、そして彼にとっては諸刃の剣なんだろう。
「なんで……なんでだよ、雪」
冬馬が私の肩口に一度額をつけて呻いた。
「……俺は、母さんのことを妻として愛すると決めたはずなのに全うしなかったあの男も、母さんを裏切ったあの女も、憎い。母さんと俺を殺しかけたあの二人を殺してやりたいと思った。それだけじゃない。そういうことを知ってて影でずっとコソコソと話だけして助けようとすらしなかった上林の一族も、あの男を母さんと結婚させた祖父さんも……それから、日に日にあの男に似てくる俺自身も」
眉根を寄せて、心底不愉快そうに、冬馬が言葉を絞り出す。
「特に俺は、あの男に何もかも似てるんだ。能力も、背格好も。顔なんて生き写しと言われるぐらい。母さんを喜ばせるために優秀になろうとしていたはずなのに、なればなるほどあいつに似てくる。それを見て母さんはどう思ってるのかそんなの分かる」
私の頰に手を添える彼の瞳は酷く傷ついていて揺れている。
「こうやって雪のことまで――大切にしたい女性まで傷つけてしまう。あいつと同じだ。俺は、俺が大嫌いだ……!」
暗く、そしてどこか悲しげにこちらを見る彼は、感情をむき出しにして、私にぶつかってくる。胸の内を吐き出す彼を、ようやく見られた。見せてくれた。
「だから」
震える吐息で、彼は言う。
「早く俺を嫌って。これ以上俺が雪を傷つける前に」
冬馬って、本当は嘘がすごく下手なんだなぁ。
その黒檀のように黒い瞳は、口よりも雄弁に彼の気持ちを物語っているというのに、まるで気づいてないんだから。
「冬馬、聞いて? 」
私が、自分の頰に触れる彼の手にそっと自分の手を重ねて彼の傷ついた瞳を見て話しかけると、彼の瞳が今にも泣きだしそうに揺れた。
「私、冬馬のこと好きだよ。冬馬が自分のことを嫌いでも、私は冬馬のことが大好きだよ。嫌いになんてなれない」
彼と去年の私は似ている。だから分かる。
彼は裏の自分を晒してそれを拒絶されることが怖いだけだ。自分が傷つかないように嫌いになるように仕向ける。でも心の奥では人を恋しいと思ってる。本当は無条件に受け入れて欲しいと思ってる。
そうじゃなきゃ、10歳という齢で自分からお母さんに悲しいか尋ねたりしない。
「ねぇ冬馬、冬馬は私が去年なんでみんなから逃げ回ってたか知ってる?」
彼が答えるのを待つことはなく続ける。
「怖かったからなの。私には前世の記憶がある。前世の私は恋愛で傷ついて、そして人生自体もあっという間に、不条理に、終了させられた。大切な人みんなに、感謝も謝罪も出来ないままここに来たの。大切な人がいればいるほど、別れることは辛い。それこそ吐きたくなるくらい。だからね、この世界で大事な人を作ることが怖かった。その人たちを失ったら今度こそ立ち直れなくなりそうで。だから壁を作ってその中に閉じこもってた」
頰に添えられた彼の手を取り、自分の両手で包み込む。
「去年冬馬が言ってた通りだよ。私と冬馬は似てる。壁を作ってその内で篭ってる。私の壁が氷なんだとしたら、冬馬の壁は荊だね。トゲトゲで冬馬自身も傷つけてる」
私の壁は大切な幼馴染が溶かしてくれた。
私には彼のように温かく、そして完全にそこから中の人を引っ張り出すような力はない。
でも、それを崩す手伝いくらいなら出来ると思いたい。
彼が幼馴染で、だからこそその言葉が私に届いたように、冬馬の恋人としての私の言葉も冬馬に届いてほしい。
「冬馬」
呼びかければ、彼は小さく身じろぎした。
「その荊は痛いよね?」
冬馬の黒い瞳を真っ直ぐに見返して、笑いかける。
私は、幼馴染の彼が私に暫しのお別れを告げた時のように、すべてを受け入れる顔が出来たかな。
「私も一緒にかき分けてあげる。冬馬が傷ついたら私が癒してあげる。冬馬が自分を嫌いなら、その分私があなたのことを好きになる。だからさ?」
彼の体に抱きついて背中に腕を回す。
「一緒に、いさせて?」
手で背中をさすると、彼が震えるのを隠すようにぎゅっと強く抱き返してくるから耳元で小さく呟いた。
「見ないでいるから、我慢しなくていいよ。泣くなら、私のところで泣いてよ、冬馬」
男の子は泣いてる姿を見せなくないもんね。
そう言ったすぐ後、小さい嗚咽が聞こえた。
しばらくして、冬馬が私から身を離した。涙に濡れた黒い瞳や頬に伝った涙の跡が街頭の光を反射する。
こんな時に不謹慎だけど、綺麗な男の子が泣いている姿というのは絵になるなぁ。幻想的な美しさだ。
「……俺、母さんとか身内のことで初めて泣いたよ。今まで一度も泣けなかったのに。泣くなんてこと、思いもつかなかった。泣きたいとも、思えなかった」
「泣くのって自浄作用があるらしいよ?ちょっとすっきりした?」
「大分ね。あんなやつらに囚われてる自分がバカバカしくなってくる」
「それってちょっと前に進めたってことじゃない?」
笑うと冬馬が手を伸ばす気配がした。
そっと頬を両手で包み込まれ、自然に唇が重なる。
あぁ、いつもの冬馬のキスだ。優しくて思いやりにあふれた、重ねるだけのキス。
顔が離れてから右頬に当てていた手をずらして唇の端をなぞられる。
「ごめん、雪。痛かったよな」
「大したことない。ご飯食べてて自分で舌噛んじゃった時の方が痛いくらいだよ。あれ、地味に痛いじゃない?」
「DVになるのかな、こういうの」
「おおげさな!ならないでしょ。それに冬馬、別に本気で私を傷つけようとしているわけじゃないじゃない?蹴とばしたり殴ったり首絞めたり?」
「どんなに振り切れてても、雪にそれをするくらいなら俺は身投げする」
冬馬は糸が切れたように、はぁ、とため息をついて俯いた。
「ほとほと自分が嫌になるよ。これ以上自己嫌悪することはないと思ってたんだけどな」
「じゃあその分私が好きになるよ。私は冬馬の全部が大好きだから」
「ありがとう、俺を受け入れてくれて」
「ううん。今回のこと、私こそ謝らなきゃいけないの。冬馬はこれを知られたくなかったのに、追いかけて暴くようなことしちゃった。ごめんね?」
謝れば、今度こそ私の言葉は彼に届いたらしい。きゅっと優しく、温かい冬馬の腕に包まれる。
「さっきあの人と話してた時さ、最後、俺あの人を殴る寸前だっただろ?あの時の顔、見られたらきっと嫌われる、それぐらい醜く歪んでた。だから雪に見られたくなかっただけなんだ」
「覗き魔に寛容だね。嫌いになんて、ならないよ。どんな冬馬も受け止めるよ。やっとその面を私に晒してくれて嬉しかった」
冬馬が身を離して信じられないって顔で目を向くから、笑って続ける。
「冬馬のささくれた心が見たかったんだ。見せてもらえるくらい信頼されたかった。信頼されているって感じたかったの」
「してるよ。この世で一番」
「ならいいんだ。私、冬馬の保湿クリームになるから」
「………は?」
「ささくれたところには塗るでしょ?冬馬の心がささくれてる時は私が保湿してあげる」
「ぷっ!!なんだよそれ!あははは!!この深刻な場面で保湿クリームとか言う?」
笑う冬馬はどこか吹っ切れたように明るくて、それがとても嬉しい。
「一家に一人おすすめされるくらいには性能のいいクリームになることを目指します」
「だめ」
「え」
「一家に一人じゃなくて、俺専用でよろしく」
笑った冬馬はいつもの冬馬より少しだけ幼い。さっきまでの薄暗い影はどこかに消えていた。
ねぇ秋斗?私は去年よりも強くなれたかな?
あなたとの約束通り、私は前に進むことが出来ているかな?
冬馬動乱編、これにて完結です。長く暗い編でしたが、ここまでお付き合いいただきありがとうございました。




